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雲の上の道の駅
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# 雲の駅で待つ少年と刺抜き地蔵の奇跡
## 作品紹介
**「僕は、空の下で待っている。雲の上からの帰り道を知る人を…」**
山奥の「道の駅 雲の上」で偶然出会った、記憶を失くした少年と古びた刺抜き地蔵。
行き場を失くした二人が紡ぐ、一夏の不思議な物語。
都会での挫折から逃げるように旅を続ける青年・陽介は、霧に包まれた山道で迷い込んだ「道の駅 雲の上」で、不思議な少年・空(そら)と出会う。
空は自分が何者なのか、どこから来たのかを覚えていない。ただ、「空の下で誰かを待っている」という強い思いだけを抱えていた。
駅長から聞かされる土地に伝わる「さすらいの刺抜き地蔵」の伝説。苦しむ人々の痛みを抜き取るという不思議な力を持つその地蔵は、いつからか姿を消していたという。
ひょんなことから駅で働くことになった陽介は、空とともに刺抜き地蔵の謎を追うことに。やがて明らかになる、この土地に隠された秘密と少年の正体。
空と地蔵、そして陽介の魂を癒す旅は、予想もしない奇跡へと彼らを導いていく—。
現実と幻想が交錯する山間の「道の駅」を舞台に、失くしたものを取り戻す旅を描いた、心温まるファンタジー短編。
---
## 第一章 雲の上の道の駅
霧が濃くなった。
陽介は車のスピードを落とし、フロントガラスを覗き込むようにしながらハンドルを握りしめた。カーナビは圏外を示し、地図上では山道を示す細い線が蛇行していた。「峠を越えれば町に着くはずなんだが…」
三時間前に高速を降りてから、ひたすら細い山道を走り続けている。行き先など決めていなかった。ただただ東京から離れたかっただけだ。会社を辞め、彼女にも振られ、引っ越しも終えた。何も持たない身軽さが良かった。でも今は、この霧の中で道に迷っていることを少し後悔していた。
「あれは…」
霧の向こうに小さな明かりが見えた。減速しながら近づくと、「道の駅 雲の上」と書かれた木製の看板が現れた。駐車場に車を滑り込ませると、風情のある木造の建物が見えてきた。時刻は午後6時半。夕暮れ時だが、霧のせいでもう辺りは暗かった。
駅内は意外と広く、地元の農産物や工芸品が並んでいた。観光客らしき人は見当たらず、カウンターには白髪の老人が一人、新聞を読んでいた。
「いらっしゃい」老人は新聞から顔を上げ、陽介に笑いかけた。「あいにく今日は霧が出て、景色は望めないねぇ。晴れた日なら、ここからは雲海が一望できるんだよ。まるで雲の上に立っているようでね、それで駅の名前になったんだ」
「そうなんですか。実は道に迷ってしまって…」
「ははは、よくあることさ。カーナビも携帯も圏外になるからね。天気が良くなれば道も見えるさ。今日はもう暗いし、ここで一晩過ごすといいよ。奥に休憩室があって、簡易ベッドが用意してある。旅行者用にね」
「ありがとうございます」陽介はほっとした表情を浮かべた。
「晩飯なら食堂もあるよ。今なら間に合う」
駅長と名乗った老人の勧めで、陽介は食堂へと向かった。地元の山菜を使った定食を注文し、窓際の席に座った。窓の外は真っ暗で、自分の顔が映り込むだけだった。
ふと、店の隅に一人の少年が座っているのに気がついた。十二、三歳くらいだろうか。短い黒髪に、少し大きめの白いTシャツ。宿題でもしているのか、紙に何かを書いている。この時間に子供が一人でいるのは珍しいと思い、陽介は気になって見ていた。
