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第1章
始まり3(クナンとボオルチュ)
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人物紹介
モンゴル側
チンギス・カン:モンゴル帝国の君主
ボオルチュ:チンギス筆頭の家臣。アルラト氏族。四駿(馬)の一人。
ジョチ:チンギスと正妻ボルテの間の長子。
クナン:ジョチ家筆頭の家臣。ゲニゲス氏族。
ホラズム側
スルターン・ムハンマド:ホラズム帝国の現君主
人物紹介終了
雪に苦しめられつつもようやく峠道を抜けると、クナンも懐かしさに包まれた。
進むにつれアルタイ山脈(注1)の偉容が後方に去り、やがてハンガイ山脈(注2)の連なりが前方に見えて来る。
それでも遠景に留まるは、まさにこの高原がとてつもなく広いゆえであった。
その中央にクナンの目的地であるカンの宮廷があった。
寒さは残っておったが耐え難いというほどではなく、日中ともなれば暖かいと感じられる日もあった。
クナン一行はハンガイ山脈の山麓沿いを進む。
そしてそれが後方に去るにつれ、ようやく前方にヘンティー山脈(注3)の姿が大きくなる。
そこより流れ出るトーラ川(注4)を渡ってしばらく進んだところで、出迎えに来たボオルチュに会い、その案内に従った。
百人隊と替え馬の群れは宮廷の外側で待たせることにした。
それからカンへの贈り物として連れて来た馬群から、モンゴルの吉兆の数たる八十一頭を選び出し、ボオルチュの配下に委ねた。
ボオルチュ側の百人隊が護衛に付くも、二人を遠巻きにするに留まる。
クナンが話しやすいようにとの、ボオルチュの配慮であるは明らかであった。
「相変わらず、お元気そうで何よりです。
ジョチ大ノヤンは今回の戦でおケガなどなされませんでしたか。」
「ケガも病気もないのだが。
しかしその戦ごとにてカンに報告すべきことがあるのだ。」
「それでわざわざこの遠くまで。
カンもクナン翁が来られると聞いて驚いておられます。
それによほど急がれたのですね。
スベエテイ隊は戻って来ましたが、ジェベ隊はまだです。」
「老体にムチうってな。
しかしそなたへのカンの格別なる信頼は変わらぬようだな。
うらやましきことだ。」
それに対してボオルチュは答えず、「それで何事を報告なさるのです。」と問うて来た。
クナンはそこで少し黙した。
ボオルチュに言うかどうか迷ったのだ。
(決して信頼しておらぬ訳ではない。
いずこの宮廷にもおる謀略に血道を上げる輩では決してない。
忠義篤き男であるが、それはまずもってカンに向けられておる。
ジョチ様第一の己とは異なる。)
「そなたの取りなしが必要かもしれぬ。」
「よほどの重大事ですか。」
ただそう言う声に驚きは籠もっておらなかった。
(ジョチ家筆頭の我が向かっておると知った時点で、ボオルチュならば当然、察したのであろう。
そしてゆえにこそ自ら迎えに来たのだろう。)
クナンは来訪をあらかじめ早馬にて報せておった。
「多少の厄介ごとでな。」
(ボオルチュの意見を聞いておいた方が良いかもしれぬ。
それによっては言い方を変える手もあろう。)
カンに嘘を報告する気はなかった。
しかし長い経験から、ものには言い様があることをクナンは良く知っておった。
(もしかしたら、あらかじめ報告の内容を聞いておけとのカンの命を受けて来たのか。)
そこまで想い至るとクナンは打ち明ける覚悟を決めた。
「カンからホラズムとは戦をするなとの命が出ておった。」
クナンはそう切り出してほぼ事実をありのまま告げてから、
「どうであろうか。カンはお怒りになられるであろうか。」
ボオルチュはしばし考え込み、それから答えた。
「それならカンも致し方なしと想われましょう。
