未明書房

はぐ

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第二章

第十五話

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「響きは頁を越えて」

未明書房に入ったのは、午前1時を少し過ぎた頃だった。
風はやみ、路地の灯りが文字になりかけた空気に滲んでいた。
翼は店主に導かれるように、棚の奥へ足を運ぶ。

その日、店主はなにも語らなかった。
ただ、一枚の紙片を差し出すと、静かにこう言った。

「喫茶 木霊から届きました。
 記憶の響きが、宛名を持たずに残されていたようです」

翼は紙片を受け取る。
柔らかい便箋の端には、小さく筆記体の“K”が記されていた。
その筆跡に見覚えがあった。

あの日の午後――喫茶 木霊の窓辺に座っていた、
言葉を交わさなかったあの女性の手元に残されていた便箋。
翼ブレンドの香りとともに、記憶の余韻が彼女の手からすっとこぼれた紙。

翼は便箋を開く。
文字は綴られていない。
ただ、一行だけインクの滲みが残っていた。

「翼という名が読まれた時、誰かの声が呼び起こされる気がする」

その言葉は、呼びかけというよりも、記憶そのもののようだった。
マスターがその紙を未明書房に託したのだと知ったとき、
翼は店主の言葉を思い出す。

「声は、語られるために書かれたとは限りません。
 ときには、誰かの記憶を渡すために、ただ響くだけの便りになるんです」

棚の片隅に、「未読の記憶」という分類票が貼られた一冊があった。
店主は紙片をそこへ差し込みながら、静かに言った。

「この響きは、たぶん他の誰かに読まれることで灯るのでしょう。
 名が重なっていても、声はきっと、別の呼び方で残ります」

翼はしばらく棚を見つめていた。
翼という名が、自分のものだったかどうかももう曖昧になりつつあった。
けれど、その曖昧さが「誰かの灯り」を受け取る余白でもある気がしていた。

便箋は静かに本の頁に挟まれ、
次の誰かが読む日を待っているようだった。

未明書房の空気は、静けさという名の記憶に包まれていた。
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