少年は時々外を見るように窓に目をやり、また紙に向かう。何度か繰り返した後、少年はふっと立ち上がり、陽介の方を見た。目が合う。
「あの、すみません」少年が近づいてきた。「これ、描いてもらえませんか?」
差し出された紙には、簡単な地図のようなものが描かれていた。道の駅を中心に、周囲の山や道が書かれている。
「僕、絵が下手で…」少年は恥ずかしそうに言った。「もっと上手に描いて欲しいんです」
「ああ、いいよ」陽介は思いがけない頼みに戸惑いながらも、紙を受け取った。「でも、なんの地図なの?」
「僕が探しているものの場所です」少年は真剣な表情で答えた。「刺抜き地蔵を探しているんです」
「刺抜き地蔵?」
「はい。この辺りに伝わる地蔵らしいんです。痛みを抜いてくれるって…」
少年の説明を聞きながら、陽介は地図を見た。何か引っかかるものがあった。デザイン会社に勤めていた経験から、地図をもっと分かりやすく直せそうだった。
「君、名前は?」
「空…です」少年は少し躊躇した後に答えた。「空と書いて、そらと読みます」
「空か。珍しい名前だね」陽介は笑った。「僕は陽介。よろしく」
---
## 第二章 さすらいの刺抜き地蔵
翌朝、陽介は驚くほど清々しい目覚めで眼を開けた。簡易ベッドは思ったより快適で、山の澄んだ空気のせいか、久しぶりに熟睡できた気がした。
窓の外を見ると、昨日の霧はどこへやら、青空が広がっていた。遠くには山々が連なり、その間に雲海が広がっている。まさに「雲の上」という名にふさわしい絶景だった。
食堂で朝食を取っていると、駅長が声をかけてきた。
「よく眠れたかい?」
「はい、とても」
「今日は晴れたから、道もはっきり見えるよ。でも、せっかくだから少し滞在していったらどうだい?この辺りには見どころもある」
「実は…」陽介は昨夜のことを思い出した。「刺抜き地蔵というのを知りませんか?昨日、空という少年から聞いて…」
駅長の表情が一瞬固まった。
「空?ああ、あの子か…」駅長は少し間を置いてから話し始めた。「刺抜き地蔵はね、この山の伝説なんだ。むかし、この辺りを旅する人々の痛みを癒したという地蔵様さ。体の痛みだけじゃなく、心の痛みも抜いてくれるって言われている」
「本当にあるんですか?」
「あったんだよ。でも今は…」駅長は言葉を濁した。「さすらいの地蔵って呼ばれていてね、時々姿を消すんだ。最近は見た人がいない」
その時、食堂の入り口に空が現れた。
「おはよう、陽介さん」昨日より少し元気そうに見える。「地図、描いてくれました?」
「ああ、ちょっと手を入れたよ」陽介はカバンから取り出した紙を渡した。デジタルツールこそなかったが、宿泊室にあった色鉛筆で地図を整理し、分かりやすく書き直していた。
「すごい!」空の目が輝いた。「これなら探せる気がします」
「空、刺抜き地蔵を探しているのか?」駅長が尋ねた。
空はうなずいた。「見つけたいんです。大事なことがあるから…」
「でも、それは…」駅長が言いようとしたとき、外から車が到着する音がした。
「あ、お客さんだ。ちょっと失礼」駅長は立ち去った。
空は陽介の方を見た。「陽介さん、一緒に探してくれませんか?」
断る理由はなかった。どうせ行き先も決めていなかったし、この穏やかな山の風景も悪くなかった。何より、空の真剣な眼差しに、何か引かれるものがあった。
「いいよ。でも、なんで地蔵を探してるの?」
空は少し俯いた。「僕、自分のことをよく覚えてないんです。ここに来たことは覚えてるけど、どこから来たのか、家族のことも…」
