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第3章

和平協定1(カンの隊商0)

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登場人物紹介
オマル・ホージャ:(ホラズムに向かう)チンギス・カンの隊商を率いる隊長

アリー:隊商のラクダ係

ハーリド:隊商でのアリーの少し先輩

登場人物紹介終了



 曇り空を恨めしげにアリーは見上げた。
 数日前も大雪が降って、立ち往生を強いられたばかりであった。
 また同じことにならぬかと、想わず如くの目つきとなった。
 そもそも寒さに強いとはいえ、
――遠路重荷おもにを背負って来たラクダが弱らぬか体調を崩さぬか、
――気が気でなかった。

「アリーよ。早く嫁の顔が見たかろう。」

「ああ。そうだ。そうだ。そうに違いねえ。」

「顔じゃなく、尻の間違いだろう。」

「嫁の尻に顔をうずめたいってか。」

 顔を赤らめながらも、一番下っ端の彼はラクダの荷降ろしに余念がない。
 少しでもラクダの負担を軽くするためだ。
 この後アリーには、少し先輩のハーリドと共に食糧の買い出しに行くという仕事も待っておった。
 ただやはり何をしておる時でも目に浮かぶは、サマルカンドで待つ妻の顔、その赤いのほがらかな顔であった。

 モンゴルのオルドを発した隊商は、大量の商品を携えておるゆえ進むのも遅く、特にアルタイ山脈越えには苦労した。
 先行する使者よりおよそ二ヶ月遅れてのタラス(注1)到着であり、その外城にある隊商向けの宿にようやく入ったところであった。

「おう。やっとるか。あのラクダの具合はどうだ。」

 二人とも、否、隊商全員がこれ以上はないというほどに日焼けしておった。雪焼けであった。
 尋ねられたラクダは途中で右後足を痛めてしまい、ついて来るのもやっとであり、荷物無しで何とか遅れずに済んでおる状態であった。
 オマル・ホージャ隊長が休憩の度に人とラクダの具合を見て回るのはいつものことであった。
 いつかこの人のように大隊商を率いたいと望んでおった。
 しかもこたび隊長が率いるは、あのチンギス・カンの大隊商であった。

 オトラル出身の隊長に加え、
――マラーガ出身のハンマール様、
――ブハーラー出身のファフル・ウッディーン様、
――ヘラート出身のアミーン・ウッディーン様
――が各々隊商をまとめ、総勢で百人を上回る規模であり、
――そしてその総まとめを隊長がカンから命じられたのだ。

 これほどのほまれは中中あるものではないと、隊商内でももっぱらの評判となっておった。

 その命を受ける時にカンより賜った銀の懐剣を、
――隊長はいつも腰に差しており、
――アリーも見せてもらったことがあった。
――あえて人の盗み心を呼び覚ます必要はあるまいということであろう、
――普段は外衣の下に隠れるように、腰の横に差してあった。

 四人のあるじを含め、隊商の者はいずれも
――ホラズム国やその近郊の出身であり、
――またムスリムであった。

 交易をなすには、ホラズムの言葉・商習慣に通じておいた方が良いこと、
――またムスリムの方がイスラームを奉じる国においては害をこうむりにくいことを理由として、
――隊長がそうすべきと進言し、
――カンが従ったと聞いておった。

「かんばしくありません。
 良くなるには時間がかかりそうです。」

「ここの市場バザールで売って、新たなラクダを手に入れるか。
 ここなら買い手を探すのに苦労することもあるまい。
 どうだ。」

 いつの戦の跡なのか、城壁は破壊されたままであり、町中にも崩れかけた建物が多く見られた。
 しかし人は多く、町には活気があった。

(確かに隊長の言う通りなのだろう。)

 アリーは一呼吸置いた。
 否、そうするだけではまだ言葉を発することはできなかった。
 しばらく黙り込んでようやくのことであった。
――自らの希望を口にすることができたのは。

「連れて行って頂けたら。」

 隊長は明らかに渋い顔をした。
 一瞬悲しそうな顔をしてから、アリーは懸命に声を絞り出した。

「自分がしっかり面倒を見ますので。」

「お前がそこまで言うなら、それも良かろう。
 確かにお前は良くやっておる。」

 それはこの旅で初めてもらうおめの言葉であった。
 ケガを一頭出したのだから、しかられて当然なのに。
 予期せぬことに喜んでおると、

「サマルカンドまでラクダを生かして連れて行くことができたなら、お前に譲ろう。」

と思わぬ贈り物の約束までも受けた。

 隊商がまず目指すはホラズム北辺の城市オトラル。
 ただ直接そこに入るのではなく、そこへ数日のところにあるサイラームで和平の使者の帰りを待つことになっておった。
 その地は近い。あと五、六日で至る予定であった。

 隊長によれば、

「カンは本当に慎重なお方だ。
 本来和平の使者など必要ない。
 我らは交易をなしに行くのだ。
 交易とは互いに利をもたらすもの。
 我らを拒む理由などあろうはずもない。
 ただし先年ジョチ大ノヤンとホラズムのスルターンとの間に小競り合いがあったと聞く。
 そのために念には念を入れてということだ。」

 一方カンに仕えた先輩からは、次の如くに聞かされた。

「カンの戦争のやり方と一緒よ。
 カンはその本軍の前にアルギンチを発する。
 そしてそれは本軍の到来を告げ報せると共に、使者として交渉も行なう。」

 どちらの見方もアリーにはなるほどと想えるものであり、素直に受け入れられた。

注1 タラス:現在のカザフスタンにあるタラズがその地。
 ウズベキスタンの首都タシュケント(タシケント)の東北およそ250キロほどのところにある。
 サイラームからは東北東におよそ150キロ。
 国境を挟んであるキルギスのタラスと混同してはいけない。
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