未明書房

第二章

第九話

「記憶の先に語られた声」

棚の奥の、少し傾いた一冊。
表紙はくすんだグレーで、背の綴じ目が崩れかけていた。
けれど翼は、まるで呼ばれたようにその本を手に取った。

開いた瞬間、風の音が胸に吹き込んできた。
中の文章は散文的で、定型もない。
それなのに、言葉のひとつひとつが、翼の呼吸と同じ速度で揺れていた。

「あのひとの沈黙が、声よりもずっと長く残っていた。
　わたしは、その静けさに名前をつけた。
　秋史――
　あなたはその名の記憶で、今も誰かの心に残っている」

翼はその名前に、ふたたび心を預けてしまいそうになった。
前にも似た声を読んだ。でも今回は違った。
語り手が、自分のことを語っているような感覚があった。

けれど、翼は秋史ではない。
そう思っていた。
でも、文章の節回しが、あまりにも自分の癖と重なる。

「秋史は、言葉にする前に書き方を選ぶひとだった。
　感情より先に、余白の形を気にした。
　それが、彼を語るための難しさだった」

翼はページを閉じられなかった。
それは誰かの声ではなく、自分が先に記憶になっていたことを告げる頁だった。

もしぼくが秋史だったのだとしたら――
ぼくの記憶は、誰かの語りから生まれた。
もしぼくが秋史ではないのだとしたら――
この語りは、ぼくに秋史という形を与えていたのかもしれない。

翼は静かにページを閉じる。
その音だけが、誰かの記憶の終わりを告げているようだった。

棚に戻すとき、ふと気づいた。
この本には、誰の名前も書かれていない。
タイトルもない。
けれど、手触りだけが、自分の声に似ていた。

“記憶を読むことは、
　自分の声が、先に語られていた可能性を受け入れることだ。”

そんな言葉が、翼の中にそっと芽吹いていた。