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第5話 秘密の一歩
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朝。
眩しい光がカーテンの隙間から射し込み、紗菜のまぶたを容赦なく照らしていた。
昨夜はほとんど眠れなかった。布団の中で何度も寝返りを打ち、そのたびに「どうしたいんだろう」と自分に問い続けていた。
だから今も頭は重いのに、不思議と心だけは熱を帯びている。
布団から抜け出して畳に足を下ろす。ひんやりとした感触が足の裏を走り、ぼんやりした頭が少しだけ冴えた。
洗面所で冷たい水を顔に浴びせ、鏡を覗き込む。
腫れぼったい瞼の奥で、自分の瞳が昨日までとは違う光を宿しているのがわかる。
(……私、本当はどうしたいんだろう)
胸に問いかけると、答えはすぐに浮かんだ。
「強くなりたい」
昨日、布団の中で繰り返し呟いたその言葉が、心臓の鼓動と一緒に今も身体を巡っている。
居間に戻ると、ちゃぶ台の上に一枚のチラシが伏せられていた。
それは昨日の夕方、帰り道の掲示板に貼られていた体育連盟テニス大会の案内だ。
立ち止まって何度も見上げて、結局一枚もらって帰ってきたのだ。
自分の部屋に隠すこともできず、まるで自分を試すようにそこに置いたままにしている。
指先で紙の端をつまむ。ざらりとした感触。
ほんの一枚の紙なのに、その数字――参加費1万5000円――が未来を左右する壁のように立ちはだかる。
そのとき、台所から母の声がした。
「ずいぶん早起きね。何かあったの?」
母はエプロン姿で、鍋の味噌汁をかき混ぜながら顔を上げた。
「……ううん。なんか、早く目が覚めちゃって」
とっさに笑って答える。胸の奥に渦巻く気持ちを悟られないように。
母は何も気づかないまま「元気で助かるわ」と微笑んだ。
「お兄ちゃんも頑張ってるし……紗菜はまだ、夢を追っていいんだから」
「夢」という言葉に、心臓がぎゅっと掴まれたように止まる。
振り返りそうになるのを必死で抑えながら、紗菜はチラシを見つめた。
(……追っていいのかな、本当に)
赤い数字が目の奥に焼きつく。
だけど昨夜とは違った。
「無理だ」と突き放す気持ちより、「なんとかしたい」という衝動の方が強くなっている。
湯気の立つ味噌汁の香りが漂い、じんわりと胸に染み渡る。
その温もりが背中を押してくれるような気がして、紗菜は小さく拳を握った。
(やってみたい……やってみなきゃ、きっと後悔する)
言葉にならない願いが、静かに心の奥で形を成していく。
夕暮れの駅前は、ざわざわとした人いきれに包まれていた。
制服姿の高校生、買い物袋を下げた主婦、仕事帰りのサラリーマン。みんなが当たり前のように歩いているのに、その中で紗菜だけが、自分だけが、どこにも居場所を見つけられないような気分だった。
鞄をぎゅっと抱えながら、足元を見つめて歩く。
頭の中では、朝からずっと同じ数字がぐるぐると回っていた。
「1万5000円」。
それは、ただの数字であるはずなのに、重たくのしかかって心を締め付ける。
(バイトすれば……稼げる。でも、学校は……禁止してる)
心の中でつぶやくと、足が止まった。
学校でアルバイトをしていることが見つかったら――停学。大会どころか、テニスの夢そのものが途切れてしまうかもしれない。
その想像だけで、首筋に冷たい汗が伝った。
けれど、もう一方で、胸の奥に小さく燃える炎がある。
(やらなきゃ進めない。やらなきゃ、私は何も変わらない)
迷いと決意の間で、心はぐらぐらと揺れていた。
そのとき、ふと視界の端に色鮮やかな掲示板が映った。
