さらば従順な羊とギャル

色沢桜

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カッターナイフ

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 ぼくは、ごとん、となにかが倒れる音を聞いて目を覚ました。眠い目をこすりながら、掛け布団をはがして体を起こす。音の方向は兄さんの部屋だ。扉の下の隙間からうっすらと灯りが漏れている。

 隣の布団では母親が寝息を立てて寝ている。

 時計の針は午前二時を示していた。兄さんはまだ勉強しているのだろうか。それなら、息抜きに水でもあげよう、と洗面台からコップを持っていった。

 ぼんやりとした頭で、さっきの音はなんだったんだろうと考える。そのせいで、コップから水が溢れてしまった。
急いで蛇口を止める。もし母さんに見られていたら、もったいない! と怒られてしまっていただろう。

 タプタプに水が張ったコップを持ちながら、扉の取っ手に手をかける。その時、背中にぞわりと嫌な感覚が走った。

 恐る恐る扉を開ける。勉強机に兄さんの姿はない。その代わりに、目の高さに宙ぶらりんの足があった。

 ゆっくりと視線を上げていく。そこには、口からよだれを垂らしながら、天井からつるされた縄で首を吊っている兄さんがいた。

・・・

 その瞬間、ぼくは目を覚ました。朽ちかけた木の天井が目に飛び込んでくる。そうだ、ここは神社だ。

 悪い夢を見た。脳裏にこびりついて離れない数年前の光景に、今も苦しめられている。もう見たくもないのに、ぼ
くから離れない。まるで呪いだ。

 水でも飲んで寝直そうと頭を起こすと、ふと気配を感じた。一葉さんも起きているんだろうか、とその方向を見てみる。しかし、気配の主は明らかに一葉さんではなかった。

 丸まった背中に、ぼろい衣服。微かな異臭まで漂ってくる。それが一葉さんの体に跨ろうとしていた。

 闇夜に目が慣れてくる。やっとそれが、無精ひげを生やした男だと気づいた。

 目が合った。男はぎょっとした顔でぼくのことを見てから、すぐにニタァっと口角を上げた。右手を少し上げ、錆びついたカッターナイフを見せつけてくる。

 心臓が凍り付いた。鈍いぼくにだって理解できる。脅されているのだ。

 男は視線をお堂の出口に向けた。出ていけ、という意味だろう。ぼくが出ていったとしたら、男が次に取る行動は
一つ。

 足が震えて動かなくなった。犯罪なんて遠い国のおとぎ話だと思っていた。日本に居るかぎり、模範的な生活を送
っているかぎり、悪に遭遇するなんてありえないと思い込んでいた。でも、今まさにぎらつくような悪意を突き付けられている。

 躊躇っていると、男がしびれを切らしたように、口を動かした。は・や・く。カッターナイフを自身の首元の高さに上げ、すっと横に引いてジェスチャーをする。

 足を叱咤してなんとか立ち上がる。男は満足気に首を縦に振り、ズボンを脱ぎ始めた。

 でも、ぼくが逃げ切れたとして、一葉さんはどうなる? 間違いなく強姦されるだろう。もしかしたら、口封じのために殺されるかもしれない。もし生き永らえたとしても、一生癒えない心の傷が残る。助けなくては。誰でもないぼくが。

 口が痙攣した。一葉さん逃げて! その一言が出てこない。喉から絞り出そうとするけど、恐怖がそれを押しとどめる。

 男が怪訝な目でぼくを見てくる。刃の先をちらつかせてきた。

 怖い。逃げ出したい。でも、その後の一葉さんはどうなる?

 ぼくは思いきり拳を握り込んで恐怖を抑え込んだ。

「一葉さん!」

 男がぎょっと目を見開く。それと同時に一葉さんが目を開けた。

 男と目が合う。一瞬で危険を察知したようで、足を抱え込んで男を蹴っ飛ばした。

 男の体が床に転がる。一葉さんは目を白黒させて、「誰あれ⁉ どういうこと⁉」と聞いてき
た。

「多分あの人は――」

「あぁ。なんとなくわかった。獲物持ってるし、わたしを襲ってきたってところでしょ」

 男が起き上がり、カッターナイフを体の前に構えた。相対する一葉さんは、ベルトを引き抜いて、右手に巻き付け
た。

「賢治もなにか持って!」

「な、なんでですか?」

「相手は刃物持ってるんだから、素手で戦えるわけないでしょ!」

「え、ええっと……」

「わたしのポーチでもいいから!」

 せっつかれながら、慌ててポーチを拾い上げる。だけど武器になるようなものはなにもない。

 男が血走った目でこちらを睨んでくる。一葉さんがベルトを床に叩きつけ、大きな音を立てて威嚇する。

「じゅ、銃とか持ってないんですか?」

「ヤクザだって四六時中持ち歩いてるわけないんだから。それに、わたしはヤクザなんかじゃないし」

 男は獲物を見定めているようだった。そしてぼくを先に始末すると決めたようで、はっきりと殺意を込めた目で向かってきた。

「うわぁぁあ!」

 情けない声を上げて、ポーチの中の口紅やスマホを投げつける。相手も少し怯んだようで、両手で顔を覆った。

 すかさず一葉さんがドロップキックをかました。男は吹っ飛んで、壁に叩きつけられた。

 一葉さんが急いで距離を詰めて右のパンチを繰り出す。しかし間一髪で躱されてしまい、男が一葉さんの服の胸元を掴んだ。

 反対の手でカッターナイフを首に押し込もうとしてくる。一葉さんも顔を真っ赤にしながらその手を押さえて、拮抗状態に陥る。

「賢治も手伝って!」

 全身の力で抵抗しているせいか、声が裏返っている。しかし、ポーチの中をひっくり返してみても、小瓶に入った香水しか落ちてこなかった。さっき投げすぎてしまったのだ。

「なんでもいいから早く!」

 香水を拾い、男の顔面に向けて振り撒ける。原液をまともにくらって、男が強烈にせき込んだ。近くにいた一葉さんもそれは同じで、嗚咽しながらよろけた。

「馬鹿! わたしにもちょっとかかったんだけど!」

「す、すみません!」

「それより早く! そいつ倒して!」

 非力なぼくで殴り倒せはしない。そうなると狙う場所は一つ。男なら等しく地獄を味わう一点。睾丸だ。

 ぼくは男の股間を蹴り上げた。スクワットなんか十回もできない脚力だけど、当たったところがよかったのか、男
は、ぐえ、と潰れたカエルのような声を出して膝をついた。

 一葉さんが小さく助走をつけて男の顎を蹴り上げる。体がぶるっと痙攣して、床に倒れ込む。それからぴくりとも動かなくなった。

「し、死んでないですよね?」

「気絶してるだけだよ。当分起きないと思うけど」

 一葉さんがベルトで手を縛り付け、お堂の柱に括り付ける。

 どっと疲れが出てその場にへたり込んだ。なんとか生き残った。もしなにか一つ間違っていたら、あの錆びついた
カッターナイフで首を掻ききられていたかもしれないのだ。そう考えると、今更恐怖がぶり返してきて、体が震え始めた。

「怖かった?」

「一葉さんは怖くなかったんですか?」

「怖いに決まってるでしょ。わたし一人だったらやられてた。もしかしたら、殺されたかもしれない。……賢治、あ
りがとうね」

 薄暗くてぼんやりとしか見えなかったけれど、一葉さんが笑顔を浮かべたのはわかった。

 ぼくの勇気が一葉さんを助けた。そう考えると、体がむず痒くなった。
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