未明書房

はぐ

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第二章

第十三話

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「名に触れずに、声が残る」

喫茶 木霊の午後は静かだった。
窓の外に雨の予兆が浮かび、カップの音さえ控えめだった。
翼は、前回と同じ席に腰を下ろした。
それは偶然のようでいて、どこか必然に見える場所だった。

ふと視線を上げると、店内の奥の席にひとりの女性が座っていた。
顔は見えなかった。
本を読んでいるのか、ただ紙片を眺めているのかさえも曖昧だった。

けれど彼女の前に置かれたメニュー表には、
かすれた筆跡で、見覚えのある文字が記されていた。

「翼ブレンド(季節限定)」

その言葉を見た瞬間、胸の奥に静かな波が立った。
彼女はそのブレンドを注文したようだった。
カップに口をつける姿は、どこか見覚えがあるように思えた。

それなのに――
翼は、声をかけられなかった。
なぜなら、その名前が今、自分だけのものではないような気がしたから。

マスターが静かに近づく。
注文を尋ねるだけだったが、ふと語るようにこう言った。

「あの席には、よく“翼さん”という方が座られていました。
 …声が静かなひとでした。名乗られる前に、風のように帰られてしまう方で」

翼はそれを、ただ聞いた。
自分のことを言われているようにも、まったく別の人物のことのようにも思えた。
けれど、それは記憶の木霊として十分すぎるほど胸に響いた。

女性は席を立つと、カウンターに便箋のようなものを残していった。
店主はそれを手に取り、何も言わず棚の隙間へ差し込んだ。

翼は視線をそらした。
その紙片には、こう記されていたのを、一瞬だけ読んでしまった。

「あなたの名前で、わたしは少しだけ生き直せた気がしました」

雨が降りはじめる。
店の外に出た女性の背中は、傘もささず、ゆっくりと路地へ消えていった。

翼は椅子に深く背を預ける。
名を呼ばれなかったはずのひとが、
自分より先にその名前で誰かに語られていた可能性。
それが、決して悲しみではなく、静かな継承だったような気がしていた。

“声は名に依るのではなく、誰かに残された響きでできている”

そんな言葉が、胸のどこかの頁でそっと読み返された気がした。
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