駅前の壁に、びっしりと貼られた求人広告。赤や黄色、緑の紙が夕陽を浴び、風に揺れている。
それはまるで、彼女を挑発するかのように輝いて見えた。
「……」
紗菜は気づけば吸い寄せられるように歩み寄り、一枚の紙を両手でそっと掴んだ。
「時給900円」「未経験歓迎」「高校生可」――そんな文字が並んでいる。
たった数行の言葉なのに、心臓が強く跳ねた。
(900円なら……17時間くらいで……)
脳裏で素早く計算が始まる。
頭の中の数字が、夢に繋がる具体的な階段に変わっていく。
――ただの計算のはずなのに、その想像だけで、涙が出そうなくらい胸が熱くなった。
(でも……もし学校に知られたら……先生に叱られて、お母さんに迷惑かけて、お兄ちゃんにも……)
震える指で紙を持ちながら、何度も足がすくんだ。
兄の顔が浮かぶ。大学を諦め、社会人として働きながら家を支えている兄。
母の顔が浮かぶ。疲れた笑顔で、それでも「夢を追っていい」と言ってくれた母。
(これ以上、迷惑かけられない。だから……私がやるしかないんだ)
唇を強く噛んだ。
迷っている時間が、逆に心を追い詰めていく。
もしこの瞬間に一歩を踏み出せなければ、一生後悔するような気がした。
夜、自室。
机の上に広げた求人票の紙を見つめる。
蛍光灯の光を浴びた白い紙は、まるで自分を試す審判のように冷たく光っていた。
息を詰めながら、ペンを持つ手に力を込める。
「……」
一文字、一文字。震える筆跡で名前を書き込んだ。
書き終えた瞬間、胸の奥がどくん、と大きく鳴った。
罪悪感と高揚感。怖さと誇らしさ。矛盾する感情が渦を巻いて、体が熱くなる。
「これは……秘密。誰にも言えない。けど……これで、私は一歩進めた」
声にはならなかったけれど、心で呟いたその瞬間、紗菜は紙を胸に抱きしめた。
誰にも見せられない秘密の決意。
けれどその小さな決意が、これから彼女を夢の舞台へ導くための、最初の確かな一歩になるのだと、確信していた。
眩しい光がカーテンの隙間から射し込み、紗菜のまぶたを容赦なく照らしていた。
昨夜はほとんど眠れなかった。布団の中で何度も寝返りを打ち、そのたびに「どうしたいんだろう」と自分に問い続けていた。
だから今も頭は重いのに、不思議と心だけは熱を帯びている。
布団から抜け出して畳に足を下ろす。ひんやりとした感触が足の裏を走り、ぼんやりした頭が少しだけ冴えた。
洗面所で冷たい水を顔に浴びせ、鏡を覗き込む。
腫れぼったい瞼の奥で、自分の瞳が昨日までとは違う光を宿しているのがわかる。
(……私、本当はどうしたいんだろう)
胸に問いかけると、答えはすぐに浮かんだ。
「強くなりたい」
昨日、布団の中で繰り返し呟いたその言葉が、心臓の鼓動と一緒に今も身体を巡っている。
居間に戻ると、ちゃぶ台の上に一枚のチラシが伏せられていた。
それは昨日の夕方、帰り道の掲示板に貼られていた体育連盟テニス大会の案内だ。
立ち止まって何度も見上げて、結局一枚もらって帰ってきたのだ。
自分の部屋に隠すこともできず、まるで自分を試すようにそこに置いたままにしている。
指先で紙の端をつまむ。ざらりとした感触。
ほんの一枚の紙なのに、その数字――参加費1万5000円――が未来を左右する壁のように立ちはだかる。
そのとき、台所から母の声がした。
「ずいぶん早起きね。何かあったの?」
母はエプロン姿で、鍋の味噌汁をかき混ぜながら顔を上げた。
「……ううん。なんか、早く目が覚めちゃって」
とっさに笑って答える。胸の奥に渦巻く気持ちを悟られないように。
母は何も気づかないまま「元気で助かるわ」と微笑んだ。
「お兄ちゃんも頑張ってるし……紗菜はまだ、夢を追っていいんだから」
「夢」という言葉に、心臓がぎゅっと掴まれたように止まる。
