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第1章

始まり4(クナンとカン、そして妃クラン・カトンと王子キョルゲン)

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人物紹介

モンゴル側
チンギス・カン:モンゴル帝国の君主

ボオルチュ:チンギス筆頭の家臣。アルラト氏族。四駿(馬)の一人。

シギ・クトク:チンギスの寵臣。戦場で拾われ正妻ボルテに育てられた。タタルの王族。

ジョチ:チンギスと正妻ボルテの間の長子。

トゥルイ:同上の第4子

クナン:ジョチ家筆頭の家臣。ゲニゲス氏族。

クラン・カトン チンギスの后妃。第2オルドの主人。メルキトの王女。

キョルゲン:チンギスとクラン・カトンの間の子供。


ホラズム側
スルターン・ムハンマド:ホラズム帝国の現君主


メルキト勢
トク・トガン メルキトの王族


人物紹介終了


 クナンは客人用の天幕ゲルへと案内され、しばしの休憩を与えられた。
 すっかり旅のつちボコリにまみれた衣を脱ぐと、カンの小姓から渡された青に染められた絹衣に着替えて待った。

 呼ばれたのは謁見用の巨大な天幕ゲルではなく、小さな天幕ゲルであった。
 カンは金国よりの略奪品と聞く台
――その四本の足は龍をかたどっておった
――に布いたフェルトの上に座しておった。
 今回の報告する内容をおもんばかってか、かたわらに立つを許されたのはボオルチュのみであった。

 ひざまずいて敬意を示し、
「久しぶりにカンのご尊顔を拝し、これほどの喜びはありません。」
とクナンはまず述べた。

 カンはうなずくのみであったので、先を続ける。

「またこたびも軍を授かり感謝しておりますとの伝言を、ジョチ大ノヤンよりおります。
 そしてトク・トガン征討にて得た品々の全ては、その軍が運んで来ることになっております。
 ただその中でも最良の品を携えて参りました。」

と申し出てから、革袋の中からまず大ぶりのルビーの指輪を取り出す。
 それからボオルチュの方へ目配りしつつ、カンの方へ差し出した。
 ボオルチュはクナンの意を察して、それを取ろうと一歩踏み出さんとした。

「よい。我が取る。」

とチンギスは立ち上がると、クナンに歩み寄り自ら手に取った。

「ほう。良き品だな。」

 クナンはまずその言葉に注意を引かれた。
(カンは戦利品の分配の権利を他の者におかされることは決して許さぬ。
 しかし奢侈しゃし品にはそれほど心動かされることはない。
 そう想っておったが。)
 そしてそれ以上にその声のはずんだ調子に驚かされた。
 ただクナンが差し出した残り二品については、カンはボオルチュに取らせた。

「白馬も八十一頭連れて来ております。」

「ボオルチュから聞いておる。
 後ほど見せてもらおう。」

 クナンはひざまずいたまま報告を続けた。
 カンはその言葉に注意深く耳を傾けられ、納得し難きことがあったのか、事細かに問われた。
 とはいえ問いただすという物物しさはなかった。
 たずねねたきことがなくなったとみえ、次の言葉を発した。

「よくぞ報告に来た。改めてそのことに礼を言うぞ。そしてジョチへの伝言を託したい。」

 クナンは更に体を硬くした。

「よくぞトク・トガンを征討したと。」

 その最初の一言で、クナンはジョチの下から発して以来、初めて体の力が抜けるのを感じた。
 そして心もゆるんだのか、
 引き続くカンの言葉を、涙をこらえつつ聞くことになった。

「スルターンには改めて和平の使者をつかわそう。
 ジョチにはこのまま西方攻略を続けよと伝えよ。
 ジョチのことを頼むぞ。」



 到着から二日後の朝、
 宮廷オルドからかなりの数の早馬があわただしく発するのをクナンは目にした。
 シギ・クトクの配下が昼過ぎに作りたての馬乳酒を持って挨拶に来てくれた。
 それで朝の件を尋ねると、カンは和平の使者と共に大隊商をホラズムのスルターンに送ることをお決めになったとのことであった。
 更にはカンは王族や主だった隊長ノヤンにも、お抱えの商人をこの隊商に参加させるよう命じる伝令を発したとのことであった。
 秋までには宮廷オルドへ集えとして。

