悪魔は天使の面して嗤う

汐月 詩

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バレた

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 甲高い電子音が聞こえる。目覚まし時計でもないし、電子レンジでもないし、この音はなんの音だろう。そんなことを考えていると、額にヒヤリと冷たい感覚があった。

「あーあ、熱、三十八度もあるよ」

──声? えーと、誰だっけ?

「千春さん、昨日何してたの? びしょ濡れで寝てるとかどんなプレイ?」

──びしょ濡れ? 寝てた?

 わけも分からずゆっくり瞼を開ける。やんわりとした光の向こうに茶色い髪が揺れた。

「じゃー俺行くね。千春さんはゆっくり寝てて」

──行かないで

 咄嗟にそう思った。もしかしたら口走ったかもしれない。とにかく、行かないでほしかった。ひとりにしないでほしかった。
 手を伸ばし何かを掴んだ私は、その感触を確かめると、再び目を閉じた。

「遅刻だっ!」

 ハッとして飛び起きる。体内時計では、もうとっくに八時を過ぎていた。むしろ昼過ぎかもしれない。

 昨夜のことが思い出せない。お風呂に入ろうとしたことまでは覚えているんだ。そのあとどうしたんだっけ。ガンガンと痛む頭を片手で抑えながら、周りを見渡した。





「あー、おはよう、千春さん」

 視界の端っこ、ベッドの横で人の頭がひょこんと動いた。

「え……あれ……たろちゃん?」

──帰ってきていたんだ。そりゃそうか。
 たろちゃんは床に座りベッドにもたれていた。その柔らかな茶色の髪が外からの風でふわりと揺れる。
──さっきの、もしかして……
 夢かうつつかまたはその狭間で見た茶色の髪は、たろちゃんのものだったのか。

「ていうか千春さん、こんな本読んでるんだ?」

「へ?」

 悪戯っぽい笑みを浮かべて振り向いた彼の手には、一冊の本。

「『アラサーでも諦めない! 愛され女子になるための10の掟』ね──」

「ちょっ! ちょっと、それ、なんで!」

 本棚の一番奥に隠していたはずなのに。

「千春さん、こんな本読んでる内は、『愛され女子』になんてなれないよ?」

「うるっさいな! 『愛され女子』になるための本なんだからなれないわけないでしょ!」

「えー? そもそも千春さんの言う『愛され女子』ってなに? 誰からも愛される人? コテコテに嘘で固めた自分じゃなくて、ありのままの自分を愛してくれる人が一人いればよくない?」

 『愛され女子』が脳内でゲシュタルト崩壊してきた。
 たろちゃんと話していると、今まで自分が信じてきたことが一瞬にして砕け散ってしまう。たろちゃんが正しいからか、それともその『信念』が元々脆かったからか、それはわからないけれど。
 とりあえず言えることは、起き抜けに正論をぶち込まないで欲しい、ということだ。ただでさえ朝は忙しいのに。
──ん? 朝?

「ちょっと、たろちゃん、今何時?」

「ソーネダイタイネー、もう十一時でーす」

「ええっ!? し、しごと!」

 血の気が引いて、頭が真っ白になる。今日は土曜日だから、半日しっかり仕事だった。今から行ったところでどうしようもなく、無断欠勤が確定してしまった。

「どうしようどうしようどうしよう……」

 いくら仲がいい職場だからって、無断欠勤はまずい。勤めてから一度だってそんなことなかったのに。
 呆然とする私の目の前を、ヒラヒラと横切るたろちゃんの手。

「落ち着いて。俺が連絡しといたから大丈夫」

「れ、連絡って?」

「ほらこれ」

 ふいに投げられたスマホは、間違いなく私の物だった。慌てて中を見ると、現れたのはメッセージ画面だ。宛先は梨花になっている。

『ゴメーン 熱でちゃった! 今日休むしお願いねー!』

「な……なにこれ……」

「何って、欠勤連絡でしょ?」

 欠勤連絡にしては軽すぎる。いや、それだけじゃない。なにこのふざけたスタンプ。
 軽くジェネレーションギャップを感じたところで我に返った。文脈はどうであれ、こうして気遣って連絡をしてくれたことに関して、素直に嬉しかった。一人暮らしをしていた時にはなかった感覚。持つべきものは、優しい同居人なのかもしれない。