「記憶喪失?」
「たぶん。でも、刺抜き地蔵なら何か分かるような気がするんです。夢で見たんです。僕が地蔵を見つけると、帰り道が分かるって」
陽介は黙って空を見つめた。理解はできなかったが、何か手伝いたいという気持ちが湧いてきた。
「分かった。じゃあ、探してみよう」
その日から、陽介の滞在は延びることになった。
翌日から、空と一緒に周辺を探索し始めた。空が覚えている断片的な情報と、描き直した地図を頼りに、山道を歩いた。
三日目、駅長から思わぬ提案があった。
「陽介くん、良かったら道の駅で働かないか?」
「え?」
「実はスタッフが一人、急に辞めてしまってね。短期でもいいから手伝ってくれると助かる。空も喜ぶと思うよ」
陽介は考えた。東京に戻る予定もなかったし、貯金は十分あったが、何もしないで過ごすよりは充実するかもしれない。
「分かりました。お手伝いします」
こうして陽介は、道の駅のスタッフとなった。空は毎日、陽介の仕事が終わるのを待って、一緒に地蔵探しに出かけた。地元の年配者から話を聞いたり、古い資料を調べたりしながら、少しずつ情報を集めていった。
そして一週間後、ある発見があった。
---
## 第三章 痛みを抜く者
「陽介さん、これ!」
空は古い写真を見せた。道の駅の資料室で見つけたという。三十年ほど前の写真で、山の中の小さな祠の前に地蔵が立っている。苔むした石の地蔵で、穏やかな表情をしていた。
「これが刺抜き地蔵?」
「はい!場所も分かります。写真の背景の山の形が特徴的で…」
空の言う通り、写真の背景には特徴的な形の山が写っていた。陽介達が描いた地図と照らし合わせると、道の駅から北西に3キロほど離れた場所のようだった。
翌日、二人は早朝から探索に出かけた。山道を登り、木々の間を縫うように進んだ。空は妙に自信たっぷりで、迷うことなく先導していった。
「ここだ!」
空が立ち止まった場所は、小さな開けた場所だった。確かに写真の風景に似ていたが、祠も地蔵も見当たらなかった。
「ない…」空の声が落胆に染まった。
陽介は周囲を見回した。地面には石の破片が散らばっていた。
「これは…」陽介が拾い上げたのは、石仏の一部らしきものだった。「壊れてしまったのかな」
空は黙って石の破片を見つめた。その目に涙が浮かんでいる。
「大丈夫、他にもあるかもしれないよ」陽介は空の肩を抱いた。
その瞬間だった。空の体が一瞬、透けて見えたような気がした。陽介は目を擦った。疲れているのかもしれない。
帰り道、空は黙ったままだった。道の駅に戻ると、駅長が心配そうに二人を迎えた。
「見つからなかったのか」
陽介は首を振った。「壊れてしまったみたいです」
駅長は深いため息をついた。「実はな…刺抜き地蔵には言い伝えがあるんだ。地蔵は人の痛みを抜く力を持つが、抜いた痛みはどこかに移さなければならない。昔は地蔵自身が痛みを引き受けていたそうだ。でも、あまりに多くの痛みを抱え過ぎて、最後には耐えられなくなった。それで姿を消したり、壊れたりするんだと言われている」
空は静かに聞いていた。
「でも、もう一つ言い伝えがある。地蔵の魂は消えずに、新しい器を求めてさまよう。『さすらいの刺抜き地蔵』と呼ばれるゆえんだ」
「新しい器?」陽介は思わず尋ねた。
「そう。時には人の形を借りることもあるという…」駅長は空を見た。
陽介も空を見た。空は窓の外を見ていた。空の下を見ている。
---
## 第四章 雲の上から
その夜、陽介は眠れなかった。駅長の言葉が頭から離れなかった。空の正体は…?