(良きあるじとはその勢力を交易により富ませる者、
 寛大なる主とは交易の恩恵を皆で分かち合う者。
 カンもまたそうあらんとされておるのだろう。)

 クナンは得心した。



 翌日クナンを歓待するためのうたげが開かれた。
 昼日中の野天の下であった。
 肌寒はだざむさが感じられないことはない。
 しかし雷に怯える夏の宴より、クナンはこの時期の方が好きであった。
 ボオルチュを筆頭に現在宮廷オルドにおる重臣も、その妻と共に列席した。
 ただ大集会クリルタが開かれておる訳でもないこの時、その数は限られ、他にはシギ・クトクや近衛隊ケシクテンの隊長たちくらいであった。
 中央に演舞のための空間が設けられておった。
 それを囲んで席が配置されておった。
 奥に当たる北側の一際高き壇上にカンが、
 そのかたわらには正妻ボルテ・ウジン亡き後、一際寵愛ちょうあいが深いと言われるクラン・カトンが座しておった。
 更にカトンの側には、その統べる第二宮廷オルドの后妃たちが並んで座す。
 東側にボオルチュと重臣たち、
 クナンはこの行に付き従った百人隊長と共に、客人待遇として西側の席を与えられた。

 百人隊長は待機しておった宮廷オルドの外側から呼ばれての参加であった。
 宴に参加するとのことで、改めて金国の絹の衣をカンより賜っておった。
 明らかに着慣れぬゆえに、どこか滑稽こっけいな出で立ちに仕上がっておった。
 もっともそれはやはり衣を賜り
――しかも刺繍ししゅう入りの
――それを身に付ける己もまた宮廷オルドの者からみれば同じかもしれぬ、とはクナンも想う。
 クナンの直臣じきしんではあるが、カンと少人数で宴を共にするのは始めてと見える。
 がちがちに緊張しておった。
 そしてそれをやわらげようとしてか、勢い良く酒をあおり続ける。
 もう若輩とは呼べぬ年なのだが、クナンが「控えよ」ときつめに言わねばならぬ有様であった。

 女たちの舞と歌でもてなされた後、クナンは改めてチンギスのかたわらに呼ばれた。

「カトンが是非そなたに会わせたい者がおると言うてな。」

 壇の下に至ると、そのように言われ、初めてカトンの方をしっかり見た。
 それまでは宴の席とはいえ、そうした視線は失礼に当たろうと想い、控えておったのだ。
 高貴な貴婦人のかぶるたけ高い帽子ボクトクの下の顔は、すずやかであり優しげでもある。
 最初の参内にて、引率したナヤア・ノヤンに処女を奪われたのではないかとカンに疑われ、ならばわたくしの肌で確かめよと言ったと評判の女性である。
 あるいはその気の強さがカンの気に入りの理由かもしれぬ。
 体は、振る舞いもさすがにメルキトの王女だけあって上品である。
 案外ねやでは異なるのか。
 気性をあらわにし、昼のは夜にはとなるのか。
 もしその内心をカンに知られたならば、必罰の妄念を抱くのも、酒が進んだゆえであろうかとは想う。
 カンが手自らついだ酒杯を近習から渡され、その場で飲み干す。
 これくらいではまだ酔わぬわとの自負も、他面まだその内にあった。

 カトンは、赤地に金糸銀糸にて絢爛けんらんに刺繍したにしきの衣を身にまとう。
 羽根付きのボクトク(長帽)に向けて巻き上げた黒髪は、様々な飾りでいろどられておった。
 一際大きく輝くのは、蝶をかたどった黄金の台座の上のルビーであった。
今回クナンが携えたジョチからの贈り物に違いない。
 配下の金細工師に命じて、今日の宴のために急ぎのだろう。
 もちろん、そのことを確かめたりはせぬ。
 カトンに賜られたのか。それもまた喜ばしきことと想うのみである。

 そのカトンに呼ばれて、クナンの下に来たのは、まだ少年であった。

「ささ。はよう来い。早う。父のかたわらに来い。早う。」

 ただ、そう言って相好を崩したのはカトンではなく、カンの方であった。

 それでクナンはさとった。
(おお。このお子がキョルゲンか。)