「あり……がと……」

「どーいたしまして。千春さん、顔色良くなったけど、念の為今日はゆっくり休んで? 俺一日オフにしたから」

「え──……」

「『え』じゃなくて。千春さん、今朝熱あったんだよ。風邪ひいたの、風邪」

「か、風邪──」

 なるほど、だから頭が痛いのか。そういえば、まどろみの中熱を測られたような気がする。
 だんだんと今朝のことがハッキリしてきた。そうだ、あの時、どこかへ行こうとするたろちゃんを無理に引き止めたんだった。

「……ごめん、今日予定あったんだよね?」

「やー、別に。そんな大したものじゃないし」

 たろちゃんはにへら・・・と笑うと、『愛され女子』の本をご丁寧に棚の元あった場所に戻した。
 「大したものじゃない」と、たろちゃんは言うけど、予定をキャンセルしてまでここにいてくれた事実に、申し訳ないやら嬉しいやらで胸がいっぱいになった。
 と、その時だ。聞き慣れないメロディがどこからか鳴り響く。二人して顔を見合わせると、たろちゃんが気まずそうに顔を歪ませた。

「あー……ごめん、電話だ」

 そう言うとパンツのポケットからスマホを取り出した。
──スマホ、持ってたんだ。
 現代人なんだから当たり前と言ったら当たり前なんだが、たろちゃんがここに来てからというもの、彼がスマホを触っている所を見たことがなかったので、少々驚く。

「あー、もしもし? メグルちゃん?」

 ドキン、と心臓が跳ねた。『メグルちゃん』……きっと女の人だ。はしたないと思いつつ、ついつい聞き耳を立ててしまう。

「ごめんねー、ちょっと急用が入って。え? あーウンウン、わかってるって。埋め合わせはまた今度、ね?」

 聞いたことのないような甘ったるい声で囁くたろちゃん。喉の奥がひりひりと痛むのは、風邪のせいだろか。

「なんとか上手いこと言っておいて。お願いね。うん……メグルちゃん、ありがと」

 彼は優しい瞳のまま通話ボタンをオフにして、何事もなかったかのようにソファに腰掛けた。ニコニコしちゃって、『メグルちゃん』の姿でも想像しているんだろうか。
 なんだ、彼女、できたんじゃん。
 奥底に溜まったモヤモヤは、そのまま咳となって外に出た。

「彼女できたなら出てってよ」

 こんなこと言いたいわけじゃないのに。でもたろちゃんもたろちゃんだ。彼女ができたら出ていく約束だったのに、今の今まで黙っていたなんて。彼が何を考えているのかさっぱりわからない。
 そして、もっとわからないのは自分の気持ちだ。早く出ていって欲しいと思いつつ、たろちゃんに彼女ができたらできたで腹を立てるなんて、勝手すぎる。

「かのじょ?」

 たろちゃんはそのアーモンド型の瞳を更に丸くして、しばらく私を見つめていた。かと思うと、ゆっくり首を傾げる。そんななんでもない動作一つ一つが、いちいち様になるからムカつく。

「やだなー、メグルちゃんは彼女じゃないよ。メグルちゃんが彼女って……ふふっ」

 何がおかしいのか、ケタケタと笑い転げてしまった。理由もわからず笑われるって、気分が悪い。なんて言うか、疎外感。私は小さく「あ、そう」と呟くと、寒くもないのに布団を被った。

「ねーねー千春さん、お腹空かない?」

「…………」

「空くよね? 割と元気そうだし、食欲あるよね?」

「…………」

「おかゆ、作ろうと思うんだけど、食べる?」

「…………」

 食べる、と答える代わりにお腹がぐぅと鳴った。それを聞いて、またもやたろちゃんは笑いだした。でも今度は嫌な気持ちにはならなかった。
 たろちゃんは、ズルい。厳しかったり、優しかったり、甘かったり。
 たろちゃんは、ズルい──




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