38 / 3,202
蓼科文学
しおりを挟む
翼の葬儀が終わり、焼き場で待っている間、俺は一之瀬夫人に呼ばれた。
「先生、いろいろとありがとうございました」
「力不足で申し訳ありませんでした」
俺たちは焼却炉に近いベンチに腰掛けていた。
「主人には話せないのですが、翼は毎日先生の話を私にしました。先生から力づけてもらって、自分はもう大丈夫だと喜んでいました」
「……」
「本当に先生のお蔭で、翼は素晴らしい最期を迎えられたと思います。もうこれ以上のことは、私には考えられません」
「そうですか。大したことはできませんでしたが、翼くんがそう言ってくれたのなら、私もこれ以上は」
「あの子は最期に「ありがとうございました」と言いました。もう呼吸も満足にできなかったのに、確かにそう言ったんです」
一之瀬夫人は、そう言って泣き崩れた。
お前はすごい奴だよ、翼。
その後、一之瀬夫妻は離婚をした。
翼の件が理由だろうが、どうにも夫婦生活がダメになったらしい。
一之瀬夫人は俺のアドバイスもあり、家事代行の会社に就職した。
俺はというと、自覚が無いまま、どうにも不味いことになっていたらしい。
自分では割り切っていたと考えていたのだが、初めての患者の死に、深いところで変調を来たしていた。
それを指摘してきたのが、学会で偶然に出会った蓼科文学という男だった。
40代の精力的な顔、100キロはあるだろう巨漢。
指が恐ろしく太い。
一流の外科医と見受けられた。
学会の発表を聞きに来ていたらしい蓼科医師は、俺の発表の後で近づいて来た。
「お前、死ぬぞ?」
突然そう告げられた。
理由も何も分からず、俺は外に連れ出され
「引っ張られている」
と言われた。
不思議なことに、蓼科医師は最近俺が患者の死に立ち会ったことを言い当て、その患者を大事に思っていたのだろうと言った。
俺は驚いて、翼のことを詳細に話す。
話しているうちに、俺は号泣していた。
悲しみの感情も湧かないまま、号泣する自分に、俺は驚いていた。
「石神といったか。お前はなぁ、心が分解していたんだよ。若い医師にはときどきあることだ。真面目な奴に限るけどな。でも、分解したままでいると、そいつは必ずダメになる。俺はそういう医者をたくさん見てきた」
背中をでかい手でバンバン殴られたが、俺は逆に楽になっていった。
不思議だった。
蓼科文学の手が俺に触れて、俺は自分が如何に体調を崩していたかが分かった。
それが解されていた。
「おい、お前! 気に入ったぞ。俺の病院へ来い。俺が鍛え上げてやるぞ」
「いえ、今の病院を勤め上げるつもりなので、折角の……」
「ダメだダメだ! お前は俺の下につかなければ、必ず死ぬ。お前はそういう男だ」
はっきり言って、不思議なことは確かに起きたのだが、一方的に俺に言い聞かせようとする蓼科医師に従うつもりはなかった。
しかし俺の居場所を知った蓼科医師は、何度も押しかけてきた。
俺だけではなく、俺の上司や同僚にも接近し、俺の転職をしつこくねじり込んできた。
半年後、俺は蓼科医師の病院へ移っていた。
根負けしたと言うよりも、蓼科医師と話すうちに、彼の魅力のほだされたのだ。
蓼科医師は若くして理事に就任していた。
超一流の病院だ。
大学病院ではないにも関わらず、俺が勤めていた医大よりも格上だ。
40代でそういう病院の役職に就くのは異例のはずだ。
「俺はな、お前にはもっと若くして理事に就いてもらうつもりだからな」
俺が勤め始めて間もなくして、彼はそう言った。
その通りになった。
蓼科医師は病院内で有名だった。
世界的、と言って差し支えない。
彼が執刀した手術はことごとく成功していた。
そして、その多くは非常に困難なものだった。
誰もが諦めて当然、というオペも、蓼科は成功させている。
また、人間的な魅力に溢れてもいた。
豪快な見た目や言動だけではなく、繊細な性格も併せ持ち、なおかつ教養が高かった。
そして、何よりも優しい人間だった。
俺が魅惑された大きな理由は、彼の優しさと教養にあったと言ってもいい。
蓼科医師は俺と話すのを好み、俺たちは公私ともによく一緒にいた。
