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音斬エーコ

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銀の杭

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 狂疾にでもなったかのようにめちゃくちゃに、笑い声、話し声、即ち雑音の飛び交う教室の机に、私は一人伏していた。
 学生は夏休みに数回、中だるみを防ぐために学校という檻に収容される。しかしまあ、一通りの集会を終えて放課となった今、改めて気を引き締めるわけでもなく、『高校生としての自覚』を更に強固とするわけでもなく、約二週間ぶりに再会した喜びに歓喜して、愚痴を零しながらも彼女らのテンションは気体に状態変化した水分子のようにフリーダムだ。
 所謂お嬢様学校で、寮から通う生徒の多いここでも、帰省していて幾つか空席はあるものの、中高一貫というシステムによる友人間の友情の深さも相まって、生徒の大多数はそんな感じだ。
「冬歌ー、今夜なんだけどさー」
「ごめん、今日は予定あって」
 意図しないほど冷たい声が出てたじろぐ。最も驚いているのは話しかけてくれた彼女だろう。
 後ろから、何か最近櫻木さん感じ悪いよね、とか、何か雰囲気変わったよね、とか、何で去年髪の毛短くしたんだろう、とか、どうしようもない噂話のような本当の話が聞こえる。
 逃げるように、謝るように下校する。
 蒼穹の文字がよく似合う頭上を眺めて、うだるような熱気に肩を落としつつ、肩掛けの学生鞄を持ち直して歩き出す。
 八月七日。
 向かう先は唯一つ。
 私の、行くべき場所。
 私の、半身のいる場所。

 私の住む寮から徒歩十五分。大きな門を開け、手入れされた庭の奥に立つ二階建てエレベーター付きの邸宅の戸を叩く。庭掃除の道具を持った、眼帯をしたメイドさんに入れてもらい、二階にある彼女――夏川秋葉――の部屋の扉を開けると、風が通ってカーテンが踊る。その窓の手前のベッドの上には、クッキーを頬張りながら分厚い本を読んでいる長髪の少女がいた。
「おはよ、秋葉」
 声をかけると、まるで小動物のように肩をびくっとさせ、
「もう十二時よ、冬歌」
 驚いてなどいなかったかのように、ゆっくりと振り返って返事をしてきた。すっかり本来の『令嬢としての夏川秋葉』に落ち着いている。
「芸能人なら夜中だっておはようだよ」
 テレビで聞いた知識をドヤ顔で披露すると、知ってる、と言うかのように彼女は笑った。
「秋葉、少し背、伸びた?」
「昨日会ったばっかじゃん」
 どきっとしながらも笑って誤魔化す。
 カーテンに倣って秋葉の髪が揺れる。病的に白い肌に黒髪がよく似合う彼女の傍らには、一台の車椅子があった。
 しかし、
「汚い」
「何が?」
 何を言っているのこのお馬鹿さん、とでも言いたそうな彼女。
「何で一日でこんなに散らかせるの……」
 八月六日、つまり昨日、体感的にはかなり前、部屋中に散らばった本を全部片付けたのだが、一日も経たないうちにベッド含めその周りは本まみれになっている。去年の秋から一ヶ月でとんでもない速読術を体得した彼女は、ライトノベルから哲学書、果ては宇宙工学の本まで、家の巨万の富を惜しみなく利用して様々な本を買いあさっては読み買いあさっては読んでいる。
「見た感じぐちゃぐちゃでも、どこに何があるか全部把握しているから整理されているのと一緒よ」
 愛用のおもちゃの伸縮可能マジックハンド(耐重量五キロまで改造済み)を片手でがちゃがちゃと弄びながら彼女は言う。
 むっとして、
「この前買ったって言ってたソクなんとかって人の本は?」
 ソクラテスね、と呟いて、上半身を器用に使って体の位置を変え、積み重なった本の山を一点の迷いなくマジックハンドで崩し、ソクラテスの哲学書をひょいと持ち上げた。
 運動に使っていた脳のリソースを記憶と思考に割いているだけ、などと凄いことを平気で口にする。
 ぐうの音も出なかったがいらっときたので、崩された本を積み上げてベッドの横に整頓してやった。
 はいこれ、と買ってきた昼食と、彼女のおやつを広げる。サンドイッチとかチョコレートとか、その他諸々、ごく一般的な食べ物だ。
「今日は調子いいの?」
「今日のために去年から調整してきたからね」
 貧血と足が不自由な事以外は至って健全なのに、彼女は殆ど学校に来ない。というより去年の秋から、ずっと来ていない。
 そのくせ成績は不登校になってから六回連続一位で、突然消えたヒーロー、幽霊のような優等生、即ち幽等生と呼ばれ、今や私の高校の七不思議を八不思議に変えつつある。
「一回帰るの?」
「うん、夕方迎えにくる」
「とっておきのを用意してもらったから覚悟しなさい」
 目を細め、挑発的な表情で此方を見てくる。わたしだって、と指切りをして、あの頃のように拳を合わせて、彼女の家を後にする。
 私は真っ直ぐ寮には帰らず、半ば獣道となった寂れた神社の入口に入る。真夏だというのに清涼感がある、そこそこ長い坂道を登って見えてきた神社の裏へと進み、木々の中を三分ほど歩く。すると景色が開け、ちょっとした高台のような場所に出た。椅子のようになった倒木に座り、前の景色を見下ろすと、街を二つに分ける川を始め、この街が一望できる。この前見つけた穴場だ。
「さて」
 私は頬を叩いて立ち上がり、元きた道を引き返した。
 入道雲が、青空の端に大きく口を開けていた。
 
