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第一話 鏡蓮房の皇女

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 それは、とても赤い場所だった。
 辺り一面余すところなく広がり、燃え盛る業火。崩れ落ちる何かの柱。逃げ惑う人々の悲鳴と怒号。
 荒れ狂う炎の中、ふと、一対の瞳に見つめられていることに気づいた。視線を辿るように上を見上げ、見つめてくる存在が上空で大きな身体を動かすのを見る。
 
 ――彼は、炎よりも激しく力強い色彩を持つ紅の龍。
 
 全身を覆う鱗は赤黒い煙の中にあってなお燦然と輝き、動く度に幽かに鈴のような音を響かせる。優美に空を舞う胴には、鋭い爪を持つ四本の腕。古木のように威厳のある角。じっとこちらを見つめる瞳は雄々しく力強く、しかし僅かな憂いを帯びていた。
 彼の瞳に宿る憂いに気づいた『私』は、それを取り除きたいと思った。本当の彼は、もっと明るく優しいをしていると知っていたから。
 頭上にいた彼が『私』に向かって首を伸ばす。それに合わせ、『私』も彼に手を伸ばそうとして――それが叶わないことに気づいた。
 『私』の両腕は背に回され、鎖で戒められていたのだ。ぴくりとも動けず、立ち上がろうにも己の両足の在り処も判然としない。
 せめて声を掛けようと、『私』は炎の熱で乾ききった唇を開く――。
 
                *
 
「……様。水月すいげつ様!」
明香めいか……?」
 
 りん国。玉華宮鏡蓮房ぎょくかぐうきょうれんぼうにて。
 名前を呼ばれながら肩を揺すられて、うたた寝をしていた水月は薄らと目を開けた。
 それから、自身が机に向かっていたことを思い出して慌てて顔を上げる。
 
「ご、ごめんなさい。寝てしまうつもりは……」
 
 がばりと頭を起こした拍子に、水月の青みがかった黒髪が乱れる。頬に掛かった髪を整えながら、侍女の明香は歳相応の屈託のない笑みを見せた。
 
「構いませんよ。昨日は『月映し』で遅くまで起きていらっしゃいましたし、お疲れだったのでしょう」
 
 「月映し」とは、月を水鏡に映すことでできる占だ。才の有無が問われる上、望月の夜にしかできない。が、古代から「月鏡良きこと悪しきこと変わらず、真のみ映す」と謳われている通りほぼ絶対的な予言をすることができる。
 琳の皇女である水月は、父親である琳王に請われこうして望月ごとに月映しを行い、占の結果を記録していたのだ。
 円形の窓から、柔らかな陽が鏡蓮房にも光を零す。吹き込んだ秋の暮れの風で、水月の手元に散らばった記録用の竹紙がかさりと動いた。
 水に浮かぶ紋のように、滑らかながら儚げな筆跡で書かれた占の記録を見遣り、器に茶を用意していた明香は少し眉を顰めた。
 
「陛下も、少しは水月様にご配慮下されば良いものを……。乙女の睡眠時間は大事ですのに」
 
 白磁の器を受け取った水月は、むくれた顔をする明香を微笑って諌めた。
 
「いいの。こんな私でも、お父様のお役に立てるのだもの。寧ろ感謝しなくては」
 
 水月は今年十六になる。普通皇女であるなら、とっくに何処かに嫁いでいても良い歳だ。しかし、水月は理由があって琳国に留まっている。それどころか、皇女としても扱われず玉華宮でも浮いた存在だ。そんな水月でもできることがあるから、ここで暮らしていける。
 それを有難く思うべきだと水月は思うのだが、明香はまだ不満なようで口を尖らせた。
 
「それでも、水月様が苦労するのは納得できません。貴女様はれっきとした皇女様ですし、陛下もお父上としてもう少し気遣ってもいいと思います」
 
 彼女の言葉に、水月は少し視線を落とした。
 
「それも、仕方のないことよ。お父様はお忙しい方だし……お母様が亡くなったのは、私のせいなのだから」
 
 水月の母である蓮妃は、水月がまだ幼い頃に亡くなった。母と父は王族には珍しい恋愛結婚であったというから、琳王の悲しみはまだ癒えていないのだろうと思う。他にも、水月になるべく会わないことには理由があるかもしれないが……。
 そこで、気持ちがどんどん暗い方にいっていることに気づいた水月はぶんぶん首を振った。今更考えても仕方のないことだ。書き終えた記録を纏めて抱え、意識して元気よく立ち上がる。目元に掛かった髪を払い、きょとんと見上げる明香に柔らかい笑みを見せた。

「さ、お父様に記録を持っていくわ。明香も、一緒に来てくれるでしょう?」

 悪戯っ子のような笑みを浮かべる水月に、明香も釣られたように小さな笑みを零した。それからすっと表情を引き締め、音もなく水月の背に近寄る。

「その前に、お召し替えをなさいませ。全く、いつまでも子供のようなことをなさるのですから」
「でも、元気が出たでしょう?」

 乳母のような口調が可笑しかったのか、水月の返事は笑い混じりだ。無邪気に振舞う主を愛しく思いつつ、明香はその華奢な背中にそっと手を当てた。
 いつも、明香に気丈な様子を見せる水月。けれど彼女は、主が普段あまり眠れていないことを知っている。それこそ、うたた寝すら起こすことをしのびなく思ってしまうほどに。
 どうして、水月がこんなに辛い思いをしなければいけないのだろう。どうにか助けになりたいと思うものの、明香にはただ主の幸せを祈ることしかできない。せめてその心が少しでも穏やかであるように、彼女は水月の耳元にそっと唇を寄せた。

「水月様。お辛いことがあれば、いつでもこの明香を頼ってくださいね」

 優しい言葉に、水月は両の眼を閉じた。明香は水月にとって、侍女である以前に幼い頃から姉妹のように育った大事な友達。あまり心配はかけたくない。けれど彼女の言葉は本当に有難いものだったから、水月も心から頷いた。

「ありがとう、明香。あなたがいてくれるだけで、私は本当に幸せ者だわ」

 例え、他の誰に嫌われようとも。父も母も、水月を愛することがないとしても。
 ひと時の幸せの合間に、微笑みを交わす少女達。そんな彼女達の背後で、木枯らしが庭池の水面を揺らす音が響く。
 詳細に記された「月映し」の記録。墨の香とともにはらりと捲れた竹紙には、「真のみ」と言われる占の結果がはっきりと書かれていた。

 ――曰く、「逆臣の刃、間近に差し迫る。幾ら慌てようと、龍なき堕ちた国に逃れる術はなし」。
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