ラインスナイプ! 世界を驚かせた高校生テニス少女の物語

ヨーヨー

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第37話 相棒との出会い

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週末の朝、カーテンの隙間から差し込む光が、机の上の白い封筒を細く照らしていた。
二十万円――大会でつかみ取った賞金。紗菜は深呼吸をひとつして、封筒の口を指でなぞる。紙の感触が、まだ少しだけ夢の続きみたいで現実味がない。

古いラケットをそっと持ち上げる。グリップに残る黒い補強テープ、兄が夜に巻き直してくれた跡。フレームのわずかな歪みは、光にかざすとすぐに分かる。
(ここまで一緒に来たんだよね)
声に出さず、心の中でだけ小さく話しかける。準々決勝の途中でガットが切れた時の、あの焦りと心細さ。それでも最後までこの相棒で戦い切った。誇らしいけれど、もう限界が近いのも事実だ。

机の引き出しから、ルーズリーフの紙片を取り出す。授業の合間にメモしたラケットの条件――「振り抜きやすいこと」「面ブレしにくいこと」「重すぎないこと」。スマホに保存しておいた候補名の横には、重さやバランスの数字。
(強くなるために、今のわたしに合う一本を)
そう思うと、指先が少し震えた。怖さじゃない。何かを決める時の、高い場所から一歩踏み出すみたいな緊張。

封筒から少しだけ札を抜き、残りはきちんとしまって小さなポーチに入れる。全部を使うつもりはない。これからの大会のエントリー代、交通費、ガットの張り替え代……必要なものは、まだいくつもある。
(それに、家のこともあるし)
具体的な言葉にはしない。でも、母の少ししんどそうな朝の顔や、お兄ちゃんのくたびれたスーツの肩の線が、ふっと脳裏に浮かんだ。胸の真ん中が、きゅっとなる。

玄関で靴ひもを結ぶ。鏡に映る自分に、紗菜は小さくうなずいた。
(大丈夫。堂々として行こう)
今日は“贅沢”をしに行くんじゃない。“準備”をしに行くんだ。次の一歩のための道具を選びに。

電車に揺られながら、窓の外を流れる街並みを追う。信号待ちの自転車、開店準備の店先、犬の散歩。いつもと同じ週末の景色なのに、胸の鼓動だけは少し早い。
(あの子――一年生の後輩、なんて言ってたっけ)
“いつか先輩みたいになりたいです”。
思い出した瞬間、頬がじんわり熱くなる。憧れの視線に応えるためにも、道具選びに妥協はできない。

隣の駅前のスポーツ用品店に着く。ガラス越し、壁一面にラケットが整列している。深い色、鮮やかな色、控えめな色――フレームのラインが光を拾って、きらりと光る。
自動ドアが開いた瞬間、ガットと樹脂の混ざった、少し甘いような匂いが鼻をくすぐった。店内の空気は、きゅっと張りつめている。ここで新しい相棒と出会う人たちの、無数の期待が漂っているみたいだ。

「いらっしゃいませ。ラケットですか?」
明るい声に、紗菜は少しだけ背筋を伸ばした。
「はい。試合で使えるものを……」
「でしたら、まずはこの辺りが人気ですね。振り抜きやすくて、ボールも伸びますよ」
差し出された一本を受け取る。手のひらに吸い付くグリップの新しい革の感触。持ち上げた瞬間の“芯”の位置が、腕から肩へ真っ直ぐ伝わってくる。
(悪くない。でも――)
空振りの素振りを三度。スッ、スッ、と空気が切れる音。軽い。けれど、軽さの中で面の安定が少し心許ない気もする。ラケット面が、打点を過ぎるたびにわずかに遅れてついてくる感覚。

「こちらは少し重めですが、安定感があります」
次の一本を受け取る。今度は重さが心地よい。面がぶれずに前を向く。けれど、腕から肩に抜ける瞬間に、ほんの少し“詰まり”を感じた。
(フルスイングの最後、もう少しだけ自由がほしい)
三本目。バランスポイントが手元に寄っているタイプ。振り上げは軽いのに、ヘッドの運びが途中で失速する。
(違う。悪くはないけど、わたしの腕の振り方と噛み合わない)

