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しおりを挟む始まりは、ひと月前の台風の夜だった。
昼間まで降っていた豪雨も止んで、強い風だけが吹いていた。
ビュンビュン鳴る風の音を聞きながら、眠れない夜を過ごした。
熱い紅茶をいれて、マグカップを両手で握り込む。フウと息を吹きかけて、一口啜った。滲み入る様な温かさに心が鎮まる。
トモカはいつの間にか訪れた眠気に、トロトロ微睡んでいた。
コンコンコン。
窓に何かが打つかる音で、ハッと意識が覚醒した。空き缶か何か飛ばされて来たかしら。そんな事を考えて、直ぐそれを意識の端に追いやる。
明日、片付けよう。そう思ってベッドに潜り込んだ。
コンコンコン。
外の音は止まない。
コンコンコン。
嗚呼、風が強いのね。
コンコンコン。
風の音に掻き消される事なく、その音は等間隔に鳴っている。
トモカはウンザリして体を起こした。窓まで行って、彼女は何も考えずにカーテンを開ける。
コンコンコン。
音は下の方で鳴っていた。だから、トモカはフッとそこを見下ろして、息を止めた。
曇り硝子の向こうに、濃く影が見えた。丁度、うつ伏せになったらこれくらいの位置に頭がくるかなという場所。
それとは間違いなく目が合った。
枯れ枝の様な指が、硝子を何度もノックする。トモカを虚な闇で見つめながら、何度も何度も。
全身の毛穴が開く。息が止まる程心臓が大きく脈打っているのに、意識はいやにはっきりしていた。
コンコンコン。
コンコンコン。
コンコンコン。
ノックの音を聞きながら、トモカは震える手でゆっくりとカーテンを閉めた。それから、音を立てずに後退るとズルズルと座り込む。
あれは、今のは、何だ。
焼き切れるかの様に痛む頭で、情報を整理しようと必死になった。
コンコンコン。
コンコンコン。
音が止まない。
トモカはジッとそこから視線を外せないまま、ヒッヒッと息を吸う。ジワリと涙が滲んで、瞬きを忘れた目から溢れた。
フッと意識が途切れかけるのを、張り詰めた神経が引き戻す。それを何度も繰り返して、朝方音が止むまでトモカは身動き出来ずにいた。
それから、奇妙なことが立て続けに起こる様になった。
コツコツコツ。
夜中にドアの外から、何か硬いものを打つける音がする。朝、出勤する時に確認すると、ドアの枠全体に無数の傷がついていた。
トモカはそれを沈鬱な表情で見て、しかし、それでも放置していた。放置するしかなかった。
ガチャガチャとドアノブが回されても、カーテン越しにベランダに立つ影が見えても。彼女は知らぬフリを続けていた。
忙しい日々の中で、こんなことに拘っているわけにはいかなかったし、真剣に向き合うことが恐ろしかったのだ。
それから数日後。初めて荒らされた部屋を見た時、トモカはヘタリとその場で座り込んだ。
開け放たれた靴箱から出された靴が、点々と奥に向かって転がっていた。
トイレや風呂場のドア、クローゼット、冷蔵庫の扉は開けられ、中身が部屋中に散らばっている。
入られた。
そう頭で理解すると同時に、トモカはその場から駆け出しそうになった。喉が引き絞られた様に痛んで、ジンと右頬に鳥肌が立つ。
彼女は泣きながら立って、部屋を片付けた。
明日も早く出なくてはならない。一刻も早く、元どおりにしなければならない。その一心で、震える手で床に落ちた物を拾う。
割れた卵の殻を踏んだ足が痛んだ。
それから、部屋は毎日荒らされた。
家に帰るのが恐ろしくて、トモカは会社に長く残ることが増えた。そして夜な夜な重い足取りで帰宅して、怯えながら部屋を片付けた。
そんな日が何日も続いて、その日プツリと糸が切れる音がした。トモカの頭の中は恐怖で埋め尽くされて、全身が痙攣するように震える。
ああ、もう、限界だ。
トモカは駆け出した。
どこでもいい。ここじゃない場所なら、もうどこだって良かった。
そうして、トモカはファミリーレストランの明かりに駆け込んだ。
「つまり、君の部屋にはオバケが出るってこと?」
ジョージの声に、トモカは泣きじゃくりながら頷く。彼女はタムちゃんから受け取ったティッシュ箱を、まるでお守りみたいに抱えた。
「それは気分が良くねーな」
「タムちゃん、気分が良いとか悪いとかじゃないよ、これ。…何とかしてあげたいけど、オレらには何の力も無いしな…」
腕を組むタムちゃんの隣で、ジョージもウーンと唸る。彼らは普通の人間であるから、お祓いも何も出来ない。しかし、こんな可哀想な女を、一人帰すことも出来ない。
「とりあえず、部屋の片付けは手伝ってやる」
「そうだね。これも何かの縁だし、オレらも付き合うよ」
「…あ、ありがとうございます」
二人の申し出に、トモカはホロリと涙を流した。
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