翌朝、空は現れなかった。いつもなら朝食時に顔を出すのに、姿が見えない。陽介は仕事の合間に道の駅の周りを探したが、見つからなかった。
「駅長、空を見ませんでしたか?」
「いや、見ていないよ」駅長は何か言いたげに陽介を見た。「実はな、陽介くん。空のことを話しておきたいことがある」
駅長の部屋に通された陽介は、驚くべき話を聞いた。
「十年前、この山で遭難事故があった。東京から来た家族連れで、霧の中で道に迷ったんだ。捜索隊が見つけたとき、両親は亡くなっていた。でも、子供だけは見つからなかった。その子の名前が…」
「空…」陽介は呟いた。
「そう。捜索は一ヶ月続いたが、見つからなかった。山の神様が連れていったという噂も出た。でもある日、道の駅に一人の少年が現れた。名前を聞くと空だと言う。でも、自分のことはほとんど覚えていなかった」
「それが…」
「空は何年も道の駅の周りをさまよっていた。姿を見せたり消したり…まるで刺抜き地蔵のように」
陽介は息を飲んだ。
「でも、空は実在する。触れることもできる」
「私にも分からない」駅長は首を振った。「ただ、空が現れるのは、何か痛みを抱えた人が道の駅に来たときだけなんだ」
陽介は自分の胸に手を当てた。確かに、彼は痛みを抱えていた。会社での挫折、恋人との別れ、孤独…
「空を探しに行くよ」陽介は立ち上がった。
駅長は頷いた。「行ってやってくれ。あの子も、きっと陽介くんを待っている」
陽介は地図を手に、石仏のあった場所へと向かった。途中、霧が立ち込め始めた。視界が悪くなる中、必死で前に進んだ。
そして、開けた場所に着いた。空がそこに立っていた。
「空!」
振り返った空の顔は、涙で濡れていた。
「陽介さん…僕、思い出したんです。全部…」
「君は…」
「僕は、ここで亡くなったんです。両親と一緒に…」空の姿がまた一瞬、透けた。「でも、刺抜き地蔵が僕を助けてくれた。痛みを抜いてくれた。でも、その代わりに…」
「地蔵は壊れてしまった」陽介は言葉を継いだ。
空は頷いた。「地蔵の魂が僕と一つになったんです。だから僕は、痛みを抱えた人を助けることができる。陽介さんみたいな…」
陽介は黙って空を見つめた。
「陽介さんの心の痛み、僕が抜いてあげることができます。でも、そうしたら僕は…」
「消えてしまうの?」
「はい。僕は刺抜き地蔵として最後の仕事をして、やっと成仏できる。でも、それでいいんです。十年も彷徨っていたから…」
陽介は迷った。空を失いたくなかった。でも、空を引き留めることは、自分の痛みと共に生きることを意味した。そして、空を永遠に彷徨わせることになる。
「空…」陽介は空に近づき、抱きしめた。「君のおかげで、僕は自分の痛みと向き合うことができた。もう大丈夫だよ」
「本当に?」空の目が陽介を見上げた。
「うん。だから、もう安心して行っていいよ」
空の顔に、安堵の表情が広がった。「ありがとう、陽介さん…」
空の体が光り始めた。その光は次第に強くなり、陽介の視界を覆った。
「さようなら…」
光が消えたとき、陽介の腕の中には何もなかった。ただ、胸の痛みも消えていた。
---
## 終章 空の下で
一年後、陽介は再び道の駅「雲の上」を訪れていた。
あの日以来、彼は東京に戻り、新しい仕事を始めた。小さなデザイン事務所を立ち上げ、地方の観光案内や地図づくりを手がけていた。そして、時々この道の駅に来ては、駅長と話をし、山の風景を眺めていた。
駅の前には、新しい石仏が置かれていた。陽介が建てたものだ。刺抜き地蔵に似せて作られたその石仏は、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「今日も良い天気だね」駅長が隣に立った。
「はい。空も綺麗です」
「空は元気にしているかな」
「きっと…雲の上で見守ってくれていると思います」