 今日はこの街の花火大会だ。八月(は)七(な)日(び)という安直すぎる発想だが、県下で最も規模が大きい故に、毎年多くの人が訪れる。
 午後五時、寮の部屋からもちらほら浴衣姿の人々が確認できる。両親に送ってもらった桃色の浴衣に袖を通す。何度も着た新品は、柔らかく私の肌を包む。下駄を履いて、薄く化粧もして寮を出ると、前には左ハンドルの大きな黒塗りの高級車が停まっていた。窓が開き、その中の運転席に座っている秋葉の家の、あの眼帯メイドさんが無言のままに後部座席に座れとハンドサインを出すので、それの通りに車に乗り込む。シートはベッドのように柔らかい。一泊は余裕だろう。
「秋葉様に言付かりました」
 とだけ言って、車は振動一つなく動き出す。
 雲は次第に西の空を侵食してゆく。
「降らなければよいのですが」
 バックミラーに映る隻眼の女性は、あくまで小さく呟いた。
 空よ持ってくれ、と切に願った。
 
 夏川邸の前では、碧い浴衣に身を包み、長い髪をかんざしで留め、車椅子に座った秋葉が今度はチョコレートを食べながら待っていた。彼女曰く、
「いつも思考はフル回転だからこれくらいがちょうどいいの。貧血だし」
 とのことだが、それでもいつも食べていてなぜ太らないのかは、八不思議を九不思議にしてもいいのではないかというほどに謎だ。
 容姿端麗、頭脳明晰、(ぱっと見た感じ)品行方正の、ザ、大和撫子の後ろにつき、行こっか、という彼女の言葉を合図に、私は車椅子を押し歩き始める。
 彼女は身長が私より頭半分以上は高い。確か百七十近くあった筈だ。しかし座ったときは私と目線が並ぶ。つり目だけど目はぱっちりしていて、スタイルもいい、まるでテレビの中のアイドルみたいな人だ。
 舗装された坂道を下って公道へと出ると、多くの人が同じ方向へと歩いているのが見える。大きな川にかかる橋を渡った先が会場だ。
 ぬるい風が頬を撫でる。本番まで時間はまだまだあるが、露店は既に開いており、祭り特有の食欲をそそる煙が風にたなびいている。
 私を振り返って、あれを食べたいわ、と早速屋台を指差す彼女の笑顔は、過去のことなど関係ない、と言うかのように私の首を優しく締める。彼女にその気があるかどうかは分からないが。
 朱が目を引く暑苦しい露店が立ち並ぶ川沿い、人混みを縫うように、ゆっくりと、私たちは、時間は進んでゆく。
 二品目、彼女にとっては四品目のかき氷を一緒に食べているとき、現在の時間に対して空が異様に暗いことに気がついた。
 真っ黒な雲が夕空を飲み込んでいる。どす黒い、重い、息が詰まりそうな雲。
 悪い予感は当たり、空から涙のような粒が数滴頬を叩いたかと思うと、それはすぐにプールをひっくり返したかのような豪雨に変わった。
 そんな雨によって手に持っていたかき氷は一瞬にして崩れ、人々の黄色い叫び声と足音が連鎖してこだまする。急いで雨宿りのできるところに入ると、暫くして花火大会中止のアナウンスが入り、その数分後に彼女の電話が鳴った。電波が悪いのか、数回の返事の後、訝しむような顔で携帯を耳から離し、アンテナを伸ばして再び会話に戻る。会話はその後数秒で終わり、
「迎えに来てくれるって」
 彼女の艶めく前髪から雨滴が滴る。こんな時でも笑っているなんて流石だ。
「ごめんね」
 違う。
「冬歌の謝ることじゃない」
 そうじゃないんだ。
「ごめん」
 謝りたいだけじゃない。
「謝らなくていい」
 もっと言いたいことが私には。
「ごめ……」
「冬歌!」
 張り上げられた声で我に返る。秋葉はまっすぐに私を見つめている。そういえばあの時もこんなだったっけ、なんて思うと目尻が熱くなってきたので、立ち上がって自らを豪雨に晒す。雨粒の一撃は思っていた数倍重く、激しく、肌に当たっては弾け、服に当たっては染み込んでゆく。
「風邪をひくわ」
 裾を引く彼女を振り返った私は今、どんな顔をしているだろう。
 考えたくもなかった。
 その後雨は止む気配を見せず、迎えに来てくれた夏川邸の隻眼メイドさんに家まで送ってもらった。シャワーを浴びてから浴衣を部屋の外に放り出して、電気を消してベッドに倒れ込んだ。漫画ならここで、ぼふ、という文字が出てくるところだろう。
 道路をベランダを屋根を打ち付ける雨音は、外界の雑音をかき消して、同時に私を責め立てる。
 次に目を覚ます私は、本当に私なのか。怖かった。
 私はベッドの上でひとり、うわ言のように「ごめんね」と繰り返し、微睡みの中に吸い込まれていった。