喜びはされぬでしょうが。
それにそうした内実であれば、いざとなれば我も助言します。
カンのためにその命に従い、遠くメルキト勢を追って行き、滅ぼしたのはジョチ大ノヤンでありクナン翁ですと。
それを罰するようでは、他の家臣も自らの忠義のあり方に信を持てなくなりましょうと。」
「そうして頂ければあり難い。」
クナンは心中の想いを偽ることなく吐露した。
「ところでそのスルターンという人物。
今後注意した方が良いかもしれませぬ。」
「決してやりやすき相手ではない。
果たして何を望んでおるのか、よく分からぬ。」
クナンの心に先のスルターンとの謁見が苦々しき想いと共によみがえる。
「しかしまずは金国です。次に宋国です。
それがカンのお考えです。」
ボオルチュがその後、言葉を続けることはなかった。
(今、己から聞いたことを考える必要があるのだろう。)
そう想いなし、またクナンはクナンで、カンとの謁見を前にして、やはりボオルチュから聞いたことを考える必要があり、あえて口を開くことはなかった。
注1 アルタイ山脈 モンゴル高原は、西をこの山脈に東を大興安嶺に限られ、美しい対称形をなします。一度地図を見ると、忘れない・・・と想います。とても大きな山脈です。
かつて金が採れたのでこの名が付いたのではと推測されているようです。モンゴル語で「金(黄金)」をアルタンと言います。実際『秘史』の中で金国皇帝は「アルタン・カン」と呼ばれています。
注2 ハンガイ山脈 カンガイ山脈とも。アルタイ山脈と略平行に、よりモンゴル高原の中央寄りにあります。アルタイよりは小さいですが、それでも大きな山脈です。
注3ヘンティー山脈。ハンガイ山脈より更に東にあります。
注4トーラ川 トール川とも。ヘンティー山脈より流れ出て、現モンゴル国の首都ウランバートルをうるおし、オルホン川に流れ込みます。このオルホン川はやがてセレンゲ川に流れ込み、最終的にバイカル湖に注ぎます。いずれも往時のこの地の諸勢力の興亡に縁深き川です。
モンゴル側
チンギス・カン:モンゴル帝国の君主
ボオルチュ:チンギス筆頭の家臣。アルラト氏族。四駿(馬)の一人。
ジョチ:チンギスと正妻ボルテの間の長子。
クナン:ジョチ家筆頭の家臣。ゲニゲス氏族。
ホラズム側
スルターン・ムハンマド:ホラズム帝国の現君主
人物紹介終了
雪に苦しめられつつもようやく峠道を抜けると、クナンも懐かしさに包まれた。
進むにつれアルタイ山脈(注1)の偉容が後方に去り、やがてハンガイ山脈(注2)の連なりが前方に見えて来る。
それでも遠景に留まるは、まさにこの高原がとてつもなく広いゆえであった。
その中央にクナンの目的地であるカンの宮廷があった。
寒さは残っておったが耐え難いというほどではなく、日中ともなれば暖かいと感じられる日もあった。
クナン一行はハンガイ山脈の山麓沿いを進む。
そしてそれが後方に去るにつれ、ようやく前方にヘンティー山脈(注3)の姿が大きくなる。
そこより流れ出るトーラ川(注4)を渡ってしばらく進んだところで、出迎えに来たボオルチュに会い、その案内に従った。
百人隊と替え馬の群れは宮廷の外側で待たせることにした。
それからカンへの贈り物として連れて来た馬群から、モンゴルの吉兆の数たる八十一頭を選び出し、ボオルチュの配下に委ねた。
ボオルチュ側の百人隊が護衛に付くも、二人を遠巻きにするに留まる。
クナンが話しやすいようにとの、ボオルチュの配慮であるは明らかであった。
「相変わらず、お元気そうで何よりです。
ジョチ大ノヤンは今回の戦でおケガなどなされませんでしたか。」
「ケガも病気もないのだが。
しかしその戦ごとにてカンに報告すべきことがあるのだ。」
「それでわざわざこの遠くまで。
カンもクナン翁が来られると聞いて驚いておられます。
それによほど急がれたのですね。
