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かくて伝承は終焉を迎える 前
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はだしのつま先がまた一つ温い水に波紋を作る。プールに映る青空と制服のスカートの裾を乱す。
今年は水泳の成績はつけられないな。
それだけ言い残して先生は他の生徒のいる方に向かう。参加しろとも落ちないように注意しろとも言わなかった。水に入るなんてするはずがないと思われている。
――夏の始め、姉が水に沈んだ。
といってもさすがにこのプールでではない。だとすればいくらこの学校がおおらかでもここは封鎖されているだろう。
姉が見つかったのは海だった。
この学校はプールが無駄だという冗談が毎年出るらしいほど海が近い。波は穏やかで遠浅で、よほどのことがなければおぼれることの方が難しいと。
けれど姉は夏用に替ったばかりの制服のままそこに沈んでいた。流されていたでも浮かんでいたでもない。膝ほどの深さの場所に重しになりそうな荷物も何のひっかかりもないのに仰向けで両手を胸の前で祈るように組んで微笑みを浮かべるように沈んでいたと。スカートの裾とセーラー襟から出たリボンと髪の毛がゆらゆらと揺れていたことが却って不自然に見えたと。
それを見せないようにと配慮されたはずなのに、その姿が脳裏から離れない。現実なのか妄想なのかすらあいまいだ。
姉の死がショックだったから私は水には入らない。そう皆は思っているだろうし、確かにプールの授業は休んでいるが。
それだけが事実というわけではない。
他の誰が知らなくても、今私だけは知っていることもある。
昔、ここじゃない場所の離れ小島で、父方の祖母と同居していたことがあった。
そのとき彼女はよく、窓から見える海を伸びきらない指で指さしながら、しゃがれた声で、繰り返し、うわごとのように言っていた。
この血族は海に祀り捧げるためのものだ、と。
その話をそのとき聞いたものは私だけだったと思っていた。闊達な姉は祖母の話に付き合う暇があるなら外へ飛び出して行ったし、父は単身赴任中で祖母に似ていなければ顔すら忘れそうなありさまで、母は徘徊する元気だけはある痴呆の祖父に付きっきりで私たちの世話をするのもやっと、祖母は少しばかり変わったことを言っているもののおとなしい人だと思われて実際のところほぼ放置されていた。
祖母は言う。
海神に一族から花嫁を捧げよと。そしてその栄誉を女性の血族によってのみ伝えていけと。何処に嫁しても忘れるなと。
つまりは祖父も父も母も知らない秘密。
けれど怪談を適当半分おもしろ半分で聞いている程度の認識だった。
本当に重要な話ならもっと大人がきちんと聞いているだろうと思っていたし、そんなに役目が重要なら何かしら見返りがあるはずにちがいない、それがない以上嘘なのだという子供らしい打算もあった。
けれど何よりも自分たちより前からここに住んでいる、父の死んだ妹の子である従姉の存在が大きかったのだろう。何も正確に分かっていないはずなのに、役目があるとするならばそちらに引き継がれているはずだと妙に確信していた。私は直接的には何も関係ないと。
だからいずれは忘れてしまうはずの話だった。
子供には結局理解できなかったし、重要だとは思っていなかったし、覚えるつもりもなかった。
いくら繰り返されようとも徐々に回数も減ってゆく。
仮に覚えていても誰かに訴えれば戯言、自分ですら妙なごっこ遊びをしていた程度の記憶になったはずだった。
けれどその前に祖父はあっけなく目覚めなくなり、祖母も後を追うように最後まで同じ話を繰り返しながら亡くなった。
なので従姉を含め私たちは島を出た。
時が過ぎ、忘れたことすら忘れたつもりになっていたころ。
従姉は十六になった。結婚が出来る歳になった。
そして当然のように水の中に消えていった。いまだ行方はしれない。