 私は吸血鬼だ。勿論生物学上は百パーセント純粋なヒトであり日本人だが、私はきっと人間じゃない。
 何故なら、人間ならば必ず、相応の贖罪をするからだ。


 覚醒する。夏の日の出は早く、開け放していたカーテンから差し込んだ日光が私の目をノックするように起こしてくる。水たまりなど一切ない外と照りつける太陽は、またもや朝の訪れを告げる。電気もつけずに箱型のブラウン管テレビを起動してニュースを見る。
『本日、八月七日のニュースです』
 点けて間もないテレビには悪いがすぐさまオフにし、机上の日記帳にバツ印をつける。
 押し入れを開けて、薄い桃色でシワ伸ばし済みの新品の浴衣があることを確認し、顔を洗って鏡に映る自分の顔を見る。
 頬を叩いて、両指で口角を上げる練習をして、制服を着て、朝食と一緒にやる気を入れる。
 三十四回目の、八月七日が始まる。
 
 登校しようと部屋を出ると、隣の部屋の元チームメイトも同じタイミングで出てきた。
 私と秋葉は去年の秋まで、バスケ部に所属していた。彼女の足が動かなくなって辞めた後、私も追うようにして退部した。
「どしたの櫻木さん、目赤いけど何かあった?」
「ううん、だいじょぶ」
 作り笑いで誤魔化して、小走りでその場を去る。
「もしよかったら、また帰ってきてね。待ってるから」
 限りなく優しい真綿のような口調と言葉。でも私が今欲しいのはそれじゃない。
 私が欲しいのは、心臓を穿つ純銀の杭だ。
 私はこの一日を繰り返している。八月七日という、約束の日を。
 約三十周のループを経て分かったことは大まかに五つ。
・午後八時以降、私の意識が眠りに落ちている間に行われること
・起き続けていても、翌日、八月八日午前六時に強制的に意識が奪われること
・寮の私の部屋だけはそのリセットから逃れられること
・ただし部屋の外に放り出されたものはリセットと同時に部屋の中の元あった場所に戻されること
・私が寮の外で眠りに落ちた場合、どうなるかはわからないこと
 随分とアバウトなルールだが、この世なんて大概アバウトだからそんなものなんだろう、と勝手に納得している。
 私は、同じ日に生まれた他の人間より三十四日余分に生きている。よって三十四日分、ごく微妙ではあるが成長しているのだ。
 この繰り返しから抜け出す方法は皆目見当もつかない。
 私の記憶の中での最初の八月七日から今日まで、様々な八月七日があった。彼女や私の体調不良や天候不順、或いは人為的な原因で、花火を見る『約束』が果たされないこともあったが、大体十周に一回くらいのペースで花火大会は行われ、私たちもそれに参加している。しかし、相も変わらず今私はこうして八月七日の地球に立っている。
「どうしろっての……」
 今朝はまだ涼しい筈なのにアスファルトには陽炎が揺れている。暑いのに寒い。
 校門をくぐり、クーラーの効いた教室に入ると、体から途端に力が抜ける。力なく椅子に体重を預けて机に倒れこむ。ぼろっちい木の肌触りとニスの香りがくすぐったい。
 教師の聞き飽きに聞き飽きた言葉に生徒たちの喧騒、エアコンの稼動音にスリッパが床を擦る音、それら全てが脳に沈んで、泡になって溶けてゆく。
 
 放課のチャイムで目を覚ます。携帯を開けて待受にでかでかと表示された数列を見て溜息をつき、
「いかなきゃ……」
 自分に言い聞かせるように立ち上がった途端、足元がぐらつき足がもつれ視界が揺らぐ。呆気なく、瞬間的に、しかし主観的にはゆっくりと、そのまま板張りの床にぶっ倒れた。
 