二人は青空を見上げた。そこには、まるで少年の笑顔のような形の雲が浮かんでいた。
「そろそろ行きます」陽介は駅長に告げた。「また来月」
「ああ、待ってるよ」
陽介は車に乗り込んだ。バックミラーには石仏が映っている。時々、その石仏の横に少年が立っているように見えることがあった。
幻か、現実か。それはもう、重要なことではなかった。
陽介は痛みを知り、それを受け入れることを学んだ。そして時に、誰かの痛みを分かち合うことの大切さも。
車は山を下り始めた。空の下で、新しい旅が続いていく。
(終)
## 作品紹介
**「僕は、空の下で待っている。雲の上からの帰り道を知る人を…」**
山奥の「道の駅 雲の上」で偶然出会った、記憶を失くした少年と古びた刺抜き地蔵。
行き場を失くした二人が紡ぐ、一夏の不思議な物語。
都会での挫折から逃げるように旅を続ける青年・陽介は、霧に包まれた山道で迷い込んだ「道の駅 雲の上」で、不思議な少年・空(そら)と出会う。
空は自分が何者なのか、どこから来たのかを覚えていない。ただ、「空の下で誰かを待っている」という強い思いだけを抱えていた。
駅長から聞かされる土地に伝わる「さすらいの刺抜き地蔵」の伝説。苦しむ人々の痛みを抜き取るという不思議な力を持つその地蔵は、いつからか姿を消していたという。
ひょんなことから駅で働くことになった陽介は、空とともに刺抜き地蔵の謎を追うことに。やがて明らかになる、この土地に隠された秘密と少年の正体。
空と地蔵、そして陽介の魂を癒す旅は、予想もしない奇跡へと彼らを導いていく—。
現実と幻想が交錯する山間の「道の駅」を舞台に、失くしたものを取り戻す旅を描いた、心温まるファンタジー短編。
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## 第一章 雲の上の道の駅
霧が濃くなった。
陽介は車のスピードを落とし、フロントガラスを覗き込むようにしながらハンドルを握りしめた。カーナビは圏外を示し、地図上では山道を示す細い線が蛇行していた。「峠を越えれば町に着くはずなんだが…」
三時間前に高速を降りてから、ひたすら細い山道を走り続けている。行き先など決めていなかった。ただただ東京から離れたかっただけだ。会社を辞め、彼女にも振られ、引っ越しも終えた。何も持たない身軽さが良かった。でも今は、この霧の中で道に迷っていることを少し後悔していた。
「あれは…」
霧の向こうに小さな明かりが見えた。減速しながら近づくと、「道の駅 雲の上」と書かれた木製の看板が現れた。駐車場に車を滑り込ませると、風情のある木造の建物が見えてきた。時刻は午後6時半。夕暮れ時だが、霧のせいでもう辺りは暗かった。
駅内は意外と広く、地元の農産物や工芸品が並んでいた。観光客らしき人は見当たらず、カウンターには白髪の老人が一人、新聞を読んでいた。
「いらっしゃい」老人は新聞から顔を上げ、陽介に笑いかけた。「あいにく今日は霧が出て、景色は望めないねぇ。晴れた日なら、ここからは雲海が一望できるんだよ。まるで雲の上に立っているようでね、それで駅の名前になったんだ」
「そうなんですか。実は道に迷ってしまって…」
「ははは、よくあることさ。カーナビも携帯も圏外になるからね。天気が良くなれば道も見えるさ。今日はもう暗いし、ここで一晩過ごすといいよ。奥に休憩室があって、簡易ベッドが用意してある。旅行者用にね」
「ありがとうございます」陽介はほっとした表情を浮かべた。
「晩飯なら食堂もあるよ。今なら間に合う」
駅長と名乗った老人の勧めで、陽介は食堂へと向かった。地元の山菜を使った定食を注文し、窓際の席に座った。窓の外は真っ暗で、自分の顔が映り込むだけだった。