知っているのは、その日、母が従姉を朝焼けの海の中に手足を縛って放り込んでいたという事実。
考えてみれば分かる。父にとっては祖父も祖母も従姉も血のつながった家族だけれど、母にとっては結局他人、しかも足手まといにしかならないような存在でしかない。それを夫のまともな手助けもなく支えていくことがどれだけ苦痛なのか。憎んだとしても母だけを責める人はいないだろう。
なのにどうして従姉に世間体の最低限以上に優しくしていたのか。
つまり母は祖母の話を結局どうにかして聞いてしまったんだろう。そうしてじわじわ効く毒のように迷信にすっかりと染まり、違う意味でそれに依存してしまった。充分つらかったであろう日々にこれ以上の不安を増やしたくない。
それでもさすがに私たち姉妹を殺す気にはならなかったのだろう。ならば残るいけにえは一人しかいない。けれど殺したと疑われるようでもそれ以降の生活に支障が出る。
結果従姉は過保護気味なほどかわいがられて育てられた、決して母が殺意を持っていると悟られないように。
するべくして海神に花嫁は捧げられた。
その後の朝食の時間、母は何事もなかったようにすごそうとし、父と姉は何も疑問に思わなかった。おそらく従姉は当番か何かだと思ったのだろう。
だから私はそのことに口をつぐんだ。
その日、夜になっても従姉が帰ってこないと、そして昼間から学校に来なかったと聞かされた時の母のあわてぶりはそれは凄まじかった。
わざとやっているのだから大げさで当然だと分かっていても、私がいなくなってもここまで取り乱さないだろうと嫉妬すらしそうになった。
けれどそれは本当にわざとだったのだろうか?
どんな理由であれ人一人殺したのなら罪悪感も焦燥もあるだろうし、従姉に寄せていた親愛は本当にすべて演技だけだったのだろうか?
結局母の動揺は収まらず、精神の均衡を崩し、そこまでして守ろうとした伝承を私たちに伝えないまま、自らも海に飛び込み命を絶った。
死体が見つかった――浮いていたと聞いて、母の死や今後の不安以上に贄とそれ以外との差を私は悟り絶望した。本当に何でもいいわけではないのだと。
今年は水泳の成績はつけられないな。
それだけ言い残して先生は他の生徒のいる方に向かう。参加しろとも落ちないように注意しろとも言わなかった。水に入るなんてするはずがないと思われている。
――夏の始め、姉が水に沈んだ。
といってもさすがにこのプールでではない。だとすればいくらこの学校がおおらかでもここは封鎖されているだろう。
姉が見つかったのは海だった。
この学校はプールが無駄だという冗談が毎年出るらしいほど海が近い。波は穏やかで遠浅で、よほどのことがなければおぼれることの方が難しいと。
けれど姉は夏用に替ったばかりの制服のままそこに沈んでいた。流されていたでも浮かんでいたでもない。膝ほどの深さの場所に重しになりそうな荷物も何のひっかかりもないのに仰向けで両手を胸の前で祈るように組んで微笑みを浮かべるように沈んでいたと。スカートの裾とセーラー襟から出たリボンと髪の毛がゆらゆらと揺れていたことが却って不自然に見えたと。
それを見せないようにと配慮されたはずなのに、その姿が脳裏から離れない。現実なのか妄想なのかすらあいまいだ。
姉の死がショックだったから私は水には入らない。そう皆は思っているだろうし、確かにプールの授業は休んでいるが。
それだけが事実というわけではない。
他の誰が知らなくても、今私だけは知っていることもある。
昔、ここじゃない場所の離れ小島で、父方の祖母と同居していたことがあった。
そのとき彼女はよく、窓から見える海を伸びきらない指で指さしながら、しゃがれた声で、繰り返し、うわごとのように言っていた。
この血族は海に祀り捧げるためのものだ、と。