 再び、覚醒。

 知
 ら
 な
 い
  、天井
 と言いたかったが、割と見覚えのある天井だったのでそれを言うこともできず、ぐらつく視界と頭痛に耐えて体を起こす。
 アルコールのつんとした匂い、一階特有の窓からの光の差し込み方、ぱりぱりした布団、分厚いカーテン。優しさと入りにくさを兼ね備えたここは。
「櫻木さん、起きた?」
 カーテンをそっと開けて微笑みながらひょっこり顔を出す、記憶の片隅に残っている若い新任の先生。ここは、保健室だ。
 今朝から熱があって、そのまま学校に来て倒れ、今の今まで眠っていたらしい。昨日雨に打たれたのが主な原因だろう。なんにせよ、休みが明けたら私を運んでくれた人に感謝しに行かなければならない。
 いや、そもそも明日にたどり着かなければ、感謝をしても怪しまれるだけだ。心の中で感謝の言葉を三回唱え、夕刻の色に染まる保健室を後にし、人気のない廊下を転ばないように下を向いて歩く。残念ながら小銭は見つからなかった。
 校庭に出て、携帯を取り出し時間を確認しようとすると、本体の下部が赤色に点滅している。開いてみると、既に時刻は六時をまわっていて、不在着信の文字が画面に現れていた。
 見るまでもなく彼女――夏川秋葉からのものだろう。
 一回だって捨て回になんてしたくない。たとえ私という主観が朝に戻っても、誰かを傷つけたという事実は変わらないし、一度それを自分で許してしまうと、きっと何度も傷つけてしまうだろう。
 だけど、
「…………ごめん」
 携帯を閉じ、ポケットに突っ込んで進んだ。頬が熱いのは、きっと気温と熱のせいだ。
 ふいに視線を感じて振り返ったが、そこはいつもの校庭だった。
 寮の部屋に戻り、昨日――正確には前回の八時――と同じようにベッドに倒れこむ。
 暫くして、部屋に鳴り響くチャイムに目を覚ます。二本の針が示すは午後七時五十分。あと十分少し寝たら扉の向こうの人間も巻き戻されるが、目が覚めたついでに扉を開けてみる。
「おはよう、冬歌」
 そこにいたのは、大きなリュックを抱いた秋葉だった。後ろの方にはあの眼帯メイドさんもいる。
「おはよう、秋葉」
「今は八時よ、寝ぼけているのかしら?」
「テレビ業界では深夜でもおはようなんでしょ?」
「なんだ、知ってたの」
 少し前、こんなやりとりをしたような記憶がある。そうだ。昨日――正確には前回の昼――だ。今私が存在している八月七日でこの話題を出していないのに、彼女がこの話をしてくるということは、つまり知っていたということだ。ドヤ顔をした自分が恥ずかしい。
「で、どうしたの?」
 思いがけずきつい口調になる。
「どうしたのとはこっちの台詞よ。携帯を見てみなさい」
 言われるままに携帯を取り出してみると、不在着信三十件、うち留守電二十七件、メール百三十三件が届いている。そしてどれも発信元は秋葉だ。
「熱があったとは言え、連絡もなしに私との約束を破って、果ては私からの連絡を返さないというのはどういう要件かしら」
 風邪のせいか、背筋がぞくっとした。
「なんで熱があるって知ってるの?」
 その質問に彼女は無言で遥か後方を指差し、
「偵察に出していたわ」
 眼帯のメイドさんが小さくお辞儀をする。偵察って、あのメイドさんは貴女の傭兵か。と言う代わりに小さく溜息をついた。間違いない。放っておけば彼女は将来ストーカーになる。
 まあ何ていうか、と彼女は肩をすくめ、
「心配させないでよね」
 困ったような笑顔でそう言って、細く白い腕に隠された持ち前の腕力で、迷いなく私を轢く勢いをつけて、車椅子を私の部屋に進めた。
「えっ、ちょっと何を」
「今夜はここに泊まるわ。今日の約束の埋め合わせをしてもらわないと」
 押しのけられ、半ば、いや、十割強引に、ここに泊まる流れとなった。
 秋葉はリュックに詰めた荷物を私のベッドの隣に置き、暫く私の部屋の内装をまじまじと眺め、
「面白みがないわね」
「それは悪う御座いました」
 第一声がそれか。だが、自分の目から見ても教科書と最低限の生活用品だけのこの部屋は随分と殺風景だ。実家には一昔流行ったぬいぐるみが幾つかあったはずだが、時の流れと私の成長が進むにつれ、押し入れの奥へと隠れていった。『趣味を卒業すると言う事は、はじめからその程度だったのだ』という言葉を思い出す。
「風邪、伝染しちゃ悪いから、やっぱり帰ったほうがいいよ」
 秋葉は表情ひとつ変えず、
「こっちに来なさい」
 とだけ言った。答えになっていないが、手招きされる通りに近寄り、言われた通りかがむと、
「口を開けて」
 彼女はぐっと背筋を伸ばして私の顎に触れ、口を開け、その中を舐めるように見回す。恥ずかしいよりも驚きのほうが大きかったが、それはすぐに終わり、
「喉やリンパ腺の腫れは全然ないけど目のくまと肌荒れの方が酷い。何をしたか知らないけどストレスか過労よそれ」
 医者よりも信頼できそうな澄んだ声だった。そういえば今までずっと気を張りっぱなしだった。知らないうちに疲労が溜まっていたのだろう。
 最後に、もし風邪だとしても伝染せば治るって言うしね、と付け加え、不敵に笑った。
 その時、私のお腹が鳴る。そういえば今朝から何も口にしていない。
 顔が熱い。きっと、また真っ赤になっているのだろう。それを見た秋葉はまたもや笑って、
「台所借りるわね」
 そう言って巨大なリュックの中からスーパーの袋に詰められた食材を持って台所へ向かい、すぐさまUターンして帰ってきて、
「この部屋で一番高さのある椅子を貸してもらえる?」
 心底不機嫌そうにそう言った。