自宅にもしょっちゅう呼んでくれ、奥様がまた優しい方だった。
まあ、俺がこんな人間なので、蓼科医師には多大な迷惑をかけたのも事実だ。
一度や二度ではもちろんない。
そのたびに怒鳴られ、殴られ、処罰され、懲戒免職も二度ほど喰らいかけた。
蓼科文学は、ほどなく院長に就任した。
俺は理事に任命された。
四十代を前にしての理事就任は、初めてのことだった。
「先生、いろいろとありがとうございました」
「力不足で申し訳ありませんでした」
俺たちは焼却炉に近いベンチに腰掛けていた。
「主人には話せないのですが、翼は毎日先生の話を私にしました。先生から力づけてもらって、自分はもう大丈夫だと喜んでいました」
「……」
「本当に先生のお蔭で、翼は素晴らしい最期を迎えられたと思います。もうこれ以上のことは、私には考えられません」
「そうですか。大したことはできませんでしたが、翼くんがそう言ってくれたのなら、私もこれ以上は」
「あの子は最期に「ありがとうございました」と言いました。もう呼吸も満足にできなかったのに、確かにそう言ったんです」
一之瀬夫人は、そう言って泣き崩れた。
お前はすごい奴だよ、翼。
その後、一之瀬夫妻は離婚をした。
翼の件が理由だろうが、どうにも夫婦生活がダメになったらしい。
一之瀬夫人は俺のアドバイスもあり、家事代行の会社に就職した。
俺はというと、自覚が無いまま、どうにも不味いことになっていたらしい。
自分では割り切っていたと考えていたのだが、初めての患者の死に、深いところで変調を来たしていた。
それを指摘してきたのが、学会で偶然に出会った蓼科文学という男だった。
40代の精力的な顔、100キロはあるだろう巨漢。
指が恐ろしく太い。
一流の外科医と見受けられた。
学会の発表を聞きに来ていたらしい蓼科医師は、俺の発表の後で近づいて来た。
「お前、死ぬぞ?」
突然そう告げられた。
理由も何も分からず、俺は外に連れ出され
「引っ張られている」
と言われた。
不思議なことに、蓼科医師は最近俺が患者の死に立ち会ったことを言い当て、その患者を大事に思っていたのだろうと言った。
俺は驚いて、翼のことを詳細に話す。
話しているうちに、俺は号泣していた。
悲しみの感情も湧かないまま、号泣する自分に、俺は驚いていた。
「石神といったか。お前はなぁ、心が分解していたんだよ。若い医師にはときどきあることだ。真面目な奴に限るけどな。でも、分解したままでいると、そいつは必ずダメになる。俺はそういう医者をたくさん見てきた」
背中をでかい手でバンバン殴られたが、俺は逆に楽になっていった。
不思議だった。
蓼科文学の手が俺に触れて、俺は自分が如何に体調を崩していたかが分かった。
それが解されていた。
「おい、お前! 気に入ったぞ。俺の病院へ来い。俺が鍛え上げてやるぞ」
「いえ、今の病院を勤め上げるつもりなので、折角の……」
「ダメだダメだ! お前は俺の下につかなければ、必ず死ぬ。お前はそういう男だ」
はっきり言って、不思議なことは確かに起きたのだが、一方的に俺に言い聞かせようとする蓼科医師に従うつもりはなかった。
しかし俺の居場所を知った蓼科医師は、何度も押しかけてきた。
俺だけではなく、俺の上司や同僚にも接近し、俺の転職をしつこくねじり込んできた。
半年後、俺は蓼科医師の病院へ移っていた。
根負けしたと言うよりも、蓼科医師と話すうちに、彼の魅力のほだされたのだ。
蓼科医師は若くして理事に就任していた。
超一流の病院だ。
大学病院ではないにも関わらず、俺が勤めていた医大よりも格上だ。
40代でそういう病院の役職に就くのは異例のはずだ。
「俺はな、お前にはもっと若くして理事に就いてもらうつもりだからな」
俺が勤め始めて間もなくして、彼はそう言った。
その通りになった。
蓼科医師は病院内で有名だった。
世界的、と言って差し支えない。
彼が執刀した手術はことごとく成功していた。
そして、その多くは非常に困難なものだった。
誰もが諦めて当然、というオペも、蓼科は成功させている。
また、人間的な魅力に溢れてもいた。