スベエテイ隊は戻って来ましたが、ジェベ隊はまだです。」
「老体にムチうってな。
しかしそなたへのカンの格別なる信頼は変わらぬようだな。
うらやましきことだ。」
それに対してボオルチュは答えず、「それで何事を報告なさるのです。」と問うて来た。
クナンはそこで少し黙した。
ボオルチュに言うかどうか迷ったのだ。
(決して信頼しておらぬ訳ではない。
いずこの宮廷にもおる謀略に血道を上げる輩では決してない。
忠義篤き男であるが、それはまずもってカンに向けられておる。
ジョチ様第一の己とは異なる。)
「そなたの取りなしが必要かもしれぬ。」
「よほどの重大事ですか。」
ただそう言う声に驚きは籠もっておらなかった。
(ジョチ家筆頭の我が向かっておると知った時点で、ボオルチュならば当然、察したのであろう。
そしてゆえにこそ自ら迎えに来たのだろう。)
クナンは来訪をあらかじめ早馬にて報せておった。
「多少の厄介ごとでな。」
(ボオルチュの意見を聞いておいた方が良いかもしれぬ。
それによっては言い方を変える手もあろう。)
カンに嘘を報告する気はなかった。
しかし長い経験から、ものには言い様があることをクナンは良く知っておった。
(もしかしたら、あらかじめ報告の内容を聞いておけとのカンの命を受けて来たのか。)
そこまで想い至るとクナンは打ち明ける覚悟を決めた。
「カンからホラズムとは戦をするなとの命が出ておった。」
クナンはそう切り出してほぼ事実をありのまま告げてから、
「どうであろうか。カンはお怒りになられるであろうか。」
ボオルチュはしばし考え込み、それから答えた。
「それならカンも致し方なしと想われましょう。
喜びはされぬでしょうが。
それにそうした内実であれば、いざとなれば我も助言します。
カンのためにその命に従い、遠くメルキト勢を追って行き、滅ぼしたのはジョチ大ノヤンでありクナン翁ですと。
それを罰するようでは、他の家臣も自らの忠義のあり方に信を持てなくなりましょうと。」
「そうして頂ければあり難い。」
クナンは心中の想いを偽ることなく吐露した。
「ところでそのスルターンという人物。
今後注意した方が良いかもしれませぬ。」
「決してやりやすき相手ではない。
果たして何を望んでおるのか、よく分からぬ。」
クナンの心に先のスルターンとの謁見が苦々しき想いと共によみがえる。
「しかしまずは金国です。次に宋国です。
それがカンのお考えです。」
ボオルチュがその後、言葉を続けることはなかった。
(今、己から聞いたことを考える必要があるのだろう。)
そう想いなし、またクナンはクナンで、カンとの謁見を前にして、やはりボオルチュから聞いたことを考える必要があり、あえて口を開くことはなかった。
注1 アルタイ山脈 モンゴル高原は、西をこの山脈に東を大興安嶺に限られ、美しい対称形をなします。一度地図を見ると、忘れない・・・と想います。とても大きな山脈です。
かつて金が採れたのでこの名が付いたのではと推測されているようです。モンゴル語で「金(黄金)」をアルタンと言います。実際『秘史』の中で金国皇帝は「アルタン・カン」と呼ばれています。
注2 ハンガイ山脈 カンガイ山脈とも。アルタイ山脈と略平行に、よりモンゴル高原の中央寄りにあります。アルタイよりは小さいですが、それでも大きな山脈です。
注3ヘンティー山脈。ハンガイ山脈より更に東にあります。
注4トーラ川 トール川とも。ヘンティー山脈より流れ出て、現モンゴル国の首都ウランバートルをうるおし、オルホン川に流れ込みます。このオルホン川はやがてセレンゲ川に流れ込み、最終的にバイカル湖に注ぎます。いずれも往時のこの地の諸勢力の興亡に縁深き川です。
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