「もしよければ、このコーナーも触ってみてください。扱いは少し難しいですけど、ハマると手放せないっていう人が多くて」
少しだけ奥まった棚。色味も控えめで、派手さはない。紗菜は無意識に歩み寄っていた。タグに並ぶ数値を目で追い、手を伸ばす。
一本、また一本。触れるたびに、伝わってくる“性格”が違う。強気な重心、素直な軌道、気まぐれな反発……。
(ちゃんと選ぶ。数字じゃなく、わたしの体と心に合う一本を)

古い相棒を入れたケースを肩から下げ直し、紗菜は深呼吸をする。
――すう、はあ。
(逃げない。焦らない。丁寧に)

指先が、ある一本のグリップに触れた。
何の飾り気もない深い色。持ち上げると、腕の中に“まっすぐ”が一本通る。
素振りはしない。まずは構えだけを作る。左足、右足。膝をほんの少し柔らかく。視線を前へ。
ゆっくりとテイクバック――そして、最小限の力で前へ。
空気が切れる音が、さっきまでと違う。鋭いのに、怖くない。振り抜いた先で、腕が自然にほどける。
(……今の、感覚)

思わず、もう一度。今度は少しだけスピードを上げる。
スッ、と軌道が引かれ、最後にふわりと余韻が残る。体のどこにも引っかかりがない。呼吸と、リズムと、心が同じテンポで動けた。
胸の内側が、静かに波打つ。
(これかもしれない)

店員が、そっと一歩だけ近づいた気配がした。
「気になる一本、ありました?」
紗菜は小さくうなずく。けれど、すぐには“決めます”と言わない。まだ確かめたいことがある。
このまま勢いで選ぶのは簡単だ。でも、今日ここに来た意味は、勢いじゃなくて“確信”を手に入れること。

古い相棒のグリップを軽く握り直す。テープの端が少し浮いている。兄の指先の温度を思い出す。
(あの日、応急処置で助けてもらった。でも次へ行くには、新しい一本が要る)

紗菜は棚に並ぶラケットを、もう一巡だけゆっくり見ていく。手の中の“まっすぐ”を忘れないように、基準を胸に置いたまま。
選ぶという行為が、いつの間にか怖さではなく、楽しさに変わっていく。自分の体の声を聞く作業。未来のフォームを、一足先に確かめる作業。

指先が、さっきの一本に再び触れる。
鼓動が少しずつ速くなり、胸の奥で熱が広がっていく。
紗菜は小さく息を整え、グリップをもう一度確かめるように握りしめた。

これまでの迷いがすっと消え、心の中に静かな確信が芽生える。

(……見つけた。わたしの相棒は、この一本だ)


その確信が胸の奥に静かに落ち着いた瞬間、紗菜は店員さんに顔を上げた。「このラケット、お願いします」と言いながら、グリップの端をもう一度だけ指で確かめる。手のひらに吸い付く感触が、たしかな返事のように伝わってきた。

「ありがとうございます。張り上げはどうされますか?」
「試合用で……コントロールがしやすくて、でもあんまり硬すぎない感じがいいです」
準々決勝でガットが切れたときの、あの嫌な空洞感が喉元に蘇る。だからこそ、反発だけじゃなく“信頼できる”打感が欲しい。店員さんはうなずき、いくつかのガットを並べてくれた。

「でしたら、このタイプが手首に優しくて乗りが良いですよ。テンションは50ポンド前後が合いそうです。今の振り抜きなら、50~51の範囲で調整できます」
「……50ポンドでお願いします」
言い切った自分の声は、思っていたより落ち着いていた。迷いが消えると、選ぶ言葉もまっすぐになる。

グリップサイズを確認して、オーバーグリップの色を尋ねられる。紗菜は少し考えて、白を選んだ。派手じゃないけれど、コートに立ったとき一番手元の動きが見やすい色。少しだけ迷って、もう一本だけ薄いピンクのテープもお願いする。試合の朝、気分を切り替えたいときに巻き替える用に。

張り機にラケットが固定され、銀色のアームがガットを一本ずつ引いていく。キィ、と小さな音を立てて糸が張り詰めるたび、胸の奥でも同じように一本ずつ“準備”が整っていく気がした。待っている間、古い相棒のケースを膝の上に置いてチャックを撫でる。黒い補強テープの端、兄の指先の温度。あの夜の居間の明かりの色まで思い出せる。

