未明書房

はぐ

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第三章

第一話

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「名前を呼ばなかった朝」

秋史と初めて会った日の朝、
喫茶 木霊では時計の音がやけに耳に残った。

窓際の席に座った彼は、何も注文せずに、ただ便箋を眺めていた。
翼はその姿に、気づかれないように視線を送った。
名前を訊くこともなく、挨拶も交わさずに。
それなのに、胸の奥に語られる前の声が静かに灯った。

それが誰の声かは、すぐには分からなかった。
けれど、彼の持っていた紙片に記された文字列が、
翼の目に焼きついた。

「あなたの声を読むことで、わたしの沈黙が形になりました。」

その一文は、自分が彼に語られる存在だったのか――
それとも、自分が彼の沈黙を読んでしまったのか――
曖昧なまま、記憶の内側にしずかに沈んだ。

マスターが、「あの人は、音を名乗る前に帰る方ですよ」と言ったとき、
翼はふと、名前が語られないままでも響いてしまう瞬間のことを思った。

それは秋史だった。
けれど、彼がそう名乗った記憶はない。





数日後、未明書房でその名に再び出会った。
棚の奥にある分類票のない便箋に、筆跡の似た一文があった。

「名前は、声より先に失われるものです。
  それでも、誰かに呼ばれる灯りになれたなら。」

翼はその言葉を読みながら、
自分が秋史に何を残したかではなく、
彼が何を語り残したのかを問うようになっていた。

けれどその問いに、返答はない。
なぜなら――彼は、もういない。

名前を呼ばなかったあの日の朝が、
いまでは“語られなかった記憶の始まり”として残っている。

そして翼は、その続きを語るしかなかった。
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