薄明

田平 百石

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薄明

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 ある秋の昼下がりに、うとうとしているとお勝手の方で皿が割れた音がした。家内はさっき時計を修理してもらうと言って、時計屋に出ていったばかりである。うかうかしていたらまた皿が割れた。「おい、誰か居るのか」と叫んだら「いない、いない」とうっすら聞こえてきた。不安になったので、近所の喫茶店に出掛けた。空は昼下がりだと言うのに淡紅色に染まっている。それでいて、傾斜を感じる。怖い。歩くのが怖くなってタクシーを捕まえた。乗り込んだら、運転手が居ない。「近場ですまないが喫茶アルプスへ」と言ったらため息のような音がして、乱暴に車が動き出した。お金を払って、タクシーを降りたら中々の速度で大通りへ消えていった。鳥肌を立てながら喫茶アルプスの扉を押す。「空いてるかい」と言いながら店に入ったら、誰も居ない。「マスター、居ないのか」すると厨房の奥の方からマスターの声で「マスターは消えた」と聞こえた。「消えたのか、消したのではなくてか」そう言って、寒気がしてきたから扉を引いて出ると、アルプスの雪崩に巻き込まれたが如く、喫茶アルプスは何処かへ消えてしまった。嫌だったから家に帰ろうとした。商店街を眺めやったが、やはり誰も居ない。車の走っていない明治通りを、赤信号の儘渡った。家に帰って、居間でゆっくり新聞を読んでいるとお勝手の方でまた皿が割れた音がした。「おい、誰か居るのか」と叫んだら「いない、いない」と答えてきた。もう嫌だ。そう思って横になったら、家内が「風邪をひきますよ」と言った。目覚めが気持ち悪い。むっくりと体を起こしたら、矢張りお勝手の方で皿が割れる音がした。「おい、誰か居るのか」「いない、いない」家内の声で、ハッキリと聞こえた。
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