ふと、店の隅に一人の少年が座っているのに気がついた。十二、三歳くらいだろうか。短い黒髪に、少し大きめの白いTシャツ。宿題でもしているのか、紙に何かを書いている。この時間に子供が一人でいるのは珍しいと思い、陽介は気になって見ていた。
少年は時々外を見るように窓に目をやり、また紙に向かう。何度か繰り返した後、少年はふっと立ち上がり、陽介の方を見た。目が合う。
「あの、すみません」少年が近づいてきた。「これ、描いてもらえませんか?」
差し出された紙には、簡単な地図のようなものが描かれていた。道の駅を中心に、周囲の山や道が書かれている。
「僕、絵が下手で…」少年は恥ずかしそうに言った。「もっと上手に描いて欲しいんです」
「ああ、いいよ」陽介は思いがけない頼みに戸惑いながらも、紙を受け取った。「でも、なんの地図なの?」
「僕が探しているものの場所です」少年は真剣な表情で答えた。「刺抜き地蔵を探しているんです」
「刺抜き地蔵?」
「はい。この辺りに伝わる地蔵らしいんです。痛みを抜いてくれるって…」
少年の説明を聞きながら、陽介は地図を見た。何か引っかかるものがあった。デザイン会社に勤めていた経験から、地図をもっと分かりやすく直せそうだった。
「君、名前は?」
「空…です」少年は少し躊躇した後に答えた。「空と書いて、そらと読みます」
「空か。珍しい名前だね」陽介は笑った。「僕は陽介。よろしく」
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## 第二章 さすらいの刺抜き地蔵
翌朝、陽介は驚くほど清々しい目覚めで眼を開けた。簡易ベッドは思ったより快適で、山の澄んだ空気のせいか、久しぶりに熟睡できた気がした。
窓の外を見ると、昨日の霧はどこへやら、青空が広がっていた。遠くには山々が連なり、その間に雲海が広がっている。まさに「雲の上」という名にふさわしい絶景だった。
食堂で朝食を取っていると、駅長が声をかけてきた。
「よく眠れたかい?」
「はい、とても」
「今日は晴れたから、道もはっきり見えるよ。でも、せっかくだから少し滞在していったらどうだい?この辺りには見どころもある」
「実は…」陽介は昨夜のことを思い出した。「刺抜き地蔵というのを知りませんか?昨日、空という少年から聞いて…」
駅長の表情が一瞬固まった。
「空?ああ、あの子か…」駅長は少し間を置いてから話し始めた。「刺抜き地蔵はね、この山の伝説なんだ。むかし、この辺りを旅する人々の痛みを癒したという地蔵様さ。体の痛みだけじゃなく、心の痛みも抜いてくれるって言われている」
「本当にあるんですか?」
「あったんだよ。でも今は…」駅長は言葉を濁した。「さすらいの地蔵って呼ばれていてね、時々姿を消すんだ。最近は見た人がいない」
その時、食堂の入り口に空が現れた。
「おはよう、陽介さん」昨日より少し元気そうに見える。「地図、描いてくれました?」
「ああ、ちょっと手を入れたよ」陽介はカバンから取り出した紙を渡した。デジタルツールこそなかったが、宿泊室にあった色鉛筆で地図を整理し、分かりやすく書き直していた。
「すごい!」空の目が輝いた。「これなら探せる気がします」
「空、刺抜き地蔵を探しているのか?」駅長が尋ねた。
空はうなずいた。「見つけたいんです。大事なことがあるから…」
「でも、それは…」駅長が言いようとしたとき、外から車が到着する音がした。
「あ、お客さんだ。ちょっと失礼」駅長は立ち去った。
空は陽介の方を見た。「陽介さん、一緒に探してくれませんか?」
断る理由はなかった。どうせ行き先も決めていなかったし、この穏やかな山の風景も悪くなかった。何より、空の真剣な眼差しに、何か引かれるものがあった。
「いいよ。でも、なんで地蔵を探してるの?」
空は少し俯いた。「僕、自分のことをよく覚えてないんです。ここに来たことは覚えてるけど、どこから来たのか、家族のことも…」
