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第三章
第七話
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「語りの入口に立つ」
秋史の気配が喫茶 木霊から完全に失われた日、
翼は何度も書きかけの便箋を開いては閉じた。
その言葉たちはすでに胸の奥にあったはずなのに、
紙に移すと、何かが違ってしまうようだった。
語りたいのは彼のことだった。
でも、名前を使うと彼が語られてしまう気がして。
語らなければ、自分の中にずっと“読まれていない声”として残ってしまう。
その迷いのまま、翼は未明書房へ向かった。
店内はいつも通り静かだったが、
棚の一角だけ、いつもよりも背表紙が少し揺れていた。
店主がふと視線をそらしながら告げる。
「秋史さんがお戻しになった最後の一冊かもしれません。
分類票は付けられていませんでしたが、
語られない声が、確かにその中に残っておりました」
翼は手を伸ばした。
表紙は無地だったが、手触りに微かな歪みがあった。
それは誰かが言葉にならない時間を綴った痕跡だった。
頁をめくると、語り手の視点は曖昧で、
一人称がわたしなのか誰かなのか、はっきりしないまま話が進んでいた。
「記憶は語られるより前に、誰かを選んでしまう。
それを語ってしまうことが、
その誰かを勝手に記憶に変えてしまうのだと思う」
翼はその語り口に、秋史が背中で語っていた声を重ねた。
名乗らなかった記憶。
語らなかった灯り。
残されなかった声。
それを、今、自分が語ることで、
彼の時間を再配置してしまうのではないか。
そう考えた瞬間、手元の本が少しだけ震えた気がした。
それは風でも地震でもなく、
語られてしまうことへの小さな抵抗だったように感じられた。
喫茶 木霊に戻ると、マスターがすでに翼のためのカップを整えていた。
受け皿には、名もない紙片が一枚、静かに敷かれていた。
「語るかどうかは、読む者次第です。
その声が、どこかの記憶の灯りに触れようとするなら――
語られないままでも、誰かに響くことがあります」
翼は頷いた。
語りとは、語り手が語ってしまうことではなく、
誰かが灯りに触れてしまった瞬間の選択なのかもしれない。
その夜、翼は便箋を開いた。
何も書かずに――ただ、宛先のないまま、語りの入口に立つことだけを選んだ。
語るかどうかは、まだ決まっていない。
けれど、もう灯りは彼のものではなく、
記憶として残る者の手の中に届いていた。
秋史の気配が喫茶 木霊から完全に失われた日、
翼は何度も書きかけの便箋を開いては閉じた。
その言葉たちはすでに胸の奥にあったはずなのに、
紙に移すと、何かが違ってしまうようだった。
語りたいのは彼のことだった。
でも、名前を使うと彼が語られてしまう気がして。
語らなければ、自分の中にずっと“読まれていない声”として残ってしまう。
その迷いのまま、翼は未明書房へ向かった。
店内はいつも通り静かだったが、
棚の一角だけ、いつもよりも背表紙が少し揺れていた。
店主がふと視線をそらしながら告げる。
「秋史さんがお戻しになった最後の一冊かもしれません。
分類票は付けられていませんでしたが、
語られない声が、確かにその中に残っておりました」
翼は手を伸ばした。
表紙は無地だったが、手触りに微かな歪みがあった。
それは誰かが言葉にならない時間を綴った痕跡だった。
頁をめくると、語り手の視点は曖昧で、
一人称がわたしなのか誰かなのか、はっきりしないまま話が進んでいた。
「記憶は語られるより前に、誰かを選んでしまう。
それを語ってしまうことが、
その誰かを勝手に記憶に変えてしまうのだと思う」
翼はその語り口に、秋史が背中で語っていた声を重ねた。
名乗らなかった記憶。
語らなかった灯り。
残されなかった声。
それを、今、自分が語ることで、
彼の時間を再配置してしまうのではないか。
そう考えた瞬間、手元の本が少しだけ震えた気がした。
それは風でも地震でもなく、
語られてしまうことへの小さな抵抗だったように感じられた。
喫茶 木霊に戻ると、マスターがすでに翼のためのカップを整えていた。
受け皿には、名もない紙片が一枚、静かに敷かれていた。
「語るかどうかは、読む者次第です。
その声が、どこかの記憶の灯りに触れようとするなら――
語られないままでも、誰かに響くことがあります」
翼は頷いた。
語りとは、語り手が語ってしまうことではなく、
誰かが灯りに触れてしまった瞬間の選択なのかもしれない。
その夜、翼は便箋を開いた。
何も書かずに――ただ、宛先のないまま、語りの入口に立つことだけを選んだ。
語るかどうかは、まだ決まっていない。
けれど、もう灯りは彼のものではなく、
記憶として残る者の手の中に届いていた。
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