それだけを望む

吉村巡

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 グレアムに手を引かれるまま応接室の中に入ると、グレアムと似た面差しの初老の紳士と、目じりに少し皺がある愛情深く上品そうな婦人が私とグレアムのほうを見た。

 けれど私の視線は、彼らの前で、こちらに小さな背を向けたままの、男の子しかとらえていなかった。
 
 大きくなった。
 最後に見たのは、3歳になる少し前だった。
 春生まれのヘンリーは、あと数か月で8歳になるはずだから、記憶より大きくなっているのは当たり前だけど、

「ヘンリー」

 グレアムが、あの子の名前を呼ぶと、その小さな背がこちらを振り向いた。
 その顔には、きちんとあの子の面影がある。
 くりくりとした私と同じ鳶色の目が、グレアムと私を見る。

「この人のこと、覚えてるか?」

 そう、私を示しながらグレアムが問いかける前から、あの子はただ一心に私を見つめている。
一瞬の静寂が、永遠にも感じられた。

「……ベル?」

 小さな子に特有に高い声が、昔のように私の呼び名を告げた瞬間、私はグレアムの手を振り払って、あの子の、ヘンリーの体を抱きしめた。

「ヘン、リー、ヘンリー、ヘンリー!」

 嗚咽まじりに、何度も何度もその名を呼ぶ。

「ベルだ。ほんとに、ベルだ」

 覚えていた。
 覚えていてくれた。
 抱きしめている、あの頃よりも大きくなったけどまだ小さな体が、私を抱きしめ返す。

「ヘンリー、ごめんね。ごめんなさい。覚えて居てくれて、ありがとう。本当に、ありがとう。愛してるよ。ずっと、ずっと、君を愛してる」
「うん」
「ヘンリー。君は今、幸せ?」
「うん」
「よかった。いつも、そればっかり気にかかってた」
「ベルは?」
「幸せだよ。だって、ヘンリーに会えた」
「これから、ずっと一緒?」

 この問いには、誠実に答えなければならない。

「君が一緒に居る家族は、もう私ではないんだよ。だから、一緒にはいられない。でも、一緒には居られなくても、君には私と同じ血が流れてる。同じ場所にいなくても、ヘンリーと私は一生変わることのないモノで繋がっている。この意味が分かる?」

 同じ目線で問いかけた言葉に、ヘンリーは頷いた。

「たとえ、見えない場所にいても、私はいつだって君の中にいる。もう二度と私と会えなくても、悲しむことは何ひとつない。……これから、たくさんたくさん幸せになってね、ヘンリー」

 昔のように沢山のキスをして、額と額をくっつけながら口にした言葉に、

「ベル」

 私の名前を呼んで、ヘンリーは私の体にギュッと抱き着いて、キスを返すことで答えてくれた。

「愛してるよ。生まれてきてくれて、本当にありがとう。……さようなら」

 最後にそういって、もう一度だけヘンリーにキスをする。
 立ち上がり、ジェインビー夫婦にただ一礼してグレアムの横をすり抜けて、足早に応接室から廊下へ出た。

 そのまま無言で廊下を進む。
 私の望みは果たされた。
 あとはもう、終わるのを待つだけだ。

 廊下の途中で、追いかけてきたらしいグレアムの手が、私の足を止めさせる。

「もういいのか?」
「ええ。私の希望は叶ったもの。ありがとう、グレアム。あなたのおかげよ」
 
 体をグレアムにきちんと向けて、頭を下げて心からの礼をする。

 晴れ晴れとした気持ちだ。
 あれ程までに身を蝕んでいた頭痛も、倦怠感も、陰鬱な思考も、もっと大きくて温かなもので満たされた私の前には塵芥のように吹き飛んだ。

「二度と会えないと言ってたけど、会いたければ会いに来ればいい。僕か両親が居る前で、という条件はつけるけど、君が望むなら機会を作る」
「どういう風の吹き回し?グレアム」

 絶対に認めないと思っていたのに、グレアムは私への態度を180度変えている。

「別に。…ただし、さっきも言った通り、君が大学に行くのが条件だよ。ベリンダ」
「分かってるわ」

 グレアムが望む答えを返しながら、私は予感していた。
 その条件は、きっとまともに果たされずに終わるだろう。
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