さらば従順な羊とギャル

色沢桜

文字の大きさ
22 / 22

赤本ときみ

しおりを挟む
「帰ったぞ」

 兄さんの声が聞こえた。午前中の仕事を終えて帰ってきたから、今は十二時頃だろう。ぼくはノートを閉じ、シャ
ープペンを赤本の上に置いた。

「まだ勉強してたのか」

「まあね。でも、だいぶ暑くなってきたし、そろそろ休もうと思ってたところだよ」

「ウチには扇風機しかないんだから、あんまり無理して熱中症になるなよ」

 冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出し、コップに注いで渡す。兄さんは一気に飲み干すと深く息を吐いた。

「勉強の調子はどうだ?」

「まあまあかな。それより、ここにも観光客が来るんだね。海水浴の人がちらほら来てるよ」

「もうシーズンだからな。ぼちぼちいてもおかしくないだろう。でも安心しろ。こんな田舎な海、来てもせいぜい十
組程度だ」

「そのうち穴場スポットって、テレビで取り上げられたりね」

「勘弁してくれ。そうなったら、この家は海の家に改装しなくちゃいけない」

「それはぼくも嫌だ」

 兄さんがコップを突き出しておかわりを催促してくる。ぼくは黙って麦茶を足した。

「そういえば、高卒認定試験の結果はどうなった?」

「余裕で合格したよ」

「そいつはよかったな。次は大学か」

「うん」

「どこに行くつもりだ?」

「一応東京の国立大学。奨学金もらうつもりだから、心配しなくていいよ」

「馬鹿。おれにだってちょっとくらい蓄えはある」

 兄さんが軽く肩をパンチしてくる。ぼくは居間に座り直し、赤本のページをめくった。

 ぼくは母さんから離れて今日までの三年間、兄さんと一緒に過ごしていた。今ではたまに兄さんの仕事を手伝った
りして生活している。相変わらず貧乏だけど、愉快な日々だ。

 それから、二年前から勉強を再開した。浪人生の為の塾を開こうと思い立って、その為に大学で経営学を学びたいのだ。

 生まれた初めて自分の為に勉強を始めた。すると不思議なことに、あれほど苦痛だった勉強が、意外にも楽しく思えてきたのだ。前まではただの難解な数字の羅列が、人類が数千年をかけて発見した英知の結晶だとわかった時には感動すら覚えた。でも、高校に編入する気もなかったので、高卒認定試験だけ受けることにした。

「そういえば手紙着てたよ」

 テーブルの上に白い手紙を指差す。

「また母さんからか」

「いいじゃん。でも、最初は連絡なんて全然取れなかったのに、仲良くなってきたよね」

「仲良くなったんじゃない。お前がいなくなって、やっとあっちも妥協を覚えたんだろ。内容もほとんどお前の話題
だよ。ちゃんと良い物食ってるか、だってさ」

 兄さんは文句を言いながら、手紙の中を見る。その横顔はなんだか、少し穏やかだ。

「あのさ、一つ確認したいことがあるんだ」

「なんだ?」

「家から出ていった後も毎月家に送金してたでしょ?」

「……ああ。なんでわかった?」

「前に母さんの通帳の中をうっかり見ちゃったことがあってさ。毎月二万円、誰からか振り込まれてたから」

 母さんは兄さんが生きていることは知っていたのだ。それでも探そうとしなかったのは、かなり冷たいのだろうけど。

「その、ありがとう」

「気にすんな」

 すると、玄関が勢いよく開かれた。現れたのは、片手にレジ袋を提げた、ノースリーブの夏服を着た一葉さんだった。

「あっちー! 相変わらずエアコン一台もないの?」

「いきなり人の家来て文句言うな」

「半分わたしの家みたいなもんじゃん」

 そう言って、「あ、これスイカと桃ね」と兄さんにレジ袋を押しつける。兄さんは不満そうな顔で手紙をテーブルに置き、袋の中の物を冷蔵庫に入れた。

「よっ、賢治。頑張ってるね」

「はい。一葉さんはお店終わったんですか?」

「今日は夜の三時くらいまでお客さんと一緒にガンガン飲んでて、今日は休み。まったく、酔っ払いのおっさん相手すんのも楽じゃないね」

「それでこんなに元気なのも、普通じゃないですよ」

 一葉さんは近くのスナックで働き始めた。しかも、性別を公言しているらしい。しかし、その底抜けな明るさの性格と女性以上に女性らしい仕草から、瞬く間に人気になったそうだ。