振り返りそうになるのを必死で抑えながら、紗菜はチラシを見つめた。
(……追っていいのかな、本当に)
赤い数字が目の奥に焼きつく。
だけど昨夜とは違った。
「無理だ」と突き放す気持ちより、「なんとかしたい」という衝動の方が強くなっている。
湯気の立つ味噌汁の香りが漂い、じんわりと胸に染み渡る。
その温もりが背中を押してくれるような気がして、紗菜は小さく拳を握った。
(やってみたい……やってみなきゃ、きっと後悔する)
言葉にならない願いが、静かに心の奥で形を成していく。
夕暮れの駅前は、ざわざわとした人いきれに包まれていた。
制服姿の高校生、買い物袋を下げた主婦、仕事帰りのサラリーマン。みんなが当たり前のように歩いているのに、その中で紗菜だけが、自分だけが、どこにも居場所を見つけられないような気分だった。
鞄をぎゅっと抱えながら、足元を見つめて歩く。
頭の中では、朝からずっと同じ数字がぐるぐると回っていた。
「1万5000円」。
それは、ただの数字であるはずなのに、重たくのしかかって心を締め付ける。
(バイトすれば……稼げる。でも、学校は……禁止してる)
心の中でつぶやくと、足が止まった。
学校でアルバイトをしていることが見つかったら――停学。大会どころか、テニスの夢そのものが途切れてしまうかもしれない。
その想像だけで、首筋に冷たい汗が伝った。
けれど、もう一方で、胸の奥に小さく燃える炎がある。
(やらなきゃ進めない。やらなきゃ、私は何も変わらない)
迷いと決意の間で、心はぐらぐらと揺れていた。
そのとき、ふと視界の端に色鮮やかな掲示板が映った。
駅前の壁に、びっしりと貼られた求人広告。赤や黄色、緑の紙が夕陽を浴び、風に揺れている。
それはまるで、彼女を挑発するかのように輝いて見えた。
「……」
紗菜は気づけば吸い寄せられるように歩み寄り、一枚の紙を両手でそっと掴んだ。
「時給900円」「未経験歓迎」「高校生可」――そんな文字が並んでいる。
たった数行の言葉なのに、心臓が強く跳ねた。
(900円なら……17時間くらいで……)
脳裏で素早く計算が始まる。
頭の中の数字が、夢に繋がる具体的な階段に変わっていく。
――ただの計算のはずなのに、その想像だけで、涙が出そうなくらい胸が熱くなった。
(でも……もし学校に知られたら……先生に叱られて、お母さんに迷惑かけて、お兄ちゃんにも……)
震える指で紙を持ちながら、何度も足がすくんだ。
兄の顔が浮かぶ。大学を諦め、社会人として働きながら家を支えている兄。
母の顔が浮かぶ。疲れた笑顔で、それでも「夢を追っていい」と言ってくれた母。
(これ以上、迷惑かけられない。だから……私がやるしかないんだ)
唇を強く噛んだ。
迷っている時間が、逆に心を追い詰めていく。
もしこの瞬間に一歩を踏み出せなければ、一生後悔するような気がした。
夜、自室。
机の上に広げた求人票の紙を見つめる。
蛍光灯の光を浴びた白い紙は、まるで自分を試す審判のように冷たく光っていた。
息を詰めながら、ペンを持つ手に力を込める。
「……」
一文字、一文字。震える筆跡で名前を書き込んだ。
書き終えた瞬間、胸の奥がどくん、と大きく鳴った。
罪悪感と高揚感。怖さと誇らしさ。矛盾する感情が渦を巻いて、体が熱くなる。
「これは……秘密。誰にも言えない。けど……これで、私は一歩進めた」
声にはならなかったけれど、心で呟いたその瞬間、紗菜は紙を胸に抱きしめた。
誰にも見せられない秘密の決意。
けれどその小さな決意が、これから彼女を夢の舞台へ導くための、最初の確かな一歩になるのだと、確信していた。
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