蝶のふすま

はぐ

文字の大きさ
1 / 1

蝶のふすま

しおりを挟む
美和が引っ越してきた家は、町外れの古びた武家屋敷だった。
広い敷地に低い生垣が巡らされ、風雨にさらされた板塀がその年月を語っている。
屋敷の屋根は黒く、艶を失った瓦がいくつか欠け、ほころびを見せていた。

正面に据えられた大きな門は、当時の富を示す立派な造りだったものの、
今では一部が崩れ、苔むしている。
重厚な木材で作られた玄関は、美しい彫刻が施されているものの、
その彫刻も時の流れに侵食され、かつての輝きを失っている。

屋敷内に入ると、畳の古びた匂いと、湿っぽい空気が漂い、
美和は瞬時にこの家が長い間人の手を離れていたことを感じ取った。
部屋の奥にあるふすまが目に留まった。
ふすまには、赤や青の鮮やかな色で描かれた蝶が飛び回っており、
その絵だけは奇妙に生気を放っているように見える。
周囲の古びた雰囲気とは不釣り合いなほど、
蝶の絵は鮮やかで、まるでふすま自体が命を宿しているかのようだった。



美和は足元の板がきしむ音に耳を澄ませながら部屋を歩き回り、
この家が抱える過去に思いを馳せた。
外の庭は荒れ果て、雑草が伸び放題である一方、
庭石や灯篭の形からは、この屋敷がかつての繁栄を誇っていたことがわかる。
周囲の景色が静けさに包まれる中、美和はふすまの蝶に吸い寄せられるように近づき、
その絵の細部を眺めると、一種の不安と期待が胸の中で渦巻いた。

しかし、ある夜、美和は不気味な夢を見た。

夢の中で、蝶の絵がふすまから動き出し、部屋中を舞いながら美和を追いかけてくるのだ。

美和は恐れおののき、目が覚めたときには汗だくだった。

夜が更け、美和は疲れた体を布団に投げ込んだ。
昼間にふすまの蝶をじっくり眺めたせいか、その鮮やかな色と形が目に焼き付いていた。
閉じた瞼の裏で蝶たちが舞い踊るような幻覚がちらつき、
美和は何度も目を開けてはその影を追った。

眠りについた美和は、奇妙な夢を見始めた。夢の中の屋敷は現実よりも空気は重く湿っていた。
ふすまが静かに開き始めると、蝶が一匹ずつふすまから飛び出してきた。
静かだった羽音は次第に部屋全体を支配するほど大きくなり、蝶たちは美和を取り囲むように舞った。

夢の中、美和は逃げ出そうとするが、家全体が迷宮のように変わっており、
どこへ行っても蝶の群れに阻まれる。
彼女がふすまに手を伸ばして閉じようとした瞬間、
蝶たちは怒ったように彼女の手に群がり、その冷たい感触に美和は叫び声をあげた。

目を覚ますと、汗で布団がびしょびしょになっていた。
呼吸を整えながら部屋を見渡すと、ふすまの蝶の絵が微妙に変わっているように感じた。
以前は整然と描かれていた蝶たちが、
まるで動いた後のように乱れた配置で描かれているのだ。
美和は恐怖に震えながらも、自分の目が何かの錯覚を見ているのだろうと自分を納得させた。

ふすまをじっと見つめ続けていると、蝶の一匹がその場で震え始めたように見えた。
次第に蝶たち全体がうっすらと光を放ち、その光は部屋の中を怪しく照らし出した。
そして、美和は確信した!
これらの蝶は単なる絵ではない、何か意志を持っている。


深夜の屋敷は静寂そのものだった。 美和は床に座り込み、お守りを握りしめながらふすまをじっと見つめていた。
その蝶の絵は、昼間のような鮮やかさを失い、闇に溶け込むような不気味な影を帯びている。
ふすまの表面が微かに動いたような気がして、美和は息を飲んだ。

その時、耳元で囁くような音がした。
美和は驚いて周囲を見渡すが、誰もいない。
音は途切れることなく続き、
まるで無数の蝶たちが羽音で彼女に何かを語りかけているかのようだった。
囁きの中には途切れ途切れの言葉のようなものが混じっている。
「来て…」「逃げて…」「戻れ…」
という不明瞭な声が、暗闇の中から響いているように感じられた。

美和は立ち上がり、ふすまに近づいた。
蝶たちが描かれている部分に手を伸ばそうとするが、躊躇して指先を止めた。
囁きが突然高まり、部屋中に反響し始めると、ふすまの蝶たちは再び微かに震え出した。
その動きは現実のものなのか、彼女の恐怖が見せる幻覚なのか、美和には分からなかった。