(お兄ちゃん、見たらなんて言うかな)
スマホを取り出し、さっき選んだラケットの写真を一枚だけ送ってみる。すぐに既読になって、「相棒、できたな。あとで見せろ」の短いメッセージ。画面の向こうの声が、心の中でふっと笑う。

店内の空調の音と、ガットを引く一定のリズム。ガラス越しに差す午前の光がフレームの色を少しずつ艶やかにしていく。張り上がりの最終チェックが終わると、店員さんが丁寧にラケットを差し出した。
「お待たせしました。50ポンド、四隅の結びもきれいに入っています。フレームも個体差が少なくて、良い一本ですよ」
「ありがとうございます」
手に取ると、さっきよりもさらに“一本”になっているのがわかる。面の中心がすっと前を向く。構えて、ほんの少しだけ空を切る。音が変わった。余計な震えが消えて、芯の細い線だけが手首から肘へ、まっすぐ通り抜けていく。

会計で封筒から必要な分だけを取り出す。残りはまた封をし直して、小さなポーチにしまう。エントリー代、交通費、替えのガット代――頭の中でいくつもの「必要」が横に並ぶ。それでも、今目の前のレジに差し出したお金は、胸を高くして使えるものだ。勝ってつかんだ、自分の力のお金。
「ありがとうございました!」
レシートを財布にしまい、ケースに入った新しい相棒を胸に抱えた瞬間、肩の力がすっと抜けた。嬉しい、だけじゃない。責任の重さと、支えてくれているものの温度が、そのまま重心になって体を安定させる。

店を出ると、街の光が少し違って見えた。信号待ちで立ち止まる間、横断歩道の白い帯がコートのラインに重なって見えて、思わず笑ってしまう。駅前のガラスに映る自分は、いつもの姿なのに、どこか背が伸びたみたいだった。

帰りの電車では膝の上にケースを横たえ、指先でグリップエンドをそっと撫でる。頭の中では、最初の一打のイメージトレーニングが自然に始まっていた。トスを上げる代わりに呼吸を合わせ、右足の踏み込みと同時に面をまっすぐ――。ホームのアナウンスが遠くに聞こえる。

最寄り駅に着くと、いつもの公園の脇を通って家へ向かった。壁打ちスペースの前で、ほんの一瞬だけ立ち止まる。今日は打たない。打ちたい気持ちを、ぐっと握りしめて持ち帰る。最初の一球は、ちゃんとしたアップをして、ちゃんとした状態で。この相棒にとっても、それがいい。

玄関の扉を開けると、台所からお湯の音がした。
「ただいま」
「おかえり。どうだった?」母の声に、紗菜はケースを胸の前に抱え直して、にこっと笑った。
「買ってきた。これからの、相棒」
「見せてごらん」
居間でケースを開くと、光を受けたフレームの深い色に、母が小さく息をのむ。「きれいねぇ」
「持ってみる?」と差し出すと、「壊したら困るから見てるだけ」と笑って手を振る。けれど、その目はほんの少しうるんでいた。きっと、封筒に入った賞金の重みと同じくらい、この一本の重みを感じてくれている。

兄からも「写真見た。夜、素振りだけ付き合う」とメッセージが届く。思わず「やった」と返して、紗菜は新品の白いオーバーグリップをもう一度確かめる。テープの端を少し押さえ、指先で角をなじませると、手のひらとの境界が曖昧になっていく。

鏡の前で構えてみる。足幅、膝の柔らかさ、視線。右肩の力が抜ける位置を探して、呼吸をひとつ。振り切った先で、腕の重みがきれいに抜けた。音はしないのに、打球の感触まで想像できる。
(大丈夫。いける)
胸の中に、新しいスタートラインが静かに引かれる。明日からの練習メニューが、頭の中で自然と並び始める。フットワーク、リターン、そして――ここぞの一本。

ラケットをケースに戻し、チャックを閉める前に、ほんの一拍だけ指を止めた。
「よろしくね」
声に出さず、心の中でだけ、それでもはっきりと伝える。カチリと金具が噛み合い、日常の音に戻る。その音さえ、今日は心強く感じられた。

夕方の光が薄くなる居間で、紗菜は小さく拳を握る。
勝って手にした賞金で選んだ一本。家族の前で胸を張って「相棒」と呼べる一本。ここから先のボールは、この手で決めに行く。
(もっと強くなる。ちゃんと、証明する)
静かな決意が、紗菜の背筋をすっと伸ばした。

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