その話をそのとき聞いたものは私だけだったと思っていた。闊達な姉は祖母の話に付き合う暇があるなら外へ飛び出して行ったし、父は単身赴任中で祖母に似ていなければ顔すら忘れそうなありさまで、母は徘徊する元気だけはある痴呆の祖父に付きっきりで私たちの世話をするのもやっと、祖母は少しばかり変わったことを言っているもののおとなしい人だと思われて実際のところほぼ放置されていた。
祖母は言う。
海神に一族から花嫁を捧げよと。そしてその栄誉を女性の血族によってのみ伝えていけと。何処に嫁しても忘れるなと。
つまりは祖父も父も母も知らない秘密。
けれど怪談を適当半分おもしろ半分で聞いている程度の認識だった。
本当に重要な話ならもっと大人がきちんと聞いているだろうと思っていたし、そんなに役目が重要なら何かしら見返りがあるはずにちがいない、それがない以上嘘なのだという子供らしい打算もあった。
けれど何よりも自分たちより前からここに住んでいる、父の死んだ妹の子である従姉の存在が大きかったのだろう。何も正確に分かっていないはずなのに、役目があるとするならばそちらに引き継がれているはずだと妙に確信していた。私は直接的には何も関係ないと。
だからいずれは忘れてしまうはずの話だった。
子供には結局理解できなかったし、重要だとは思っていなかったし、覚えるつもりもなかった。
いくら繰り返されようとも徐々に回数も減ってゆく。
仮に覚えていても誰かに訴えれば戯言、自分ですら妙なごっこ遊びをしていた程度の記憶になったはずだった。
けれどその前に祖父はあっけなく目覚めなくなり、祖母も後を追うように最後まで同じ話を繰り返しながら亡くなった。
なので従姉を含め私たちは島を出た。
時が過ぎ、忘れたことすら忘れたつもりになっていたころ。
従姉は十六になった。結婚が出来る歳になった。
そして当然のように水の中に消えていった。いまだ行方はしれない。
知っているのは、その日、母が従姉を朝焼けの海の中に手足を縛って放り込んでいたという事実。
考えてみれば分かる。父にとっては祖父も祖母も従姉も血のつながった家族だけれど、母にとっては結局他人、しかも足手まといにしかならないような存在でしかない。それを夫のまともな手助けもなく支えていくことがどれだけ苦痛なのか。憎んだとしても母だけを責める人はいないだろう。
なのにどうして従姉に世間体の最低限以上に優しくしていたのか。
つまり母は祖母の話を結局どうにかして聞いてしまったんだろう。そうしてじわじわ効く毒のように迷信にすっかりと染まり、違う意味でそれに依存してしまった。充分つらかったであろう日々にこれ以上の不安を増やしたくない。
それでもさすがに私たち姉妹を殺す気にはならなかったのだろう。ならば残るいけにえは一人しかいない。けれど殺したと疑われるようでもそれ以降の生活に支障が出る。
結果従姉は過保護気味なほどかわいがられて育てられた、決して母が殺意を持っていると悟られないように。
するべくして海神に花嫁は捧げられた。
その後の朝食の時間、母は何事もなかったようにすごそうとし、父と姉は何も疑問に思わなかった。おそらく従姉は当番か何かだと思ったのだろう。
だから私はそのことに口をつぐんだ。
その日、夜になっても従姉が帰ってこないと、そして昼間から学校に来なかったと聞かされた時の母のあわてぶりはそれは凄まじかった。
わざとやっているのだから大げさで当然だと分かっていても、私がいなくなってもここまで取り乱さないだろうと嫉妬すらしそうになった。
けれどそれは本当にわざとだったのだろうか?
どんな理由であれ人一人殺したのなら罪悪感も焦燥もあるだろうし、従姉に寄せていた親愛は本当にすべて演技だけだったのだろうか?
結局母の動揺は収まらず、精神の均衡を崩し、そこまでして守ろうとした伝承を私たちに伝えないまま、自らも海に飛び込み命を絶った。
死体が見つかった――浮いていたと聞いて、母の死や今後の不安以上に贄とそれ以外との差を私は悟り絶望した。本当に何でもいいわけではないのだと。
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