悪魔は天使の面して嗤う

汐月 詩

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メグルちゃん

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 まだうっすら月が見える午前五時。三時間程の睡眠というにはあまりにも少ない仮眠をとった私と蓮見は、はっきりしない意識の中、急いでホテルを後にした。
 永遠に夢の国に留まれる方法は、ない。私たちは社会人だ。今日も今日とて、朝から仕事に行かなければならない。

「夜逃げみたいだな」

 太陽が照らす前の世界。車に乗り込んだ蓮見が呟いた。
 変なことを言うと思いつつ、夜逃げと大差ない心境の自分に気づき苦笑いした。
 『逃げ』でもいい、今は。
 運転する蓮見の横顔に、そっと触れた。

「どうした?」

「……ううん。また会える日まで、ちゃんと覚えておけるように」

 私の心、誰にも侵食されないように。ゆっくりゆっくり、頬をなぞる。伸びかけの髭の感触にふふっと笑みがこぼれた。

「くすぐったい……」

 戸惑い気味に眉を下げる蓮見に、また笑えてくる。うん、大丈夫。幸せだ。

「……じゃあ、また連絡する」

「うん、私も」

 蓮見の頬にそっとキスを残し車から降りた。エンジンが遠ざかる音を聞かながら見上げるのは、私のアパートだ。きっとたろちゃんは、もう起きていると思う。
 一歩一歩、鉛のように重い足を引きずるようにして、302号室へと向かう。階段が妙に長く感じて、途中で目眩を覚えた。うしろへ落ちそうになりながらも手すりを掴んで耐える。
 大丈夫、大丈夫、私には蓮見がいる。
 さっき触れた頬の感触を思い出し、深く息を吸った。
 私には蓮見がいる。私は蓮見と結婚する。ブレない、絶対に。
 ゆっくりとドアを開ける。途端に鼻を掠める匂いに違和感を覚えた。ふわりと漂う甘い匂い。私の部屋ってこんな匂いだったっけ。
 その匂いの原因はすぐにわかった。匂いの主は玄関横の棚の上に、堂々と鎮座していたからだ。

 かすみ草──

 見覚えのない、白く曲線が美しい花瓶に、大量のかすみ草が生けられていた。なにこれ、こんな花、知らない。
 そのままかすみ草を見つめていたら、横から突然声をかけられた。

「おはよ」

 ああ、やっぱり、起きていた。本当はなるべく会いたくないけど、一緒に住んでいる以上そんなことも言えない。
『何も考えないように』
 私は頭の中を真っ白に塗りつぶし、声をする方へ向き直った。

「たろちゃん、起きてたんだ? あ、起こしちゃった?」

「ううん、さっきちょうど起きたところだよ。かすみ草、キレイでしょ? ほら、前知り合いが入院してたって話したじゃん? その人に千春さんのこと話したら、『お礼に』ってかすみ草をくれたんだよ」

 マリコさんが私にお礼? それは、なんの冗談だろう。『私のたろちゃんがお世話になっています』ということだろうか。そんなことわざわざ言ってくれなくてもいいのに。
 私の中に、黒くて重くてどうしようもない思いが甦る。さっき真っ白に塗ったばかりなのに、私の心のキャンバスは、本当にへなちょこだ。もう一度筆をとり、白を上から重ねる。

「そうなんだ。うん、キレイ。この部屋殺風景だったから、すごく華やいだね。ありがとう」

 にこりと微笑むと、たろちゃんも爽やかな笑みを返してくれた。ここだけ切り取ったら、きっと、安っぽいホームドラマが出来上がるはずだ。

「俺、朝食準備しよっか? 千春さん、食べてから仕事行くでしょ?」

 靴を脱いで、鞄を下ろしたところでたろちゃんがそう言った。

「え? う、うん」

「スクランブルエッグと目玉焼き、どっちがいい?」

「スクランブルエッグ……」

「りょーかい」

 スウェット姿のたろちゃんがキッチンに立つ。コン、と小気味いい音を立てて、卵を割っていく。手際よくかき混ぜると、ほどなくしてジュッという音と共に食欲をそそる匂いが立ち込めてきた。昨夜のディナーの高級な香りも好きだけど、こういう庶民的な香りも、好きだ。

「はい、どーぞ!」

 顔を洗い、着替えを済まてテーブルに戻ると、もう既に朝食が準備されていた。バターを塗られたトーストに、生野菜のサラダ。スクランブルエッグとソーセージ。
 「いただきます」と手を合わせてトーストを頬張った。いつもの朝。何ら変哲のない、いつもの──
 なんでだろう。なんで、たろちゃんは訊いてこないんだろう。『昨日の夜どうしたの?』とか『朝帰りだったね?』とか。たろちゃんが言いそうなセリフは何個でも思いつくのに、当の本人は素知らぬ顔で目の前に座っている。
 それが妙に不自然で、背中がゾワゾワした。気づいたら禁断の言葉をぶつけていた。

「昨日、たろちゃん見たよ」

 こんなこと言っても、私にとってなんの得にもならないのに。
 たろちゃんは、ミニトマトを口に運ぶのをやめて、こちらを凝視した。

「……え、どこで?」

 その瞳に、僅かに狼狽の色が浮かぶ。よっぽど私に私生活を見られたくないらしい。彼女との別れのシーンを見せつけておいて、今更なんだって言うのか。

「……ホテルの前」

 私の言葉にたろちゃんは「あー」と漏らすとククッと小さく笑った。その『私の知らない笑い』が癇に障る。私はなんにも面白くなんてない。

「あれねー、メグルちゃんと打ち合わせ」

 尚も楽しそうに話すたろちゃんに、カチンときた。『打ち合わせ』って何? 『夜の』ってこと? 悪いけど、そんな親父下ネタトークをする余裕、今はない。
 私は「へぇ、そうなの」とだけ答えて席を立った。
 やっぱりたろちゃんと話すとモヤモヤする。徐々に部屋の中が煙に満たされて、息苦しくなってくる、そんな感じ。


 
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