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第3章
和平協定2(スルターンと王子ルクン、そしてイマド)
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登場人物紹介
ホラズム側
テルケン・カトン:先代スルターンであるテキッシュの正妻。カンクリの王女。
スルターン・ムハンマド:ホラズム帝国の現君主
先代テキッシュとテルケン・カトンの間の子。
ルクン・ウッディーン:スルターンの息子、ゆえに王子。
イマド・アル・ムルク:スルターンの重臣
ニザーム・アル・ムルク:スルターンの家臣。位は文官筆頭。
(これは名ではなく、称号である)
アルプ・エル・カン:スルターンのマムルーク(奴隷)であり、将。
ムイッズ・ウッディーン:かつてのグール朝の君主。
――この時点ではグール朝は滅び、この者もまた既に亡くなっておる。
登場人物紹介終了
ここで時を少しばかり戻すと。
チンギスの使者がホラズムへと到着したのは、一二一七年の冬間近の時。
スルターンがアッバース朝カリフを脅すために、西方のイラク方面へ遠征しておる間のことであった。
伝令が至って、スルターンは現地でその報告を受けた。
しかし、それを理由に急いで戻る気はまったくなかった。
引きしりぞくを決定した後のこと。
スルターンはまず一人の者を抜擢し、直属のマムルーク部隊(注1)の将とし、アルプ・エル・カンとの称号を与えた。この者は、壊滅した部隊におりながら、数十騎を率いて戻るを得たのであった。他の者がこれだけ死んでおるのに、生き残ったのだから、きっと幸運でもありまた才覚もあるのだろうとの理由であった。(注:アルプ・エルで勇者を意味し、モンゴル語のバアトルとほぼ同意である)
それからより重要なこととして、イラク方面の地(注2)の統治を王子のルクン・ウッディーンに託した。
授けたのは帝国の西辺の地であった。
それにもかかわらず、ルクンはその純朴なる性格そのままに、感謝の言葉を懸命に述べ立てた。
今回のことがあってこの地に良い想いを抱きようがないスルターンには、それほどのものを己は与えてやれてはおれぬとしか想えぬ。
ただこの者に与える重臣だけは、誇りうるものとスルターンは想っておった。
国の事情もあれば、全ての王子を公平に扱う訳には行かぬ。
既に皇太子は決まっており、ルクンではない。
とはいえスルターンも人の親である。子を想う心はある。
ルクンが生まれたのは、宿敵グール朝のムイッズがウルゲンチを攻囲しておるという苦難の時であった。
そしてまさに生誕の翌日に、ムイッズが退却したのであった。
それゆえスルターンはこの者に、「グールを破りし者」を意味するグーリー・シャーナスティーとの名を与えた。
これがおよそ十五年前のことである。
ルクンは、全てはまだこれからと言って良い年齢である。
加えて、今のままでは余りに線が細いとの憂いを、抱かざるを得ぬ。
ジャラールの如くとなってしまっては、それはそれ、人に傲岸と非難されることになってしまう。
しかし、もう少したくましくなって欲しい。
その統治を補佐すると共に、ルクンを育て上げてくれとの願いを込めた任命であった。
イマド・アル・ムルク、賢臣の誉れ高きこの者を、ルクンのアター・ベグ(注3)としたのであった。
とはいえ、スルターンが善良さの下におったのは、ルクン絡みのことのみであった。
それ以外のことでは、いつものスルターンであった。
そしてその帰還中、スルターンの頭を占めておったのは、別のことであった。
モンゴルとの和平協定のことでさえなかった。
ニザーム・アル・ムルクをどうすれば殺せるかということであった。
まさにスルターンが次なる敵として見定めたのは、自らの母親であった。
もっともこれは今に始まったことではない。