「記憶喪失?」
「たぶん。でも、刺抜き地蔵なら何か分かるような気がするんです。夢で見たんです。僕が地蔵を見つけると、帰り道が分かるって」
陽介は黙って空を見つめた。理解はできなかったが、何か手伝いたいという気持ちが湧いてきた。
「分かった。じゃあ、探してみよう」
その日から、陽介の滞在は延びることになった。
翌日から、空と一緒に周辺を探索し始めた。空が覚えている断片的な情報と、描き直した地図を頼りに、山道を歩いた。
三日目、駅長から思わぬ提案があった。
「陽介くん、良かったら道の駅で働かないか?」
「え?」
「実はスタッフが一人、急に辞めてしまってね。短期でもいいから手伝ってくれると助かる。空も喜ぶと思うよ」
陽介は考えた。東京に戻る予定もなかったし、貯金は十分あったが、何もしないで過ごすよりは充実するかもしれない。
「分かりました。お手伝いします」
こうして陽介は、道の駅のスタッフとなった。空は毎日、陽介の仕事が終わるのを待って、一緒に地蔵探しに出かけた。地元の年配者から話を聞いたり、古い資料を調べたりしながら、少しずつ情報を集めていった。
そして一週間後、ある発見があった。
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## 第三章 痛みを抜く者
「陽介さん、これ!」
空は古い写真を見せた。道の駅の資料室で見つけたという。三十年ほど前の写真で、山の中の小さな祠の前に地蔵が立っている。苔むした石の地蔵で、穏やかな表情をしていた。
「これが刺抜き地蔵?」
「はい!場所も分かります。写真の背景の山の形が特徴的で…」
空の言う通り、写真の背景には特徴的な形の山が写っていた。陽介達が描いた地図と照らし合わせると、道の駅から北西に3キロほど離れた場所のようだった。
翌日、二人は早朝から探索に出かけた。山道を登り、木々の間を縫うように進んだ。空は妙に自信たっぷりで、迷うことなく先導していった。
「ここだ!」
空が立ち止まった場所は、小さな開けた場所だった。確かに写真の風景に似ていたが、祠も地蔵も見当たらなかった。
「ない…」空の声が落胆に染まった。
陽介は周囲を見回した。地面には石の破片が散らばっていた。
「これは…」陽介が拾い上げたのは、石仏の一部らしきものだった。「壊れてしまったのかな」
空は黙って石の破片を見つめた。その目に涙が浮かんでいる。
「大丈夫、他にもあるかもしれないよ」陽介は空の肩を抱いた。
その瞬間だった。空の体が一瞬、透けて見えたような気がした。陽介は目を擦った。疲れているのかもしれない。
帰り道、空は黙ったままだった。道の駅に戻ると、駅長が心配そうに二人を迎えた。
「見つからなかったのか」
陽介は首を振った。「壊れてしまったみたいです」
駅長は深いため息をついた。「実はな…刺抜き地蔵には言い伝えがあるんだ。地蔵は人の痛みを抜く力を持つが、抜いた痛みはどこかに移さなければならない。昔は地蔵自身が痛みを引き受けていたそうだ。でも、あまりに多くの痛みを抱え過ぎて、最後には耐えられなくなった。それで姿を消したり、壊れたりするんだと言われている」
空は静かに聞いていた。
「でも、もう一つ言い伝えがある。地蔵の魂は消えずに、新しい器を求めてさまよう。『さすらいの刺抜き地蔵』と呼ばれるゆえんだ」
「新しい器?」陽介は思わず尋ねた。
「そう。時には人の形を借りることもあるという…」駅長は空を見た。
陽介も空を見た。空は窓の外を見ていた。空の下を見ている。
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## 第四章 雲の上から
その夜、陽介は眠れなかった。駅長の言葉が頭から離れなかった。空の正体は…?
