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夜に堕ちる
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「美味しかったー!」
エレベーターで最上階から一階まで降りてきて、夢から醒めるようにエントランスのドアを開けた。ちょっと気取った私から現実の私に戻る瞬間だ。
外は空気が冷たくて、風が吹くと鳥肌がたった。鞄からショールを取り出し、肩に羽織る。
「ああ。まぁ、そんな頻繁には来れないけど、たまにはこんな贅沢をしような」
蓮見の言葉はこれからも続く未来を想像させた。私は微笑むだけで、ただ黙って彼の腕に自分の腕を絡めた。
そして駐車場へと歩き出した瞬間、蓮見がふと立ち止まった。
「どうしたの?」
彼は私の腕を振りほどくと、騒がしくポケットをまさぐっていた。
「いや……すまない。スマホを忘れてきたみたいだ」
「えー! 大変」
「ちょっと取りに戻る。外は寒いからラウンジで待っててもらえるか?」
「ううん、大丈夫。ここで待ってるよ」
私の言葉を聞き、彼は足早にホテルの中へ戻って行った。スマホを忘れるだなんて、蓮見にしては珍しいミスだ。
それとも、少しは緊張してくれていたのだろうか。彼の変わらない表情を思い出し、くすりと笑みがこぼれた。
本当、わかりにくいんだよなぁ、蓮見。でもそんな不器用な彼を、私がこれからは支えていくんだ。
道路を挟んで向かいの通りに建ち並ぶ、高級ホテルを眺め見た。美穂子が結婚式を挙げたホテル。そんなことでもないと、一歩たりとも立ち入ることができないような場所だった。
結婚式かぁ……私は別にいいかな……。でも、蓮見はしたいのかな……。
取り留めもないことを考えていたその時だ。ホテルの側を歩く男の横顔にドキリとした。
まるで自分の時間が止まってしまったかのように、動けない。視線すら男から外すことができない。『まさか』と『どうして』の二言が、私の頭の中を占領した。
男の横には小柄な女性が。腕こそ組んではいないが、仲良さそうに会話しながら歩いていた。そしてそのまま吸い込まれるように、そのホテルの中に入っていった。
「たろちゃん……」
一番会いたくない人を、見かけてしまった。
たろちゃんだ、間違いない。あの服装は見たことがある。こんなところで出くわすなんて……。しかも、あの女性は誰だろう。顔こそ見えないが、寄り添って歩く姿は恋人同士のそれだった。彼女が『マリコさん』? それとも『メグルちゃん』? それとも、もっと別の誰か?
私は、さほど寒くもないのに勝手に身震いをする身体をそっと抱きしめた。体の内から誰かが大きな声で叫んでいるようだった。『たろちゃん!』と泣きながら、惨めな姿で。それが外に出ないように、必死に押さえつけた。
二人が入ったホテルが、蜃気楼のようにゆらゆら揺れる。このまま消えてなくなればいい、そう願った。早鐘のような鼓動が苦しくて、胸を抑えた。右手はホテルの柱をしっかりと掴む。そうでもしないと倒れてしまいそうだった。
「──はる、千春!」
背後から声がして、目の前が明るくなる。乱れた呼吸が元に戻る。ゆっくり顔を上げると、心配そうにこっちを見つめる蓮見が立っていた。
「どうした? 具合、悪い? やっぱり寒かっただろ?」
彼は急いで帰ってきたらしく、肩が激しく上下していた。ほっとして泣きそうになる。
「ううん、なんでもないの。ちょっと立ちくらみかな……」
「大丈夫か? この後ドライブでもしようと思ってたけど、今日はもう帰ろうか」
そう言うと、蓮見は私の腰に手を回し、支える体勢で歩き始めた。彼に身を任せているうちに、私の中でじわりじわりと黒くてドロドロしたものが滲み出るのを感じた。
『俺を利用しろ』と、彼は言った。たろちゃんのことを街中で見るだけでぐらつくような、そんな自分はもう嫌だ。私の中のたろちゃんを、早く追い出して欲しい。たろちゃんに出会う前のまっさらな状態に、戻して欲しい。早く、早く、早く──
気づいたら私は、蓮見の腕を強く掴んでいた。