ゆえに向うべき外敵を見失い、それで旧敵に改めて挑まんとしておるというのが実情に近い。
政敵としては無論不足はない。
それどころか強力過ぎるほどである。
更には実母である以上、へたに噛みつけば、自らの体を食い千切るに等しい。
ゆえにまずはニザームであった。
遠征の失敗の責任を押しつけると共に、カリフにしてやられた憂さもこれで晴らせる。
そう想えば、まさに一石二鳥であった。
スルターンはまずは、イマームとの会議にも同席した臣下に尋ねた。
しかしこの者たちは、まったく頼りにならなかった。
恐れの余りであった。
母上は、己とホラズムを二分するほどの権力を有しておった。
確かにスルターンの称号を己は有する。
それでも、本当のこの国の支配者は誰かと問われれば、どうか。
果たしてホラズムの臣民のどれだけが、己を選び、どれだけが母上を選ぶのか。
果たして己もあのニザームの如くに、称号に見合わぬ存在、名ばかりの存在として揶揄されておるのではないか。
ふとその恐怖が身内に湧き上がり、急ぎ追い払う。
加えてホラズムの軍の半ば以上は、カンクリ勢が抑えておった。
その者たちの主が母上に他ならなかった。
母上を敵とすることは、ホラズムの軍の半ばを敵に回す覚悟が必要であった。
無論のこと、そのような気骨を有する者は、それほど多くない。
よってスルターンは、そうであろうと見込む者に意見を求めた。
今回ルクンにアター・ベグとして授けたイマドであった。
そもそも、そう見込むゆえにこそ、ルクンを託したのでもあったが。
まさにイマドをルクンと共にイラク方面に残して行くその前夜のこと。
呼び出して問うたのであった。
遠征途上においてでさえ我の心中がニザームのことで一杯であったこと、
――イマドがそれを知れば、あきれられるかもしれぬとは危惧した。
しかし、それでもなお問わずにはおれなかった。
それもあって、『あやつを処刑できるであろうか』というような生々しい聞き方はさすがに避けた。
あくまでもやんわりと「ニザームに遠征失敗の責任を問うことはできましょうか」と問うに留めた。
「その責をニザームに押しつけること。
――それは不可能ではなかろうとは想います。
しかしそれを公に罪とすれば、やがてその矛先はスルターン自身にも及びましょう。
今回の遠征はスルターンの主導であったと、既に多くの者が知っております。
そしてスルターンには敵がおります。」
イマドは、それが誰であるかを明言する気は無いようであった。
しかしその者の姿がスルターンの心中に浮かび上がって来るのを待つが如くに、そこで一端黙した。
その間、軍征用の天幕に激しく吹き付ける砂のみが音を立てておった。
「その者は将来、このことできっとスルターンを追い詰めましょう。
スルターン自ら格好の攻撃材料を与えるに等しき行いです。」
あくまでもイマドは首を縦に振らなかった。
次の日。
スルターンは、ルクンやイマドと別れて、帰還の馬上にあった。
そして一人想わざるを得ぬ。
やはりイマドをこそ頼りにすべきと。
ルクンの下にイマドを残すことにして良かったと。
更にはこの遠征にてなすを得た最善のことかもしれぬとさえ。
他方でスルターンがこの遠征にて亡くなった多くの軍兵に想いを至らせることは、ついぞなかった。
この時スルターンに母やカンクリ勢と戦をする気があった訳ではない。
(しかし将来何が起こるとも限らぬ。
もし母上が我を廃位するを欲したならば。)
考えられる限りで最悪なことであった。
しかしその恐れがまったく無いとは言い切れなかった。
そして最悪にこそ備えるべきというのが、スルターンの信条でもあった。
その場合、頼りになるのは「カンクリの娘」を母とせぬ王子たち、このルクンやジャラールに他ならなかった。
ジャラールにはグールとガズナを与えておった。
ルクンもジャラールも、その分封地はいずれも遠地であった。
とはいえ、スルターンが逃げ込むとすれば、その方が都合が良いはずであった。
