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婚約者とは
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「アン、婚約者って一体何なのかしら」
「お互いを愛し合い、将来結婚の約束を交わした者同士、なのでは?」
「一般的にはまあそうよね」
ローザ・アリンガム。
かつて救国の英雄と讃えられた元近衛隊長、アリンガム伯爵の一人娘。
淡いラベンダー色のふんわりとした髪に、憂いを含ませた藍色の瞳。純白のきめ細やかな肌にすらりと伸びた手足。
儚くも美しい妖精のような佇まいでありながら、窓枠にだらしなくもたれかかれ右腕を力なくぶらぶら外に放り出している態度が、すべてを台無しにしている。
貴族令嬢にあるまじき行為だが、広大な屋敷の一番奥に位置するここローザの部屋は、ローザ本人と信頼するメイドのアンしか出入りしないため、見咎める者は誰もいない。
その見た目の可憐さとひ弱な体を心配した伯爵が、人目に晒さないよう大切に育てているともっぱら噂されているが、実際にはただ外に出るのを面倒がっているだけ。読書や編み物が大好きで、自分の部屋が1番居心地の良い城。
わざわざ着飾って外出して慣れない道を歩いたり買い物したり、疲れるだけで何が楽しいの。
そんな態度で滅多に人前に出ないものだから、深窓の令嬢という麗しき噂だけがどんどん大きくなって一人歩きしていき、噂の自分に勝てそうにないからとますます引きこもる始末。
そんなローザは、17歳の誕生日を迎えたと同時に婚約した。
相手はジーク・ターラント。
父の近衛時代の親友、ターラント公爵の次男で、幼い頃はお互いの家を行き来してよく遊んだ幼馴染。年頃になってからは自然に遊ばなくなり会うこともめっきり減ったが、ローザの初恋の相手でもある。
数年ぶりに顔を合わせたジークは、ローザの記憶より背が伸び体つきもがっしりとしていて、少年っぽさの抜けた立派な青年に成長していた。
「久しぶり、元気だった?」
「ええ、ジークは?」
「まあ見ての通りさ」
言葉少なに交わす挨拶。あの頃より低い声が頭の中にこだまする。少しだけ口の端を上げて微笑んだ姿は、昔の屈託ない笑顔を彷彿とさせて、ローザの胸はとくんと高鳴った。
初恋再び。
かくして、親同士の結託により勝手に結ばれた2人の婚約は、ローザにとっては幸運としか言いようがない喜ばしい出来事だった。
あくまでもローザにとっては。
「愛し合う、か……」
大きな溜息をつき部屋の中を振り返ると、メイドのアンが紅茶の用意をする卒ない手つきが目に入った。
「ジークが私のこと愛してると思う?」
「さあ、私からは何とも」
「そこは嘘でも『きっと愛していらっしゃるに決まってます!』とか言ってよー」
「それはちょっと、ノーコメントとさせていただき」
「うわーん、アンだけは私の味方でいてよー」
「もちろんお嬢様の味方ですとも。ただ、嘘はいけませんから」
眉一つ動かさずにポットに手をかけるメイドに、ちっと盛大な舌打ちを打つ。これもまたローザの部屋にいる限り、注意する者は誰もいない。
婚約成立となってから、ジークは定期的にローザの元を訪れるようになった。この時ばかりはローザもいそいそと自分を着飾り、デートに誘われれば喜んで馬車に乗り込み躊躇いなく外出した。自然溢れる森を散歩したり、話題の歌劇を見に出かけたり、流行りのカフェでお茶したり。若い男女がやるようなことはひと通り2人で経験した。どれもこれもローザにとっては楽しいひとときだった。
がしかし。
いわゆる甘い雰囲気には、一切ならなかった。ただの一度も。
大切にはしてくれていると思う。思うけれども、何かが違う。幼馴染のままというか、いまいち距離があるというか。
「あれだけ2人っきりで過ごしたら、手を握ったりとか肩を寄せ合ったりとか、キスのひとつや2つや3つ、あっても良くない?」
「キスしたかったんですね」
「私ってそんなに魅力ない? 子供の時から変わってない? 唇のケアは万全よ」
「キスしたかったんですね」
「嫌われてはいないと思うのよ。いつも優しく微笑んでくれるもの、間隔を空けず会いに来てくれるもの。でも何で手を出してこないの?もういっそ私からがばっといっちゃうべき?」
「キスしたかったんですね」
わかりやすく嫌われていると行動で表してくれればいっそ諦めがつく。けれどジークは表面上は優しく、婚約の継続も破棄も切り出してこない。むしろ婚約について2人で話をしたことは一度もない。
私達が婚約してるってこと知らないとか?