豪快な見た目や言動だけではなく、繊細な性格も併せ持ち、なおかつ教養が高かった。
そして、何よりも優しい人間だった。
俺が魅惑された大きな理由は、彼の優しさと教養にあったと言ってもいい。
蓼科医師は俺と話すのを好み、俺たちは公私ともによく一緒にいた。
自宅にもしょっちゅう呼んでくれ、奥様がまた優しい方だった。
まあ、俺がこんな人間なので、蓼科医師には多大な迷惑をかけたのも事実だ。
一度や二度ではもちろんない。
そのたびに怒鳴られ、殴られ、処罰され、懲戒免職も二度ほど喰らいかけた。
蓼科文学は、ほどなく院長に就任した。
俺は理事に任命された。
四十代を前にしての理事就任は、初めてのことだった。
3
あなたにおすすめの小説
【完結】狡い人
ジュレヌク
恋愛
双子のライラは、言う。
レイラは、狡い。
レイラの功績を盗み、賞を受賞し、母の愛も全て自分のものにしたくせに、事あるごとに、レイラを責める。
双子のライラに狡いと責められ、レイラは、黙る。
口に出して言いたいことは山ほどあるのに、おし黙る。
そこには、人それぞれの『狡さ』があった。
そんな二人の関係が、ある一つの出来事で大きく変わっていく。
恋を知り、大きく羽ばたくレイラと、地に落ちていくライラ。
2人の違いは、一体なんだったのか?
【完結】聖女の手を取り婚約者が消えて二年。私は別の人の妻になっていた。
文月ゆうり
恋愛
レティシアナは姫だ。
父王に一番愛される姫。
ゆえに妬まれることが多く、それを憂いた父王により早くに婚約を結ぶことになった。
優しく、頼れる婚約者はレティシアナの英雄だ。
しかし、彼は居なくなった。
聖女と呼ばれる少女と一緒に、行方を眩ませたのだ。
そして、二年後。
レティシアナは、大国の王の妻となっていた。
※主人公は、戦えるような存在ではありません。戦えて、強い主人公が好きな方には合わない可能性があります。
小説家になろうにも投稿しています。
エールありがとうございます!
【12月末日公開終了】有能女官の赴任先は辺境伯領
たぬきち25番
恋愛
辺境伯領の当主が他界。代わりに領主になったのは元騎士団の隊長ギルベルト(26)
ずっと騎士団に在籍して領のことなど右も左もわからない。
そのため新しい辺境伯様は帳簿も書類も不備ばかり。しかも辺境伯領は王国の端なので修正も大変。
そこで仕事を終わらせるために、腕っぷしに定評のあるギリギリ貴族の男爵出身の女官ライラ(18)が辺境伯領に出向くことになった。
だがそこでライラを待っていたのは、元騎士とは思えないほどつかみどころのない辺境伯様と、前辺境伯夫妻の忘れ形見の3人のこどもたち(14歳男子、9歳男子、6歳女子)だった。
仕事のわからない辺境伯を助けながら、こどもたちの生活を助けたり、魔物を倒したり!?
そしていつしか、ライラと辺境伯やこどもたちとの関係が変わっていく……
※お待たせしました。
※他サイト様にも掲載中
竜帝は番に愛を乞う
浅海 景
恋愛
祖母譲りの容姿で両親から疎まれている男爵令嬢のルー。自分とは対照的に溺愛される妹のメリナは周囲からも可愛がられ、狼族の番として見初められたことからますます我儘に振舞うようになった。そんなメリナの我儘を受け止めつつ使用人のように働き、学校では妹を虐げる意地悪な姉として周囲から虐げられる。無力感と諦めを抱きながら淡々と日々を過ごしていたルーは、ある晩突然現れた男性から番であることを告げられる。しかも彼は獣族のみならず世界の王と呼ばれる竜帝アレクシスだった。誰かに愛されるはずがないと信じ込む男爵令嬢と番と出会い愛を知った竜帝の物語。
芙蓉は後宮で花開く
速見 沙弥
キャラ文芸
下級貴族の親をもつ5人姉弟の長女 蓮花《リェンファ》。
借金返済で苦しむ家計を助けるために後宮へと働きに出る。忙しくも穏やかな暮らしの中、出会ったのは翡翠の色の目をした青年。さらに思いもよらぬ思惑に巻き込まれてゆくーーー
カクヨムでも連載しております。
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる