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第八話 もし変わることができるのならば

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 水鏡宮すいきょうぐうに入った水月すいげつを出迎えたのは、ただ広く息が詰まるほど静かな広間とそこに居並ぶ巫女服姿の女性達だった。
 木肌をそのまま晒した屋内は薄暗く、等間隔で揺れる小さな橙の燭が仄かな光を放つ。陽炎のように控えめな気配を伴って立っていた女性達は、水月の姿を認めると音もなく近づき跪拝した。
 
「水月様、遠路遥々ようこそおいで下さいました」
「こちらこそ、このような最中受け入れて下さったことに感謝いたします」
 
 水月が礼を返すと、一番正面に立っていた女性が「とんでもございません」と微笑んだ。
 
りんに起きたことは、既に聞き及ぶところでございます。本来ならば我ら水鏡宮はいかなる国への関与も禁じられておりますが、大いなる神龍と月巫女様に救いを求める者がいるのならば別。ましてや、水月様は水鏡宮と大巫女様にとても深い縁のある御方。受け入れないということがありましょうか」
 
 自信たっぷりに言う彼女に、水月は曖昧な笑みを浮かべた。もう一度丁寧に礼を述べた水月は、ちらっと夕香せきかの方を見てから心持ち固い声で尋ねる。
 
「大巫女様にご挨拶したいのだけど、直ぐにお会いすることができるのかしら」
 
 女性は軽く背後を伺う素振りをみせると、水月に向き直り静かに頭をもたげた。
 
「生憎、大巫女様は神事の最中でございます。ただ、まだ水月様もお疲れの様子。陽の昇る時分には終えられるはずですから、それまでお休みになってはいかがでしょうか」
 
 有難い申し出に、水月は一も二もなく頷いた。巫女服の女性の案内に従い、水鏡宮内を移動する。
 宮は、どこも仄明かり程度にしか照らしておらず薄暗かった。しん、と音を立てそうなほどの静寂と、廊下に漂う冷たくも濃密な空気を掻き分けて進んでいく。月光を求めるように天を見つめる龍の彫像。咲き誇る桜花が描かれた調度。時折欄干に、床の隅に、花を活けた波璃の器の横に、小さな薄桃の花弁が見つかるのが不思議だった。
 幾つもの部屋を横切った先の小さな部屋が、水月にと案内された場所だ。
 その部屋は、水鏡宮の隅に位置している。回廊を挟んで向かいは外に一部繋がっているようだ。その先の部屋は扉がなく、四角い窓が通常より大きく設えてある。今、その窓は固く閉じられているが、開けば美しい山脈を眺めることができるのだろう。板間に漏れる蒼白い光に照らされて、花ごと落ちたらしい桜花が時を止めたように白く輝いている。

(水鏡宮の別名は、桜花宮……)

 水月は、暫くその部屋をじっと眺めていた。が、案内してくれた女性に促され、くるりと反対の扉に向き直った。

「水月様はこちらの部屋をお使い下さい。お連れの方は隣の部屋を」
「ありがとう」

 お辞儀する水月の後ろで、りょうも僅かに頭を下げるのが見えた。何食わぬ顔で勝手についてきた彼も快く受け入れ、こうして部屋も貸してくれたことに改めて感謝の言葉を述べると、女性は静かに首を振った。

「全て、分かっていたことですから」
「えっ」

 水月は思わず驚きの声を上げた。だが、同時に考えついたこともあった。水鏡宮東大門で出迎えてくれた人の言葉。

『大巫女様が“視”ました故』

 あの時、確かに彼女はそう言った。恐らく大巫女は予言の力を……それも月映しの力を持っていてここに来ると知ったのに違いない。燎が来ることもそれで知ったのだろう。
 不意に女性が水月の耳元に口を寄せた。周囲に聞こえないよう抑えた声で囁く。

「大巫女様は、お連れの方を水月様の力になるだろうと言われました。同時に、二度と取り返しのつかない破滅にも繋がるだろうと。どうか、お気をつけくださいませ」
「燎、が……?」

 ちらっと燎の方を窺う。視線に気づいた彼が、水月を見てにっと口角を上げた。邪気の欠片もない笑顔は眩しく、とても彼が破滅を呼ぶとは考えられなかった。
 訝しげな顔をする水月に、女性はただ淡々と話した。

「詳しいことは私では分かりませぬ。ですが、今は変遷の時。睹河原とがはらの有り様も如何様にでも変わる時でありましょう。その中で水月様がより良い選択みちを選ぶために、彼のことも含め御自らの目でお定めになるのが宜しいと存じ上げます」

 差し出がましい物言いではありますが。そう呟きを残し、巫女服姿の女性は静かに立ち去っていった。

「私の、選択……」

 水月は、自分にだけ聞こえる声で呟いた。何かを、確認するように。
 今、睹河原は変遷の最中にあるという。水月の周囲も大きく変化した。時が止まったような後宮の日々は突然打ち壊され、何もかも失った代わりに様々なことを知った。
 これからも、変わっていくのだろうか。占の役にしか立たなかった水月も、変われる日が来るのだろうか。誰もを失い、仕方ないと諦めてきた彼女が、何かを選んで決めることができる時が来るのだろうか。

(ならば、今度こそ私が誰かのためにあれるように)

 出来るなら、誰もにとって最良の道を。今度こそ、誰も失わないように。大切な人を守れるように。もう二度と会えない父と母に、それでも少しでも自慢の娘と思ってもらえるように。

(燎が破滅なんて呼ばないように、私が私の選択をきちんと見定めないと)

 小さく拳を握り、決意に燃える水月。そんな主の姿を視界の隅に入れたまま、夕香が部屋の扉を閉める音が大きく響いた。
 変化を受け入れ、そこに希望を見出そうとする水月は未だ知らない。変革が始まった理由も、その底辺にある人々の思惑も。
 だからこそ、水月に椅子を差し出した夕香が話し始めたことは、彼女にとって十分衝撃に足る言葉であった。

「お疲れのところ申し訳ないですが、早めに水月様にお話しなければならないことがあります。……琳の、反乱についての話です」

 そこまで言った夕香は躊躇うように瞳を伏せると、ついでいつになく固い表情で水月を見つめ一息に告げた。

「琳の反乱は薊妃けいひ様が起こしたもの。ですが、私と明香めいかが反乱に便乗する形で別の計画を立てました。絳睿こうえい様のご遺志です」
「睿兄様の……?」

 驚きで空いた口の塞がらない水月に、夕香はほろ苦く微笑んだ。

「はい。……全ては、水月様を後宮の軛から解き放つために」

 
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