いや流石にそれはないだろう。
もやもやした気持ちを抱えたまま、早一年。
「このまま結婚するのかな、私」
「何事もなければ、おそらく」
「愛されてる実感がないまま、愛する人と結婚ってどうなのよ。幸せと言える?」
小さい頃から変わらない、ジークの煌めく緑色の瞳。2人の会話は言葉少なでも、あの瞳に見つめられているだけで真綿で包まれたように安心できて、この上なく幸せな気持ちになれる。
幼いジークの天使のようにころころ鳴る優しい声も好きだったけれど、今のジークの低い穏やかな声も、ずっと聴いていられるほど心地良い。
好き。大好き。
同じじゃなくても良い。
私よりずっと少なくて良いから、ほんのちょっとで良いから、ジークも私のこと思ってくれてるんだなって感じられる一瞬があれば。
そうすれば、この婚約をもう少し素直に喜べるのに。
「色々考えてたら、涙が出そう」
「水分は大切です、どうぞ」
ふんわりと柔らかい紅茶の香りに、指先の感覚も柔らかくなってきて、ローザはそっと瞳を閉じ何度か瞬きした。
「ありがとうアン、大好きよ」
「恐れ入ります」
そっとカップを持ち上げかけて、ふとテーブルの端に視線が吸い寄せられる。
「アン、それは?」
「ああ、落ち着かれたらお渡ししようかと」
渡すタイミングを見計らっていたらしいそれは、友人のサラからの手紙だった。一口紅茶を口に含んでから受け取り、封を開ける。
「新しい遊びのお誘いね」
「お互いを愛し合い、将来結婚の約束を交わした者同士、なのでは?」
「一般的にはまあそうよね」
ローザ・アリンガム。
かつて救国の英雄と讃えられた元近衛隊長、アリンガム伯爵の一人娘。
淡いラベンダー色のふんわりとした髪に、憂いを含ませた藍色の瞳。純白のきめ細やかな肌にすらりと伸びた手足。
儚くも美しい妖精のような佇まいでありながら、窓枠にだらしなくもたれかかれ右腕を力なくぶらぶら外に放り出している態度が、すべてを台無しにしている。
貴族令嬢にあるまじき行為だが、広大な屋敷の一番奥に位置するここローザの部屋は、ローザ本人と信頼するメイドのアンしか出入りしないため、見咎める者は誰もいない。
その見た目の可憐さとひ弱な体を心配した伯爵が、人目に晒さないよう大切に育てているともっぱら噂されているが、実際にはただ外に出るのを面倒がっているだけ。読書や編み物が大好きで、自分の部屋が1番居心地の良い城。
わざわざ着飾って外出して慣れない道を歩いたり買い物したり、疲れるだけで何が楽しいの。
そんな態度で滅多に人前に出ないものだから、深窓の令嬢という麗しき噂だけがどんどん大きくなって一人歩きしていき、噂の自分に勝てそうにないからとますます引きこもる始末。
そんなローザは、17歳の誕生日を迎えたと同時に婚約した。
相手はジーク・ターラント。
父の近衛時代の親友、ターラント公爵の次男で、幼い頃はお互いの家を行き来してよく遊んだ幼馴染。年頃になってからは自然に遊ばなくなり会うこともめっきり減ったが、ローザの初恋の相手でもある。
数年ぶりに顔を合わせたジークは、ローザの記憶より背が伸び体つきもがっしりとしていて、少年っぽさの抜けた立派な青年に成長していた。
「久しぶり、元気だった?」
「ええ、ジークは?」
「まあ見ての通りさ」
言葉少なに交わす挨拶。あの頃より低い声が頭の中にこだまする。少しだけ口の端を上げて微笑んだ姿は、昔の屈託ない笑顔を彷彿とさせて、ローザの胸はとくんと高鳴った。
初恋再び。
かくして、親同士の結託により勝手に結ばれた2人の婚約は、ローザにとっては幸運としか言いようがない喜ばしい出来事だった。
あくまでもローザにとっては。
「愛し合う、か……」
大きな溜息をつき部屋の中を振り返ると、メイドのアンが紅茶の用意をする卒ない手つきが目に入った。
「ジークが私のこと愛してると思う?」
「さあ、私からは何とも」
「そこは嘘でも『きっと愛していらっしゃるに決まってます!』とか言ってよー」
「それはちょっと、ノーコメントとさせていただき」
「うわーん、アンだけは私の味方でいてよー」
「もちろんお嬢様の味方ですとも。ただ、嘘はいけませんから」
眉一つ動かさずにポットに手をかけるメイドに、ちっと盛大な舌打ちを打つ。これもまたローザの部屋にいる限り、注意する者は誰もいない。
婚約成立となってから、ジークは定期的にローザの元を訪れるようになった。この時ばかりはローザもいそいそと自分を着飾り、デートに誘われれば喜んで馬車に乗り込み躊躇いなく外出した。自然溢れる森を散歩したり、話題の歌劇を見に出かけたり、流行りのカフェでお茶したり。若い男女がやるようなことはひと通り2人で経験した。どれもこれもローザにとっては楽しいひとときだった。
がしかし。
いわゆる甘い雰囲気には、一切ならなかった。ただの一度も。
大切にはしてくれていると思う。思うけれども、何かが違う。幼馴染のままというか、いまいち距離があるというか。
「あれだけ2人っきりで過ごしたら、手を握ったりとか肩を寄せ合ったりとか、キスのひとつや2つや3つ、あっても良くない?」
「キスしたかったんですね」
「私ってそんなに魅力ない? 子供の時から変わってない? 唇のケアは万全よ」
「キスしたかったんですね」
「嫌われてはいないと思うのよ。いつも優しく微笑んでくれるもの、間隔を空けず会いに来てくれるもの。でも何で手を出してこないの?もういっそ私からがばっといっちゃうべき?」
「キスしたかったんですね」
わかりやすく嫌われていると行動で表してくれればいっそ諦めがつく。けれどジークは表面上は優しく、婚約の継続も破棄も切り出してこない。むしろ婚約について2人で話をしたことは一度もない。
私達が婚約してるってこと知らないとか?
いや流石にそれはないだろう。
もやもやした気持ちを抱えたまま、早一年。
「このまま結婚するのかな、私」
「何事もなければ、おそらく」
「愛されてる実感がないまま、愛する人と結婚ってどうなのよ。幸せと言える?」
小さい頃から変わらない、ジークの煌めく緑色の瞳。2人の会話は言葉少なでも、あの瞳に見つめられているだけで真綿で包まれたように安心できて、この上なく幸せな気持ちになれる。
幼いジークの天使のようにころころ鳴る優しい声も好きだったけれど、今のジークの低い穏やかな声も、ずっと聴いていられるほど心地良い。
好き。大好き。
同じじゃなくても良い。
私よりずっと少なくて良いから、ほんのちょっとで良いから、ジークも私のこと思ってくれてるんだなって感じられる一瞬があれば。
そうすれば、この婚約をもう少し素直に喜べるのに。
「色々考えてたら、涙が出そう」
「水分は大切です、どうぞ」
ふんわりと柔らかい紅茶の香りに、指先の感覚も柔らかくなってきて、ローザはそっと瞳を閉じ何度か瞬きした。
「ありがとうアン、大好きよ」
「恐れ入ります」
そっとカップを持ち上げかけて、ふとテーブルの端に視線が吸い寄せられる。
「アン、それは?」
「ああ、落ち着かれたらお渡ししようかと」
渡すタイミングを見計らっていたらしいそれは、友人のサラからの手紙だった。一口紅茶を口に含んでから受け取り、封を開ける。
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