ふすまに触れるべきか、逃げるべきか。
葛藤の中、美和は決意を固め、震える手でふすまをゆっくりと開けた。
その瞬間、冷たい風が吹き抜け、部屋全体が蝶の羽で埋め尽くされた。
蝶たちは空気を裂くような羽音を立てながら彼女を取り囲み、ふすまの奥からは深い闇が現れた。

その闇の中には何かが潜んでいる気配があり、
美和は後ずさりしながら、その未知の存在を見つめ続けた。
ふすまの蝶たちは闇の中へと吸い込まれるように一匹ずつ消え、美和の視界は完全に真っ暗になった。

美和はふすまの奥の深い闇をただ見つめることしかできなかった。
その闇はまるで生き物のようにうごめいており、底知れぬ吸引力が彼女を引き寄せようとしていた。
蝶たちが闇に消え去った後、部屋全体は静寂に包まれたが、美和の胸には不安と恐怖が渦巻いていた。

ふすまの奥から、どこか遠くで風が吹き抜ける音がかすかに聞こえた。
その音は次第に近づき、薄暗い部屋の中を不気味な囁き声が満たし始めた。
「戻れない…」「私たちの運命を知るがよい…」
という声が響き、美和は耳を塞いだが、その声は彼女の頭の中に直接語りかけているかのようだった。

彼女は衝動的に部屋の外へ逃げ出そうとしたが、
ふすまの奥から伸びる影が彼女の足元に絡みつき、逃げ場を失わせた。
部屋の壁がうっすらと歪み始め、まるで蝶の形をした影が浮かび上がっているようだった。
その影は美和の方を向き、何かをじっと訴えているように見える。

ふすまの蝶が消えた闇の奥から、一匹の蝶が戻ってきた。
その蝶は他の蝶とは異なり、大きな黒い翅を持ち、
その翅の中央には鮮血のような赤い模様が浮かび上がっていた。
その蝶は部屋の中心で静止し、美和を鋭い眼差しで見つめたかのようだった。

その瞬間、美和の視界が暗転し、ふすまの奥の闇が彼女を飲み込むように部屋全体を覆った。
彼女はその闇の中で足元を探りながらも、吸い込まれる感覚に抗う術を見つけられなかった。
遠くから蝶の羽音が不気味なリズムで響き続け、美和の心の鼓動と一体化しているようだった。

美和は闇の中で薄れていく意識の中、突然耳元で爆発的な羽音を感じた。
目を開けた瞬間、彼女の目の前には無数の蝶が実体化し、
鮮やかな翅が部屋全体を包み込むように舞っていた。
それらの蝶はふすまから飛び出すだけでなく、
屋敷の壁や床、天井にまで影響を及ぼし、建物自体を侵食しているように見えた。

美和は恐怖に駆られ、蝶の群れの中をかき分けながら廊下へと逃げ込んだ。
しかし、屋敷の外も既に蝶たちの手中にあった。
庭には蝶たちが覆い尽くすように飛び回り、草木はその翅に触れるたびに枯れ落ちていく。
彼女の目には、かつての穏やかな風景がすっかり変わり果てているように映った。

その影響は屋敷を越え、町にまで広がっていた。
町の通りでは人々が驚きと恐怖に満ちた悲鳴を上げながら走り回っている。
蝶たちは町の建物や橋、人々の服にまで群がり、静寂の町が一気に混乱の渦に飲み込まれていった。

蝶たちはただ暴れ回るだけではなく、美和に向けて目的を持って動いているかのようだった。
彼女が逃げようとするたびに蝶の群れは彼女を追いかけ、
その翅でまるで彼女の動きを封じるように空間を狭めていく。
美和は絶望感に支配されながらも、蝶たちの中心に何かが潜んでいる気配を感じ取った。

その中枢に近づくことで全てが明らかになるかもしれない、という思いが彼女の胸をよぎる。
意を決して蝶たちの群れの中心に向かう美和は、
黒い翅を持つ一匹の蝶が暗く光る空間で静かに待ち構えているのを見つけた。
その蝶の翅には奇妙な模様が浮かび上がり、それが美和に何かを訴えかけているようだった。

美和は蝶に手を伸ばしたが、指先が触れる直前で停止した。
その黒い蝶はまるで彼女の動きを見透かしているかのように、翅を一度だけゆっくりと動かした。
その翅からは赤い模様が輝きを放ち、部屋全体を血のような光で染めた。
美和の心臓は激しく鼓動し、蝶を触れることで何が起こるのか、彼女にはまだ理解できていなかった。

「これが終わりなのか…それとも始まりなのか…」
心の中でそう呟きながら、美和は覚悟を決めた。
恐怖を押し殺し、指先を黒い翅に触れると、まるで鼓膜を割るような轟音が響き渡った。
その瞬間、蝶たちの群れは一斉に激しく動き出し、部屋の空気を掻き乱す風の嵐を巻き起こした。