 椅子に座るのを手伝ってから暫くして、台所からまな板がシンクに打ち付けられる音やら普段の彼女からは想像もつかないような小さな叫び声やら、不穏な音が聞こえてくる。
 そういえば彼女は食べる専門だ。今更思い出して救援に向かうと、そこには、私の勉強机のオプションとしてついてきた伸縮可能な椅子をめいっぱいまで高くして料理、というより謎の儀式に励む秋葉がいた。
 知識は一通り詰まっているのだろう。包丁などの持ち方は完璧、なのだが、身体がついて行っていない。不安定な状況もあるせいか、切った野菜が彼方に飛んでいたり、いつの間にか指に絆創膏を巻いていたりと中々に酷い。
「手伝うよ」
「ありがとう、やっぱり知識だけじゃダメね。身体が言うことを聞かない」
 分業して料理をする。私が調理をして、彼女は次に使う食材を私に渡す。分業じゃないと思われるかもしれないが、私たちにとってこれは分業なのだ。こんなふうに二人で料理をするのは中三の冬以来だ。調理実習で何かを作った記憶がある。確かその時も秋葉は指を怪我していたっけ。
 料理は彼女が唯一得手としないものだ。いつも完璧に見える彼女が焦っている姿は悪いと思うが面白い。今この瞬間だけは、彼女が私と同い年なんだ、と確信できる。
 約一年半ぶりに二人で作った料理は、カレーライスだった。米はレンジでチンしたもので、秋葉の意向で超甘口だったが、ここ一年で食べた中で一番美味しく感じられた。
 遠くから籠った破裂音が幾重にも聞こえてくる。時が経つにつれてそれは激しくなってゆく。
「本当に私のところに来てよかったの? 一人でも行ってくればよかったのに」
「一人で見る花火なんて虚しいだけよ」
「あのメイドさんは?」
「彼女はいつも八時で帰るの。時間外労働はさせられないわ」
 いつの間にか秋葉は作ったカレーを全て平らげていた。二杯目からはルーだけだった筈だが、彼女にとってカレーライスにライスがあるかどうかは些細な問題なのだろう。
 ゲーム機一つないこの部屋でやることなど特になく、入浴して、消灯。
 私は予備の布団を床に敷き、秋葉は私のベッドで眠りにつく……その一歩手前、一つ、重大な問題が頭をよぎった。
 繰り返しから隔離されたこの部屋で私以外の人間が眠った場合、どうなるのか。
 巻き戻るということは、つまり全ての条件が始まりに回帰するということだ。始まりの条件の一つとして『夏川秋葉が彼女の家で眠っている』が含まれるわけだが、このまま彼女がここで眠り、繰り返しから隔離された場合、前述の条件が満たされなくなる。シャーペン一本などという差ではない。人間一人だ。
 場合によっては二人の秋葉が存在してしまうかもしれない。が、疲労と睡魔に打ち勝つことはできず、そのまま意識は落ちていった。



 秋葉は、私の半身であり、翼だった。
 彼女と同じ中学に入って、私は憧れだったバスケ部に入った。
 親戚で小さい頃から仲が良かった秋葉は、「せっかく同じ学校に入ったのに一緒に居られる時間が少ないのはつまらない」と言って、入学してすぐ、私を追うようにバスケ部へと入った。
 才能があったというより、所謂天才肌なのだろう。教わったことは一日真面目に反復練習すれば大体ものにできる、と彼女は言って、様々な技をどんどんと会得した。特にドリブルとシュートは魔法のようで、同学年の経験者たちを次々と抜かしていった。
 ただ、問題として貧血がひどかったので、真面目に練習している時間よりもベンチで座っている時間の方が長かったのだが。
 私はというと、結局のところ凡人な訳だから、来る日も来る日も練習をして、秋葉に追いつこうと必死だった。才能がないなら、翼がないなら、そこに届くだけ積み上げればいいだけなのだ。
 思えばあの頃から、彼女は私の二歩前を歩いていた。
 春の最初の大会で、秋葉は即戦力として早速スタメンに起用された。しかし、パスは殆どが先輩の間だけを回り、全力のプレーは1クォーターが限界の彼女はすぐに交代となった。
 それを私はどうしても許せなかった。彼女はもっとできる。何故パスを出さない。
 だから私は、相手のボールを奪うこととパスを出す練習に全力を注いだ。元々シュートは上手くないのだから、せめて彼女のためにできることをしよう、と。
 そして新人戦。一回戦は去年の優勝校。秋葉はベンチスタートだった。
 始めから既に負けムードが漂っていたがなんとか食いつき十五点差で最終クォーターになったとき、メンバーの一人が足を痛め、代わりに秋葉が出てきた。
「思いっきりやろう、秋葉」
 ついに、二人でフィールドに立てる。たまらなく嬉しかった。
 私が相手のボールを奪って、秋葉に渡し、彼女が確実に決める。私の思い描いた試合が現実になったのだ。
 秋葉は、他のメンバーが取れないような、私のどんなパスも取ってくれた。私が後ろから彼女に繋ぎ、彼女は翔ぶ。
 私が後ろで、彼女は前。
 そのまま逆転し、その大会は見事優勝を果たした。1クォーターでの逆転劇、或いは序盤での圧倒的な点差。その話題は学校内に広がり、私たちはその名前から春夏だの秋冬だの、中々に安直なネーミングで呼ばれた。
 