そしてその時はイマドが我を補佐してくれよう。
翌年二月に、ニーシャープールに至ると、そこに留まり兵馬を休めた。
肥沃なこの地には、軍馬に与える麦わらはありあまるほどにあった。
そして一月ばかりを過ごしてから、ようやく出発した。
とはいえ決して急ぐことはなく、メルヴを通った時には既に四月に入っておった。
アームルの渡しにてアムダリヤ川を北へと渡る。
かつて栄えたパイカンドの廃墟の側らを過ぎて、ブハーラーに至った。
凱旋という雰囲気はまったく無かった。
帰還した軍を歓迎する儀礼は、スルターン自身の命により、最も簡素なものに留められた。
イラク征討
――実質的には臣従の確認に過ぎぬ
――とそこをルクンに委ねたこと、
――その二つがわずかに喜ばしきこととして公布された。
注1 マムルーク(あるいはグラームとも):奴隷のことである。アジア西方の歴史を語るにおいて、マムルーク部隊を外すことはできない。そもそもはアッバース朝に始まる。豊富な騎馬軍を有した遊牧勢力のセルジューク朝でさえ、時代が下るにつれ、君主はそれに頼るようになる。ガズナ朝の建国者アルプ・テギンは、サーマーン朝に仕えたマムルークであった。
注2 イラク:バグダードのカリフやクルド勢は臣従しておらぬのだから、ここでは、それより東方の地、現在の国でいえばイラン西部を指している。
古来よりの地名としての「イラク」は、バグダードを中心としたチグリス・ユーフラテス川流域(現イラク国の中心)に加え、イラン西部も含む。
ルクンへの分封を伝えるムスリム史料も、単に「イラク」としています。
現代風に言い替えても良いのですが、小説ですので古風な呼び方で行きたいと想います。
注3 アター・ベグ:トルコ語。アターは「父」の意。
王子にとって「父代わりをなすベグ(臣・将)」の意。
加えてトルコ・モンゴル系では、相手を「父」・「兄(アカ)」・「叔父(タガイ)」と呼ぶことは、それだけで尊称となりうる。ゆえにこの役職名(官名)は尊称の響きもまた有する。
ホラズム側
テルケン・カトン:先代スルターンであるテキッシュの正妻。カンクリの王女。
スルターン・ムハンマド:ホラズム帝国の現君主
先代テキッシュとテルケン・カトンの間の子。
ルクン・ウッディーン:スルターンの息子、ゆえに王子。
イマド・アル・ムルク:スルターンの重臣
ニザーム・アル・ムルク:スルターンの家臣。位は文官筆頭。
(これは名ではなく、称号である)
アルプ・エル・カン:スルターンのマムルーク(奴隷)であり、将。
ムイッズ・ウッディーン:かつてのグール朝の君主。
――この時点ではグール朝は滅び、この者もまた既に亡くなっておる。
登場人物紹介終了
ここで時を少しばかり戻すと。
チンギスの使者がホラズムへと到着したのは、一二一七年の冬間近の時。
スルターンがアッバース朝カリフを脅すために、西方のイラク方面へ遠征しておる間のことであった。
伝令が至って、スルターンは現地でその報告を受けた。
しかし、それを理由に急いで戻る気はまったくなかった。
引きしりぞくを決定した後のこと。
スルターンはまず一人の者を抜擢し、直属のマムルーク部隊(注1)の将とし、アルプ・エル・カンとの称号を与えた。この者は、壊滅した部隊におりながら、数十騎を率いて戻るを得たのであった。他の者がこれだけ死んでおるのに、生き残ったのだから、きっと幸運でもありまた才覚もあるのだろうとの理由であった。(注:アルプ・エルで勇者を意味し、モンゴル語のバアトルとほぼ同意である)
それからより重要なこととして、イラク方面の地(注2)の統治を王子のルクン・ウッディーンに託した。
授けたのは帝国の西辺の地であった。
それにもかかわらず、ルクンはその純朴なる性格そのままに、感謝の言葉を懸命に述べ立てた。
今回のことがあってこの地に良い想いを抱きようがないスルターンには、それほどのものを己は与えてやれてはおれぬとしか想えぬ。
ただこの者に与える重臣だけは、誇りうるものとスルターンは想っておった。
国の事情もあれば、全ての王子を公平に扱う訳には行かぬ。
既に皇太子は決まっており、ルクンではない。
とはいえスルターンも人の親である。子を想う心はある。
ルクンが生まれたのは、宿敵グール朝のムイッズがウルゲンチを攻囲しておるという苦難の時であった。
そしてまさに生誕の翌日に、ムイッズが退却したのであった。
それゆえスルターンはこの者に、「グールを破りし者」を意味するグーリー・シャーナスティーとの名を与えた。
これがおよそ十五年前のことである。
ルクンは、全てはまだこれからと言って良い年齢である。
加えて、今のままでは余りに線が細いとの憂いを、抱かざるを得ぬ。
ジャラールの如くとなってしまっては、それはそれ、人に傲岸と非難されることになってしまう。
しかし、もう少したくましくなって欲しい。
その統治を補佐すると共に、ルクンを育て上げてくれとの願いを込めた任命であった。
イマド・アル・ムルク、賢臣の誉れ高きこの者を、ルクンのアター・ベグ(注3)としたのであった。
とはいえ、スルターンが善良さの下におったのは、ルクン絡みのことのみであった。
それ以外のことでは、いつものスルターンであった。
そしてその帰還中、スルターンの頭を占めておったのは、別のことであった。
モンゴルとの和平協定のことでさえなかった。
ニザーム・アル・ムルクをどうすれば殺せるかということであった。
まさにスルターンが次なる敵として見定めたのは、自らの母親であった。
もっともこれは今に始まったことではない。
ゆえに向うべき外敵を見失い、それで旧敵に改めて挑まんとしておるというのが実情に近い。
政敵としては無論不足はない。
それどころか強力過ぎるほどである。
更には実母である以上、へたに噛みつけば、自らの体を食い千切るに等しい。
ゆえにまずはニザームであった。
遠征の失敗の責任を押しつけると共に、カリフにしてやられた憂さもこれで晴らせる。
そう想えば、まさに一石二鳥であった。
スルターンはまずは、イマームとの会議にも同席した臣下に尋ねた。
しかしこの者たちは、まったく頼りにならなかった。
恐れの余りであった。
母上は、己とホラズムを二分するほどの権力を有しておった。
確かにスルターンの称号を己は有する。
それでも、本当のこの国の支配者は誰かと問われれば、どうか。
果たしてホラズムの臣民のどれだけが、己を選び、どれだけが母上を選ぶのか。
果たして己もあのニザームの如くに、称号に見合わぬ存在、名ばかりの存在として揶揄されておるのではないか。
ふとその恐怖が身内に湧き上がり、急ぎ追い払う。
加えてホラズムの軍の半ば以上は、カンクリ勢が抑えておった。
その者たちの主が母上に他ならなかった。
母上を敵とすることは、ホラズムの軍の半ばを敵に回す覚悟が必要であった。
無論のこと、そのような気骨を有する者は、それほど多くない。
よってスルターンは、そうであろうと見込む者に意見を求めた。
今回ルクンにアター・ベグとして授けたイマドであった。
そもそも、そう見込むゆえにこそ、ルクンを託したのでもあったが。
まさにイマドをルクンと共にイラク方面に残して行くその前夜のこと。
呼び出して問うたのであった。
遠征途上においてでさえ我の心中がニザームのことで一杯であったこと、
――イマドがそれを知れば、あきれられるかもしれぬとは危惧した。
しかし、それでもなお問わずにはおれなかった。
それもあって、『あやつを処刑できるであろうか』というような生々しい聞き方はさすがに避けた。
あくまでもやんわりと「ニザームに遠征失敗の責任を問うことはできましょうか」と問うに留めた。
「その責をニザームに押しつけること。
――それは不可能ではなかろうとは想います。