蝶の黒い翅から放たれる光が広がるにつれ、美和の周囲の景色が変わり始めた。
屋敷の壁や天井が崩れるように姿を消し、彼女は一瞬浮遊しているような感覚に包まれた。
その光の中で、美和の目に映ったのは蝶たちの真の姿…
彼らは絵に閉じ込められたものではなく、かつて町や屋敷を支配していた強大な力そのものだった。

黒い蝶が美和に囁きかける。
「お前の願いを聞き届けよう。ただし代償は覚悟せよ。」
その声は低く響き、彼女の心に深く刻まれた。美和は震える唇で、
「町を救ってほしい。その力を収めて。」
と呟いた。

蝶たちは再び激しい羽音を立て、翅を広げながら町中へ飛び去っていった。
彼らの動きが次第に静まり、黒い蝶が最後の翅を閉じる瞬間、美和は目を閉じた。
彼女は深い静寂の中に取り残され、体が重くなり、意識が遠のいていくのを感じた。

朝日が町を覆い尽くしていた蝶の群れを溶かすように差し込んでいた。
蝶たちはひとつずつ空へと溶け込むように消え、青空がゆっくりと顔を見せ始めた。
町には再び静けさが戻り、恐怖の夜が終わったことを確信した人々が、
震えながらも安堵の溜息をついていた。

だが、その静けさの裏で、屋敷の庭に倒れた美和の姿があった。
彼女の顔には、不思議なほど穏やかな表情が浮かび、目は閉ざされたままだった。
胸には強く握りしめられたお守りがあり、その手はまるで何かを守るかのように固く閉じられていた。

屋敷に駆け寄った町の者たちは、美和が二度と目を開けることはないと気づいた。
誰もが彼女が何か大きな犠牲を払ったのだと悟り、黙祷を捧げた。
その場には説明のつかない不思議な風が流れ、
屋敷を通り過ぎるたび、ふすまがかすかに揺れているようだった。

屋敷に戻った人々の目に映ったのは、美和が最後に見つめていたふすまだった。
蝶の絵が前とは異なる形で描かれていることに気づいた。
中央に、どこか見覚えのある一匹の蝶が佇んでいる。
その蝶の翅には、美和がよく身につけていた着物の模様や、
彼女の面影のようなものが映り込んでいるかのようだった。

ふすまの蝶は、静かにその場に佇むだけだったが、
不思議な存在感を放ち、屋敷全体を支配しているように感じられた。
町の人々はその屋敷に近づくことを恐れ、再び「蝶の呪い」の噂が広がり始めた。

月日が経つにつれ、屋敷は徐々に人々の記憶から消え去っていった。
しかし、ふすまに描かれた美和の蝶が再び動き出す日は、きっと訪れるのだろう。
その時、また新たな物語が始まるのかもしれない。
蝶はただ静かに、永遠の時を待ちながら翅を閉じていた…


美和がその中で息づいていることを示すように。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

むしゃくしゃしてやった、後悔はしていないがやばいとは思っている

F.conoe
ファンタジー
婚約者をないがしろにしていい気になってる王子の国とかまじ終わってるよねー

後日譚追加【完結】冤罪で追放された俺、真実の魔法で無実を証明したら手のひら返しの嵐!! でももう遅い、王都ごと見捨てて自由に生きます

なみゆき
ファンタジー
魔王を討ったはずの俺は、冤罪で追放された。 功績は奪われ、婚約は破棄され、裏切り者の烙印を押された。 信じてくれる者は、誰一人いない——そう思っていた。 だが、辺境で出会った古代魔導と、ただ一人俺を信じてくれた彼女が、すべてを変えた。 婚礼と処刑が重なるその日、真実をつきつけ、俺は、王都に“ざまぁ”を叩きつける。 ……でも、もう復讐には興味がない。 俺が欲しかったのは、名誉でも地位でもなく、信じてくれる人だった。 これは、ざまぁの果てに静かな勝利を選んだ、元英雄の物語。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

【完結】兄の事を皆が期待していたので僕は離れます

まりぃべる
ファンタジー
一つ年上の兄は、国の為にと言われて意気揚々と村を離れた。お伽話にある、奇跡の聖人だと幼き頃より誰からも言われていた為、それは必然だと。 貧しい村で育った弟は、小さな頃より家の事を兄の分までせねばならず、兄は素晴らしい人物で対して自分は凡人であると思い込まされ、自分は必要ないのだからと弟は村を離れる事にした。 そんな弟が、自分を必要としてくれる人に会い、幸せを掴むお話。 ☆まりぃべるの世界観です。緩い設定で、現実世界とは違う部分も多々ありますがそこをあえて楽しんでいただけると幸いです。 ☆現実世界にも同じような名前、地名、言葉などがありますが、関係ありません。

魅了が解けた貴男から私へ

砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。 彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。 そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。 しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。 男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。 元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。 しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。 三話完結です。

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
恋愛
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

処理中です...