 そして『バスケが好きな私』は、『秋葉のいるバスケが好きな私』になった。
 
 新人戦が終わってすぐ、秋葉は髪をショートカットにした。人前での口調は快活になり、あの頃から誰の目から見ても綺麗だった彼女は、髪型も相まって王子様のような扱いになり、試合の観客はどんどんと増え、一年の冬にはファンクラブまでできた。
 そして私たちは最高学年になり、高等部へ進学。去年まで同じコートでプレーした先輩と私たち二人で、どこまでやれるか試そう、と意気込んだ。
 幸先はよく、春夏と勝ちを攫っていった。
 
 秋の冷たい風が吹く帰り道、初めて、彼女と喧嘩をした。
 どうしようもないこと。
 とりとめもないこと。
 自分でもわかっていた。
 確か、試合に負けたときだった。
 
 その時私は初めて、彼女の前に出た。
 感情が高ぶっていて、周りの見えていない私が飛び出したのは赤信号の交差点。
 勿論、車は向かってくる。
 秋葉は私を当然のように庇って、そのまま今に至る。
 流れる大量の赤色は、今も記憶の底に刻みつけられている。
 そして秋葉は歩けなくなりバスケ部を退部。そして不登校。私も、彼女のいないバスケなんてやる意味がない、と後を追うように退部した。
 秋葉は何も言わなかった。ただ今までどおり、私と接してくれた。
 私の翼は折れてしまった。私の価値は無くなった。
 彼女を自己投影するかのように、私は長かった髪を切った。
 私はその時から、大事な人から大切なものを奪ったにもかかわらず、その奪った相手に依存して生きる吸血鬼になったのだ。



 陽の光で目を覚ます。古い夢を見ていた暗い部屋の中体を起こして、前回の出来事を整理する。はっとしてベッドの上を見ると、そこは綺麗に畳まれた布団だけがあった。
 やはり、自分以外はここで夜を越せないのか、と思ったその時、香ばしい匂いがした。
「やっと起きたのね、おはよう、冬歌」
 トーストを片手に持つパジャマ姿の秋葉が、そこにいた。
 机の上には二人分の朝食が用意されている。トーストと、袋入りのサラダだ。
「秋葉、今日は何日?」
 二枚目のトーストを咥える秋葉に尋ねる。
「何日って、八月八日に……」
 携帯を取り出し、日にちを確認する彼女の言葉が止まる。
「ようこそ秋葉。二回目の八月七日へ」
 わざとゲームの案内役のようにおどけた口調で、しかし真剣に告げる。そして淡々とこの超常的な現象の簡単な説明をする。一般人なら卒倒するような話だが、彼女は至って冷静で、
「何事も起こりうるのね、面白いわ」
 なんて言って笑ってみせた。
 八月六日から今日のこの状況に繋がるということは、秋葉が夜中に私の寮にやってきたことになるので一度家に電話させた。幸いなことに二人目の秋葉が現れることはなく、両親は帰ってきていないそうなので一安心だ。
 とにもかくにも登校日なので私は学校に行き、秋葉は眼帯のメイドさんを呼んで一度家に戻った。
 いつも通りの登校日を終え、昼ごはんを秋葉の家で食べ(勿論散らかっていたので片付けた)、夕方、浴衣に袖を通し、メイドさんの車に乗って彼女の家へ向かう。
 快晴。最高のコンディションだった。
「後悔だけは、しないように」
 眼帯のメイドさんが、不意にそう言った。
「今隣にいる人を、大切にしてください。後悔をしないように」
 あくまで独り言のように、遠い目でその女性はそう言った。私に対してであり、どこか自らに向けたような言葉を、私は忘れないだろう。