しかしそれを公に罪とすれば、やがてその矛先はスルターン自身にも及びましょう。
今回の遠征はスルターンの主導であったと、既に多くの者が知っております。
そしてスルターンには敵がおります。」
イマドは、それが誰であるかを明言する気は無いようであった。
しかしその者の姿がスルターンの心中に浮かび上がって来るのを待つが如くに、そこで一端黙した。
その間、軍征用の天幕に激しく吹き付ける砂のみが音を立てておった。
「その者は将来、このことできっとスルターンを追い詰めましょう。
スルターン自ら格好の攻撃材料を与えるに等しき行いです。」
あくまでもイマドは首を縦に振らなかった。
次の日。
スルターンは、ルクンやイマドと別れて、帰還の馬上にあった。
そして一人想わざるを得ぬ。
やはりイマドをこそ頼りにすべきと。
ルクンの下にイマドを残すことにして良かったと。
更にはこの遠征にてなすを得た最善のことかもしれぬとさえ。
他方でスルターンがこの遠征にて亡くなった多くの軍兵に想いを至らせることは、ついぞなかった。
この時スルターンに母やカンクリ勢と戦をする気があった訳ではない。
(しかし将来何が起こるとも限らぬ。
もし母上が我を廃位するを欲したならば。)
考えられる限りで最悪なことであった。
しかしその恐れがまったく無いとは言い切れなかった。
そして最悪にこそ備えるべきというのが、スルターンの信条でもあった。
その場合、頼りになるのは「カンクリの娘」を母とせぬ王子たち、このルクンやジャラールに他ならなかった。
ジャラールにはグールとガズナを与えておった。
ルクンもジャラールも、その分封地はいずれも遠地であった。
とはいえ、スルターンが逃げ込むとすれば、その方が都合が良いはずであった。
そしてその時はイマドが我を補佐してくれよう。
翌年二月に、ニーシャープールに至ると、そこに留まり兵馬を休めた。
肥沃なこの地には、軍馬に与える麦わらはありあまるほどにあった。
そして一月ばかりを過ごしてから、ようやく出発した。
とはいえ決して急ぐことはなく、メルヴを通った時には既に四月に入っておった。
アームルの渡しにてアムダリヤ川を北へと渡る。
かつて栄えたパイカンドの廃墟の側らを過ぎて、ブハーラーに至った。
凱旋という雰囲気はまったく無かった。
帰還した軍を歓迎する儀礼は、スルターン自身の命により、最も簡素なものに留められた。
イラク征討
――実質的には臣従の確認に過ぎぬ
――とそこをルクンに委ねたこと、
――その二つがわずかに喜ばしきこととして公布された。
注1 マムルーク(あるいはグラームとも):奴隷のことである。アジア西方の歴史を語るにおいて、マムルーク部隊を外すことはできない。そもそもはアッバース朝に始まる。豊富な騎馬軍を有した遊牧勢力のセルジューク朝でさえ、時代が下るにつれ、君主はそれに頼るようになる。ガズナ朝の建国者アルプ・テギンは、サーマーン朝に仕えたマムルークであった。
注2 イラク:バグダードのカリフやクルド勢は臣従しておらぬのだから、ここでは、それより東方の地、現在の国でいえばイラン西部を指している。
古来よりの地名としての「イラク」は、バグダードを中心としたチグリス・ユーフラテス川流域(現イラク国の中心)に加え、イラン西部も含む。
ルクンへの分封を伝えるムスリム史料も、単に「イラク」としています。
現代風に言い替えても良いのですが、小説ですので古風な呼び方で行きたいと想います。
注3 アター・ベグ:トルコ語。アターは「父」の意。
王子にとって「父代わりをなすベグ(臣・将)」の意。
加えてトルコ・モンゴル系では、相手を「父」・「兄(アカ)」・「叔父(タガイ)」と呼ぶことは、それだけで尊称となりうる。ゆえにこの役職名(官名)は尊称の響きもまた有する。
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