「あら。カン。キョルゲンはクナンおうに挨拶させようと想い、呼んだのよ。」

とカトンが言う。

 それを聞いたクナンはどういう顔をして良いか分からぬ。
 幼子おさなごではない。十才ほどであろうか。
 さすがにクナンもひざまずきはせぬ。
 しかし見下ろすことは避けて、しゃがんで目線をキョルゲンに合わせると、

「クナンと言います。キョルゲンデウ兄上アカたるジョチ大ノヤンに仕えております。お見知りおきを。」

と丁寧に挨拶した。
 カトンはその様に満足したようで、

「ジョチ大ノヤンの下に赴いて初陣をなすかもしれないわ。
 その際はクナン翁に良く教えて頂くのよ。」

「お任せ下さい。
 その時はこのクナン、厳しくしますぞ。」

と口では言うものの、あくまで笑顔を心がけた積もりではあったが。

 それでもキョルゲンは「よろしくお願いします。」とかしこまって言う。

「クナンからならば、色々と学ぶことがあろう。
 惜しむらくは、その戦場が遠きことよ。
 そうするには我の下をしばらく離れることになる。」

「あら。それでも構わなくてよ。
 カンもそれくらい辛抱して下さい。」

 あっけらかんとカトンが言う。 

「お父様に挨拶して来ます。」

と言ってキョルゲンが壇上に上るのを、クナンはしゃがんだまま見送った。
 そこでお役御免とばかりに自席に戻ろうとするのに、

「ジョチ大ノヤンにキョルゲンのことをよろしくお伝え下さいね。」

とのカトンの声が聞こえた。

「お伝えします。」

 向き直ってひざまずき、そう答える。
 それから、酒でおぼつかない足取りで戻った。
 酔いの中で先の言葉の意味を考えた。
 なにゆえ、わざわざかようなことを言うのだろうかと不審に想ったのだ。
 血の問題もあり、他のとしかさの弟たちがジョチを頼りにしようとすることはこれまでなかった。
 それゆえに、カトンの言葉は新鮮に感じられたのだった。
 カトンの言われた如くの初陣ではなくとも、その指揮下に入ることはありうるから、その時のことを考えてということか。
 しかしそう決まった訳でもないのだ。
 可能性はないとはいえぬが決して高くはなかろう。
 何せその戦う地は遠い西方である。
 第一、先の言葉からカンがそれを望んでおられぬは明らか。
 それにカンのこの寵愛ちょうあい振りからすれば、自ら戦を教えるのではないか。
 そうでなくとも、カンのかたわらには四男トゥルイもおるのだ。教えを請うのに不足はないはず。

 ただ一人幼きゆえか。
 そう考えれば納得が行った。
 そして自ずと次の想いに至った。
 カンの死後のことを心配しておられるのか。
  四狗ドルベン・ノカスの筆頭たる勇将クビライを授けられたことからも明らかな如く、少なくともカンのキョルゲンに対する扱いは、正妻ボルテ・ウジンの四子に劣るものではない。
 しかし確かにカンが亡くなられた後は、どうなるか分からぬ。
 実績を積むには、年少たるキョルゲンは四子より不利であろう。
 誰を後継者にするかについてのカンの意向は聞こえて来ぬ。
 とはいえこれはまずもってカン一族の問題であり、ジョチ家第一の臣とはいえクナンが口をはさめる問題ではない。
 ジョチ様だってどうなるか分からぬぞ。
 いやこの勃興著しいカンの軍勢だってどうなるか。
 クナンはモンゴルが滅ぼした者たちの栄えを知るゆえにこそ、そう想わずにはいられなかった。
(否、そもそも己がカンより長生きなどするものか。)
 ようやくそこに至ると、クナンは酒の草原にてことにし、徒然つれづれなる想いを断ち切った。

注 四狗 「四匹の犬」の意味。他の三将はジェルメ、ジェベ、スベエテイである。
 「秘史」が詩魂を傾けて描き上げるは、凶暴にして執拗な追跡者、ようやく飼い慣らすを得た狼(にほど近き猟犬)といったところである。
 追う方も追われる方も遊牧勢となれば、その追跡は地の果てまでもとしても、あながち誇張とは言い切れぬ。
 それをなすに極めて秀でた将に授けられる称号である。
 (他方ボオルチュやムカリは四駿(馬)の方に数えられる。)
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