「──いてよ」
「え?」
すがるように、蓮見の目に訴えかける。
「抱いてよ」
エレベーターで最上階から一階まで降りてきて、夢から醒めるようにエントランスのドアを開けた。ちょっと気取った私から現実の私に戻る瞬間だ。
外は空気が冷たくて、風が吹くと鳥肌がたった。鞄からショールを取り出し、肩に羽織る。
「ああ。まぁ、そんな頻繁には来れないけど、たまにはこんな贅沢をしような」
蓮見の言葉はこれからも続く未来を想像させた。私は微笑むだけで、ただ黙って彼の腕に自分の腕を絡めた。
そして駐車場へと歩き出した瞬間、蓮見がふと立ち止まった。
「どうしたの?」
彼は私の腕を振りほどくと、騒がしくポケットをまさぐっていた。
「いや……すまない。スマホを忘れてきたみたいだ」
「えー! 大変」
「ちょっと取りに戻る。外は寒いからラウンジで待っててもらえるか?」
「ううん、大丈夫。ここで待ってるよ」
私の言葉を聞き、彼は足早にホテルの中へ戻って行った。スマホを忘れるだなんて、蓮見にしては珍しいミスだ。
それとも、少しは緊張してくれていたのだろうか。彼の変わらない表情を思い出し、くすりと笑みがこぼれた。
本当、わかりにくいんだよなぁ、蓮見。でもそんな不器用な彼を、私がこれからは支えていくんだ。
道路を挟んで向かいの通りに建ち並ぶ、高級ホテルを眺め見た。美穂子が結婚式を挙げたホテル。そんなことでもないと、一歩たりとも立ち入ることができないような場所だった。
結婚式かぁ……私は別にいいかな……。でも、蓮見はしたいのかな……。
取り留めもないことを考えていたその時だ。ホテルの側を歩く男の横顔にドキリとした。
まるで自分の時間が止まってしまったかのように、動けない。視線すら男から外すことができない。『まさか』と『どうして』の二言が、私の頭の中を占領した。
男の横には小柄な女性が。腕こそ組んではいないが、仲良さそうに会話しながら歩いていた。そしてそのまま吸い込まれるように、そのホテルの中に入っていった。
「たろちゃん……」
一番会いたくない人を、見かけてしまった。
たろちゃんだ、間違いない。あの服装は見たことがある。こんなところで出くわすなんて……。しかも、あの女性は誰だろう。顔こそ見えないが、寄り添って歩く姿は恋人同士のそれだった。彼女が『マリコさん』? それとも『メグルちゃん』? それとも、もっと別の誰か?
私は、さほど寒くもないのに勝手に身震いをする身体をそっと抱きしめた。体の内から誰かが大きな声で叫んでいるようだった。『たろちゃん!』と泣きながら、惨めな姿で。それが外に出ないように、必死に押さえつけた。
二人が入ったホテルが、蜃気楼のようにゆらゆら揺れる。このまま消えてなくなればいい、そう願った。早鐘のような鼓動が苦しくて、胸を抑えた。右手はホテルの柱をしっかりと掴む。そうでもしないと倒れてしまいそうだった。
「──はる、千春!」
背後から声がして、目の前が明るくなる。乱れた呼吸が元に戻る。ゆっくり顔を上げると、心配そうにこっちを見つめる蓮見が立っていた。
「どうした? 具合、悪い? やっぱり寒かっただろ?」
彼は急いで帰ってきたらしく、肩が激しく上下していた。ほっとして泣きそうになる。
「ううん、なんでもないの。ちょっと立ちくらみかな……」
「大丈夫か? この後ドライブでもしようと思ってたけど、今日はもう帰ろうか」
そう言うと、蓮見は私の腰に手を回し、支える体勢で歩き始めた。彼に身を任せているうちに、私の中でじわりじわりと黒くてドロドロしたものが滲み出るのを感じた。
『俺を利用しろ』と、彼は言った。たろちゃんのことを街中で見るだけでぐらつくような、そんな自分はもう嫌だ。私の中のたろちゃんを、早く追い出して欲しい。たろちゃんに出会う前のまっさらな状態に、戻して欲しい。早く、早く、早く──
気づいたら私は、蓮見の腕を強く掴んでいた。
「──いてよ」
「え?」
すがるように、蓮見の目に訴えかける。
「抱いてよ」
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