「行こっか」
 秋葉の言葉を合図に歩き出す。午後六時、まだまだ明るい夏の道は蝉の鳴き声でいっぱいだ。
 唐突に、秋葉が笑い出した。ばかみたいに、子供みたいに笑い出した。
「どうしたの?」
「だって、かなわないと思った約束が叶うのよ? それがとんでもない奇跡みたいに! これがおかしくないなんておかしいじゃない!」
 肩ごしに私を見てまた笑う。基本的に自分の感情を押さえ込もうとする秋葉の、心から嬉しそうな表情を、笑い声を、私は久しぶりに見た。
 下駄の音が快活に、しかし優しく木々にこだまする。
 焼けたアスファルトから漂ってくる熱気も、夕刻の涼風がかき消してくれる。
「冬歌と私で、並んで歩けたらよかったのに」
 仕方ないでしょ、と私は笑う。
 私のせいだ、と私の中の私が責め立てている。
「向こうに着いたら何食べたい?」
「そうね、焼きそばとたこ焼きと焼きもろこし、焼き鳥にイカ焼きも食べたいし、そうそう、綿あめも食べたいわ。あと……」
 毎度のことながら秋葉の食欲には驚かされる。バスケをしていた頃よりその食欲は加速しているが、体型は寧ろ痩せているのがたまらなく羨ましい。
 到着までの間、色々な話をした。秋葉が今まで読んだ本の話、今の学校の話。普通の女子高生の、普通の会話。
「この話、いつかの八月七日の私はもう貴方に一度しているのかしら」
 悪戯っぽく言う彼女は、いつになく楽しそうだ。
 西の空は薄く橙色がかり、遠くにいる夜の訪れを告げる。
 秋葉は手当たり次第に気に入った店の食べ物を買い、いくつかを私に味見させてくれる。正直それだけで私はお腹いっぱいになりそうだ。
 午後七時半、夜が青空を蝕み濃藍色に染める頃、祭りの提灯が毒々しい緋に染まる。
「秋葉、悪いけど場所を変えるから、次で最後ね」
「ならかき氷を食べるわ」
「じゃあ私は林檎飴」
 人混みから抜け出し、明かりの少ない道に入る。虫除けスプレーを惜しみなく使って、あの場所へ続く獣道に車椅子を押して入ってゆく。心地よい虫の音が幾重にも反響する。月明かりだけを頼りに、暗闇の坂道を進んで、今にも崩れそうな、狐を祀った寂れた神社を通り越して、天然の展望台へと辿り着く。
 秋葉と私は倒木に腰掛け、眼下に広がる光に目を奪われる。
 私が手に持つ林檎飴が、その光を受けてきらきらと輝く。血の色。命の色。ルビーに閉じ込められた林檎は、赤より紅い。
 街の光に透かしてそれを見ていたとき、突然秋葉が私の林檎飴に齧り付いた。もう、と言って、彼女に歪な形になった宝石を手渡す。
 その瞬間、夜空に大輪の花が破裂音とともに咲き、宵闇に吸い込まれて消えた。
 打ち上げられた色とりどりの花弁が、開いては枯れ、開いては枯れ、刹那の輝きを発しては無へと還ってゆく。
 心臓を直接叩くかのような音と相反して、その花は美しい。
 ふと彼女に目をやると、いつの間にか林檎飴を完食して花火に見入っていた。
 私たち以外誰もいない場所から見る壮大な花火は、まるで私たちのためだけのモノのよう。
 今なら、言えるかもしれない。
「ごめんね」
 こんな言葉しか出ない、インコのような自分が嫌いだ。
「どうして謝るの」
 花火の光に照らされて、秋葉の髪が輝く。
 どうして、と聞く秋葉は、不思議そうに微笑んでいる。
「私、秋葉の両足を奪って、それなのに、私は今、秋葉の隣で、友達として笑ってる。おかしいよね。わたし、わたし」
 あの時から一年近く、はっきりと謝ることができなかった自分が嫌いだ。
「何言ってるのよ」
 花火が止み、静寂が訪れる。
「わたし、吸血鬼だもん。傷つけた筈の秋葉にずっと依存して、自分ひとりじゃ生きられなくて、秋葉の、ことを」
 頬を伝う温いものを拭う。
 あの日彼女に血を流させたあの日から、私は吸血鬼なのだ。
「馬鹿ね」
 そう言って秋葉は白銀のかんざしを抜く。纏められていた黒髪が自由になり、絹糸のようにふわりと舞う。街の光を受け、夜より暗いそれは煌き、漆黒の、磨がれた薄ら氷のような瞳が私を貫く。
「冬歌は吸血鬼じゃない」
 鋭い、冴え冴えと輝くかんざし――銀の杭――の先を私の左胸すれすれまで近づけて、また秋葉は笑う。
「大事な人の命を足の機能だけで助けられたんだから、十分に大儲けよ。後悔なんてしてない」
 その声には、いつもの秋葉と違う弱さがあった。
「嘘つき」
 私は震える声を絞り出して言った。
「じゃあ何で学校に来ないのよ」
 今まで一度も触れなかった、触れたくなかったことに触れた。
 完全な沈黙が支配する。そしてそれを破るのは、秋葉。
「怖いだけよ。歩けなくなった私を、バスケできなくなった私を、他の人たちが見てどう思うか、それが怖いだけ。冬歌を助けたことに後悔はしてないけど、ね」
 自嘲っぽく弱音を吐く秋葉を、初めて見た。
 強い、私の半身。どこまでも翔ぶ、私の翼。みんなの期待を一身に背負う王子様は、普通の、弱い女の子だった。
 そんなの、ずるいじゃないか。
「何かあったら全部私が何とかするから。だから安心して学校くらい来てよ」
 ありったけの叫び声に応えるように、再び、花火が咲く。
 フィナーレが近いのだろう。光の花の命が次々と消えてゆく。見るものの心に自らを焼き付けて、幻のように消えてゆく。
 かんざしを握る秋葉の手に触れる。
 冷たい手、温かい表情、熱い花火を映す、薄く涙を湛えた瞳。何よりも気高く、何よりも鋭く、何よりも美しい普通の女の子が、私の親友が、そこにはいた。
 このままでは、離れ離れになってしまうような、そんな気がした。まるで別々の惑星の重力に引かれていくように。そしていつか、その重力に身を委ねてしまうのだろうか。怖かった。
 私にとっての全力の力で、彼女を抱きしめた。離れないように、何処にも行かないように。嗚咽を涙をありったけの感情を吐き出して、私の全部で彼女を抱きしめた。
 秋葉の肩は去年に比べて随分と頼りなくなっていたが、構わず体重を預けた。
「痛いわよ」
 そう言っても押し退けることはせず、ただ私の頭を撫でていた。
「いいのよ。冬歌は私を一人にしなかった。走ることのできない、冬歌の好きなバスケのできない、存在価値の無くなった私の隣にいてくれた。だから、いいの」
 声がうまく出ない。呼吸もままならない。苦しい。苦しい。苦しい。
「もしあの時冬歌を助けてなかったら、私は自分を許せない」
 腕をほどき、言の葉を絞り出す。私はただ、罰が欲しいと。
 ふと、私を柔らかいものが包んだ。
「なら、私とずっと一緒に居なさい。何処にも行かないで。私を一人にしないで。突然いなくなったりしないで」
 いつになく真剣な、今にも泣き出しそうな顔。
 私への罰が、言い渡された。
 私の今までが、全て報われた瞬間だった。
 今、私は確実に酷い顔をしている。涙でぐちゃぐちゃになっている筈だ。止まらない涙を必死にこらえて見上げた揺れる彼女は、ただ優しく、私を見つめていた。
 秋葉は、泣いていたのだろうか。