翌朝、空は現れなかった。いつもなら朝食時に顔を出すのに、姿が見えない。陽介は仕事の合間に道の駅の周りを探したが、見つからなかった。
「駅長、空を見ませんでしたか?」
「いや、見ていないよ」駅長は何か言いたげに陽介を見た。「実はな、陽介くん。空のことを話しておきたいことがある」
駅長の部屋に通された陽介は、驚くべき話を聞いた。
「十年前、この山で遭難事故があった。東京から来た家族連れで、霧の中で道に迷ったんだ。捜索隊が見つけたとき、両親は亡くなっていた。でも、子供だけは見つからなかった。その子の名前が…」
「空…」陽介は呟いた。
「そう。捜索は一ヶ月続いたが、見つからなかった。山の神様が連れていったという噂も出た。でもある日、道の駅に一人の少年が現れた。名前を聞くと空だと言う。でも、自分のことはほとんど覚えていなかった」
「それが…」
「空は何年も道の駅の周りをさまよっていた。姿を見せたり消したり…まるで刺抜き地蔵のように」
陽介は息を飲んだ。
「でも、空は実在する。触れることもできる」
「私にも分からない」駅長は首を振った。「ただ、空が現れるのは、何か痛みを抱えた人が道の駅に来たときだけなんだ」
陽介は自分の胸に手を当てた。確かに、彼は痛みを抱えていた。会社での挫折、恋人との別れ、孤独…
「空を探しに行くよ」陽介は立ち上がった。
駅長は頷いた。「行ってやってくれ。あの子も、きっと陽介くんを待っている」
陽介は地図を手に、石仏のあった場所へと向かった。途中、霧が立ち込め始めた。視界が悪くなる中、必死で前に進んだ。
そして、開けた場所に着いた。空がそこに立っていた。
「空!」
振り返った空の顔は、涙で濡れていた。
「陽介さん…僕、思い出したんです。全部…」
「君は…」
「僕は、ここで亡くなったんです。両親と一緒に…」空の姿がまた一瞬、透けた。「でも、刺抜き地蔵が僕を助けてくれた。痛みを抜いてくれた。でも、その代わりに…」
「地蔵は壊れてしまった」陽介は言葉を継いだ。
空は頷いた。「地蔵の魂が僕と一つになったんです。だから僕は、痛みを抱えた人を助けることができる。陽介さんみたいな…」
陽介は黙って空を見つめた。
「陽介さんの心の痛み、僕が抜いてあげることができます。でも、そうしたら僕は…」
「消えてしまうの?」
「はい。僕は刺抜き地蔵として最後の仕事をして、やっと成仏できる。でも、それでいいんです。十年も彷徨っていたから…」
陽介は迷った。空を失いたくなかった。でも、空を引き留めることは、自分の痛みと共に生きることを意味した。そして、空を永遠に彷徨わせることになる。
「空…」陽介は空に近づき、抱きしめた。「君のおかげで、僕は自分の痛みと向き合うことができた。もう大丈夫だよ」
「本当に?」空の目が陽介を見上げた。
「うん。だから、もう安心して行っていいよ」
空の顔に、安堵の表情が広がった。「ありがとう、陽介さん…」
空の体が光り始めた。その光は次第に強くなり、陽介の視界を覆った。
「さようなら…」
光が消えたとき、陽介の腕の中には何もなかった。ただ、胸の痛みも消えていた。
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## 終章 空の下で
一年後、陽介は再び道の駅「雲の上」を訪れていた。
あの日以来、彼は東京に戻り、新しい仕事を始めた。小さなデザイン事務所を立ち上げ、地方の観光案内や地図づくりを手がけていた。そして、時々この道の駅に来ては、駅長と話をし、山の風景を眺めていた。
駅の前には、新しい石仏が置かれていた。陽介が建てたものだ。刺抜き地蔵に似せて作られたその石仏は、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「今日も良い天気だね」駅長が隣に立った。
「はい。空も綺麗です」
「空は元気にしているかな」
「きっと…雲の上で見守ってくれていると思います」
二人は青空を見上げた。そこには、まるで少年の笑顔のような形の雲が浮かんでいた。
「そろそろ行きます」陽介は駅長に告げた。「また来月」
「ああ、待ってるよ」
陽介は車に乗り込んだ。バックミラーには石仏が映っている。時々、その石仏の横に少年が立っているように見えることがあった。
幻か、現実か。それはもう、重要なことではなかった。
陽介は痛みを知り、それを受け入れることを学んだ。そして時に、誰かの痛みを分かち合うことの大切さも。
車は山を下り始めた。空の下で、新しい旅が続いていく。
(終)
0
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この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
Husband's secret (夫の秘密)
設楽理沙
ライト文芸
果たして・・
秘密などあったのだろうか!
むちゃくちゃ、1回投稿文が短いです。(^^ゞ💦アセアセ
10秒~30秒?
何気ない隠し事が、とんでもないことに繋がっていくこともあるんですね。
❦ イラストはAI生成画像 自作
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
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月弥総合病院
御月様(旧名 僕君☽☽︎)
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
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(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
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