それだけを望む

吉村巡

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 ベリンダ・レイスへの警戒心をなくすことはできない。
 けれど、発狂同然の光景を目の当たりにした僕の中に、それとは逆方向の思いが生まれていることを否定はできなかった。

 冷静に考えても彼女の生き別れた弟であり、今は僕の養弟であるヘンリーへの執着心は常軌を逸しているとしか思えない。
 ヘンリーが、僕の養弟になったのは5年ほど前のことだ。

 3歳になるかならないかの記憶を、弟がどれほど特別な人間だったとしても完全に憶えていると考えることは難しい。なのに、彼女はそれを理解しながら会いたいと望んだ。

 ヘンリーが家族になった当時、僕は11歳だった。
 その2年前に事故によって死んでしまった、僕の年の離れた兄を永遠に失った悲しみを癒すかのように、両親は兄と同じGiftedである養弟を孤児院から引き取った。

 愛そう、と当たり前に思った。

 僕を可愛がってくれた亡き兄の圧倒されるような才能を知っていたが、同時に才能を持つからこそ抱える苦悩も知っていたから。
 いつかやってくるかもしれない、養弟の苦悩の時に力になりたいと思ったから。
 両親は、亡き兄がGiftedとして生まれたときから、そういった特殊な才能を持つ子供たちの支援を行っていた。
 今、僕が通っている学校の設立時から現在に至るまで毎年のように寄附や後援を行い、才能を持って生まれたものの、金銭的な事情で十分な教育環境を得られない子供への支援も行っている。
 孤児院などにいる、そういった子供たちを見つけるネットワークも確立しており、養弟はそのネットワークの中から選ばれた子供だった。

 2歳にしてすでに言葉と文字を完璧に理解し、興味を持ったことに普通以上に執着する。同じ孤児院にいる子供の数学の教科書を見て、計算を始めたという話を聞いて、両親はこの子供には途方もない才能が眠っていると判断した。
 そして、その才能を引き出せるのは自分たちしかいないとも。

 けれど、才能を持つ親のいない子供には、それでも家族がいた。
 僕と同じ11歳になる姉が。
 その姉は、弟から片時も離れない。

 生まれて数か月、歯が生えはじめ、そろそろ離乳の時期という弟をその手に抱いて、彼女は孤児院にやってきたらしい。

『母さんに、ここに行けと言われた』

 育てる余裕はないし、なによりこれから邪魔になると。
 そういって孤児院にやってきた少女の栄養状態は見るからに悪く、親の名前などの素性を問う職員に口を引き結んで、一言も話さなかったそうだ。

 彼女は誰も信用せず、ただずっと弟の傍にいた。
 弟がどんなに、普通の子供とは違う行動をとっても。
 障害児だと思っていた子供がGiftedであることに気づいた周囲がどれほど弟を持ち上げ、喜んでも。

 弟が望む以外は、他者を弟に近寄らせず。
 理解できない行動をとっても落胆せず。
 常人より優れた才能を示しても称賛せず。
 ただ、変わらずに、弟の傍にいた。

 けれど、弟に僕の家族から養子の話が来た瞬間、彼女は獣のように抵抗した。
 どんな説得や懇願にも耳を貸さない。
 弟が懐き、いつも近寄るようになっていた職員も近寄らせない。

 それにしびれを切らした職員の一人が無理やり弟を取り上げようとしたときは暴れて、叫んで、弟を取り上げようとした職員の爪が彼女の目元をかぐり、もう1~2センチずれていたら片目を失明していたかもしれない状況で、最終的には彼女がその職員に容赦なく噛みついて流血沙汰の惨事となったらしい。
 さいわい、弟にその矛先が向かないこともあり職員は目元の手当ても拒否する彼女の忍耐力が途切れるのを待つことにしたらしい。

 けれど、彼女は職員の予想を裏切る忍耐力を示した。
 弟をジェインビー家に託す期限は迫っている。なのに、弟の家族である姉はそれを拒否し続ける。
 彼女のこともジェインビー家が引き取れば、事は丸く収まったかもしれないが、両親もそこまで懐が深いわけではない。厄介事にしかならない彼女を切り捨てる非情さがなければ、例えばほかの事業や社交のことでも何かを切り捨てる強さを持てるはずがない。

 5日だ。

 11歳の少女が、大人でも音を上げて不思議ではない期間をほぼ不眠不休で抵抗した。
 院の外に逃げ出さないように囲まれて、説得と懇願と最後には泣き落としにかかった大人たちを相手に、一切の譲歩も妥協も諦めも見せず。
 弟は、そのあいだずっと、彼女の腕の中か、背中で隠すようにされていた。異様な状況に怯えて泣くことなく、職員の元へ行くことなく、ただ姉の傍にいることになんの躊躇いも抵抗も見せなかった。

 慌てたのは予想を裏切られた大人たちのほうだった。
 明日へと迫る弟の引き取り期限。
 見返りに受け取ったはずの寄付金は、もう使い道が決定している。
 どうしようかと緊急の対策を話し合っていた職員たちの元に、遠巻きに彼女と職員の対立を見ていたほかの子供たちが駆け込んできた。

 彼女が急に倒れた。

 弟は倒れた姉に縋りついて泣き出すし、一人だけ監視として残した職員は彼女の介抱よりも泣きわめく弟の確保に走った。
 弟が期限通り、ジェインビー家の一員になったと同時にもたらされたこの報告に、両親は少しだけ苦い顔をしていた。

 僕は、その話を聞いて、なぜそこまで弟に執着するのかと怒りがわいた。
 普通に考えればわかることだ。
 どこで育つのが、弟にとって幸福なのか。
 僕は、彼女がたった一人の家族を、彼女と同じ道に落とそうとしているようにしか感じられなかった。
 彼女は自分の弟を不幸にしたいのだとしか思えなかった。

 絶対に、もう2度と、そんな意地悪な姉に弟を会わせないようにしよう。
 僕が、絶対に弟を守ろう。
 そう、思っていたのだ。
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