 気づいたときには花火大会は終わっていて、月は傾ぎ、空には星が瞬いていた。
 結局、秋葉は私に銀の杭を穿ちはしなかった。代わりにくれたのは、ただただ、どこまでも暖かな抱擁と、優しい罰だった。
「帰ろう、冬歌」
 けれど、やっと思いを伝えられた。やっと彼女のことを知れた。やっと、彼女の口から罰を貰えた。
「来年こそはちゃんと花火を見るわよ」
 いつの間にか車椅子に座っていた秋葉は、お祭りの日に冬歌のそんな顔見たくないし、と、したり顔で早速先ほどのことを茶化しにきたので、あてつけに少しだけ荒っぽく車椅子を動かした。
 星明かりが照らす道を、私たちは進む。
「時よ止まれ、か」
「突然どうしたのかしら」
「このまま時間が止まって、今がずっと続けばいいのに、って思って」
 夜の風はまだ熱を持っている。今夜も熱帯夜だろうか。
「花は枯れるから美しい」
「突然どうしたの」
「枯れるから、終わるから、一瞬の美しさは輝いて見えるってことよ」
 表情の見えない後ろ姿の秋葉は続ける。
「今この瞬間、私は確かに幸せよ。でも、きっとそれが永遠に続いてしまうと、きっとそれが幸せだって思えなくなる。思わなくなる」
 肩ごしに私を振り返って笑う彼女は、人間って不便よね、と言って前を向き直った。
 確かにあの鮮烈な花火も、四六時中空で輝いていたら、きっと眩しいだけだ、と文句を言われるだろう。
 私はそれを知っていたはずだ。翼を失ったあの日に。
 永遠などない。機械仕掛けの神様もいない。
「だから私はもっと色んな時間を過ごしたい。足踏みなんて絶対嫌。前に進みたい」
 秋葉の凛とした声は、閑散とした夜道に響く。
「勿論、冬歌と一緒に、ね」
 彼女は最後にそう付け加えた。街灯に照らされた彼女の頬は、彼女らしくもなく若干紅潮していた。
 決意。
「休みが明けたら、久しぶりに学校に行くわ」
「私、夏が終わったら、バスケ部に戻ろうと思う」
 ほぼ同時に互いの目標を言い合って、何だかおかしくなって笑う。
「じゃあ私も、バスケ部でマネージャーでもさせてもらいましょうか。動けなくてもサポートくらいはできるし」
 車椅子を押す手が少しだけ痺れる。彼女が前で、私が後ろ。秋葉の後ろは私の特等席だ。
   いつか、隣を歩ける日は来るだろうか。


 秋葉を家まで送り届け、また明日会おう、と不確実な、でもどこか信頼できる約束をして、私は夏川邸を後にした。


 代わり映えしない暑苦しい外気にうんざりしながら、後悔しないために私服に着替えて歩き出す。
 八月八日。
 向かう先は唯一つ。
 私の、行くべき場所。
 私の、親友のいる場所。
                                                                                                    fin
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