 一葉さんも生活は大変そうだけど、笑顔が多くなった。自分の人生を歩んでいるからだろう。柴原さんがたまに来るのが面倒くさい、とよく愚痴を漏らすけど。

 一葉さんは薄い座布団を枕にして、ぼくの隣に寝っ転がった。汗が小麦色の肌に薄く浮かんでいて、前髪もおでこにぺったりと張り付いている。

 ふと、遠くからピアノの音が聞こえてきた。ぽろんぽろん、とおぼつかない旋律だ。

「もしかしてこれって」

「そう。わたしが近藤おじいちゃんにピアノ買ってあげたの。意外と高くてびっくりしたけど、喜んでくれてたし。まあ、いいかなって」

「お金持ちですね」

「まさか。わたしだってカツカツだよ。でも、誰かの為に使うお金って、あんまり惜しくないから」

 近藤さんが喜んでいる様子が目に浮かぶ。きっと、宝物にするんだろうな。

 音律がつまづきながらも、段々と整ってくる。次第に、どこかで聞いたことがあるクラシックになっていった。

「なんて言うんだっけ、これ」

「さあ。でも、綺麗ですね」

「うん」

 そしてぼくらは無言になった。ぼくはシャープペンを持ち直して、赤本に目を落とした。

 ピアノと波の音しか聞こえてこない。

「ねえ」

 しばらくしてから、一葉さんが小さな声で言った。

「東京の大学行くんだよね」

「はい」

「わたしもついて行っていい?」

 心臓が高鳴る。答えは決まっているのに、声が出てこない。

 そんな気持ちを見透かしているのか、一葉さんは笑みを浮かべてぼくの肩をつついてきた。

「賢治はどう思ってるの?」

 ぼくは直視できずに目を逸らした。視線の置き場に困って、部屋のあちこちに置いては、終いには赤本に辿り着いた。

 その間、一葉さんはなにも言わなかった。ぼくの言葉を待っているのだ。

 こんな時に、気の利いた言葉が出てこない。

 だから、等身大の自分で。

「ぼくは一葉さんといて凄く楽しいです。ご飯食べるのも、ぼうっとするのも楽しいです。なにするのも楽しいんです。だから、これからも一緒にいたくて、その……」

 かっこ悪いな、と自分でも思う。でも、これが精いっぱいだ。

「好きです、一葉さん」

 そう言うと、胸の鼓動は逆に穏やかになっていった。言いたいことを、言うべきことをやっと口にできたからか、胸のつかえが降りたかのようだった。

「そっか」

 一葉さんは満面の笑みを浮かべて言った。

 眩しいくらいに綺麗だった。
 
 了 
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

巨乳すぎる新入社員が社内で〇〇されちゃった件

なほ
恋愛
中高生の時から巨乳すぎることがコンプレックスで悩んでいる、相模るな子。新入社員として入った会社でるなを待ち受ける運命とは....。

大丈夫のその先は…

水姫
恋愛
実来はシングルマザーの母が再婚すると聞いた。母が嬉しそうにしているのを見るとこれまで苦労かけた分幸せになって欲しいと思う。 新しくできた父はよりにもよって医者だった。新しくできた兄たちも同様で…。 バレないように、バレないように。 「大丈夫だよ」 すいません。ゆっくりお待ち下さい。m(_ _)m

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

私は貴方を許さない

白湯子
恋愛
甘やかされて育ってきたエリザベータは皇太子殿下を見た瞬間、前世の記憶を思い出す。無実の罪を着させられ、最期には断頭台で処刑されたことを。 前世の記憶に酷く混乱するも、優しい義弟に支えられ今世では自分のために生きようとするが…。

処理中です...