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第5章

アリーとオマル隊長、そして使者ヤラワチ

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人物紹介
モンゴル側
マフムード・ヤラワチ:チンギスの使者。商人出身。ホラズム地方出身

オマル・ホージャ:(ホラズムに向かう)チンギス・カンの隊商を率いる隊長

アリー:隊商のラクダ係

ハーリド:隊商でのアリーの少し先輩
人物紹介終了



 ブハーラーの商人一行が大雨にたたられたその同じ日のサイラーム。
 離れているということもあり、ここは見事な快晴であった。
 そしてこの日隊商にも、ようやく待ち人が来たった。

 使節団がブハーラーから戻って来て、和平と交易の協約が結ばれたとの報せをもたらしたのである。

 その大任のゆえか、厳しき表情の多かったオマル隊長にほっとした表情がようやく見られるようになり、
――アリーもまたほっとしたのは、
――その日の午後のことであった。

 そしてその夕方、使節一行の労苦をねぎらうための宴
――それを、隊長を含めた隊商の四人のあるじが、開く運びとなった。



 宴の刻限となり、最年少のアリーは食事皿を運んだり、酒をついでまわったりと、せっせと給仕に努めておった。
 そうした中、隊長が現れ、

「皆。悪いがアリーを借りるぞ。
後の料理や酒は自分でやってくれ。」

と声をかけ、次にアリーに

「ちょっとこっちに来てくれ」と告げた。

 そうは言われたものの、仕事を投げ出す訳には行かないと戸惑っておると、

「早く行け。さもないと我らが隊長に怒られる。」

 年配の一人がそう言うと、

「おう。早う行け。
お前は我らが自分で酒をめぬとでも想うておるのか。」

との声も上がる。

「行け。行け。」

 既に酔いが回っておる者が声を張り上げる。
 それを境に、隊長の声で一端静まっておった宴の場は、再び騒がしさを取り戻した。
 それでもアリーが戸惑っておると、
 少しだけ先輩のハーリドが近付いて来て、

「心配するな。後は俺が引き継ぐ。」

と言ってくれた。
 それでもアリーがぐずぐずしておると、

「お前が隊商に入ってくれたおかげで、俺の仕事は随分ずいぶんと楽になった。
たまにはお前が楽をしろ。」

と言われ、ようやく踏ん切りをつけた。



 アリーは宴の喧噪けんそうが遠くに聞こえるくらいのところにまで至ると、一つの天幕ゲルに入るように言われた。
 そこには今日初めて顔を見た者がおった。
 とはいえ忘れるはずもない。
 使者を務めたマフムード・ヤラワチ様のはず。

 ろくろく相手の顔も見ず、想わずひざまずく。
 しかしカンの使者に対する正式な敬意の示し方も分からず、とりあえず頭を地につけた。

「随分と大げさだな。
我はカンでないぞ。
ノヤンでさえない。」

 頭の上からその声が聞こえた。

「さあ。顔を上げよ。
 今日はお互い商人同士として話をしようぞ。
 我もまたその方が気楽。」

 そう言われ、顔を上げる。

 ひげの中に埋まる如くの小顔に
――笑みを浮かべて、
――目だけ大きくぎょろつかせて、
――ヤラワチ様が、やはりそこにおった。

「さあ、立ち上がって席に着け。
 我らを待たせるな。」

 今度はオマル隊長から声がかかる。

 そう言いつつ、隊長はヤラワチ様の右手側の席に座った。
 ヤラワチ様は、小卓の向こう側、奥まった席に座しておった。

 オマル隊長がその座面を叩いて急かすので、
――仕方なくアリーもまたその席、
――戸口側の空いている椅子に座って、卓を囲んだ。

「本来なら早速酒をみ交わすもの。
 しかし、まずは少し話をしたい。」

 改めてヤラワチ様にそう言われ、アリーは再びかしこまる。
 そうして落ち着いて見ると、隊長もヤラワチ様も酔っておる如くには見えなかった。
 ヤラワチ様は白のデール(モンゴルの民族衣装)、隊長は青のデールをまとっておった。
 お二人ともターバンは外し、タジク帽のみとなっておった。
 己はころもは異なる。
 またそもそもターバンは持っておらず、ただタジク帽をかぶっておる。
 そこだけは同じであり、それで少し安心する。

「我はスルターンに会って来た。」

「はい。」

 そう答えてから聞かされた話は、強く興味を引かれるものであった。

 相手国の君主に会ったことさえないアリーにとって、
――その君主と交渉するということがなど、
――想像もつかないことであった。

 一回目の謁見えっけんの様を聞いた後に、ヤラワチ様に次の如くに問われた。

「その後、我は一人呼び出された。
 そもそも、使者は一人での謁見をカンに禁じられておる。
 何ゆえか分かるか。」

「いいえ。」

 正直にアリーは答えた。

「使者が勝手に言葉をたがえるのを許さぬためだ。
 しかしこたびは仕方のないこと。
 相手のスルターンがそれに応じねば、協定は結ばぬと言うのでな。」
 そこまで言ってから、改めてアリーの顔をそのぎょろ目にてのぞき込んでから、

「そこで何があったと想う。」

 いきなりそう問われ、何も頭に想い浮かばなかった。
 答えられずにおると、

「脅されたのだよ。
 スルターンの間諜かんちょう(スパイ)になれと。
 それで我はどう答えたと想う。」

 さすがにその答えは分かった。自信をもって答える。

「断ります。」

「それではダメだな。そうだろう。オマル。」

「そうです。」
 隊長はそう応じて、それからこちらの方を向いて声をかける。

「アリーよ。なぜ断るのか。」

「カンを裏切らぬためです。」

「本当にそうか。
 もしお前が使者だったなら、そこでお前は殺され、この和平協定も破談となっておったろう。」

と隊長。

「それでは・・・受けたのですか。」

「そんなに驚くな。
 本当にスルターンの間諜になる訳ではない。
 この件も含め、全てカンに報告する。
 その上で我が間諜を続けるか否かは、カンが判断されれば良いこと。」

とヤラワチ様。

「アリーに来てもらったのは、この話をヤラワチ様にしてもらうためだ。
 我があいだに入っては、信じぬかもしれぬからな。」

「そんなことは・・・。」
 とは言うものの、ヤラワチ様本人から聞いた今でさえ、信じられぬアリーであった。

「そして同じことをスルターンやその配下に言われたならば、やはりヤラワチ様と同じく受けて欲しいのだ。
 何か他のことでも同じだ。
 とりあえず受けて、すぐに我に報告せよ。」

「はい。」

 戸惑いながらも、そう答える。

「それでお前の命も守れるし、また隊の安全も守れる。」

「お前は年若いから相手にくみしやすいとみなされ、ねらわれやすい。
 それに他の者は、多少の経験もある。
 またこうしたことは、一度は言い含めてある。」

「ハーリドもですか。」

「ああ。もそうだ。
 あやつはお前の面倒を良く見ておろう。」

「はい。色色と教えてくれます。」

「良いことだ。
 それがにとっても成長のかてとなる。
 あやつは一見だが、ああ見えてしておる。
 やがて良き商人となろう。」
 
 ハーリドはアリーから見ても仕事ができた。
 わずか1年ほどしか経験は変わらない。
 加えて年齢はほぼ変わらない。相手が数ヶ月、上なだけである。

(僕だって。)

 とても口に出すことはできないが、そう想う。

「それにもう一つ、確認したいことがある。
 お前が今回のように注意を要する危険な相手との交易に赴くのは初めてだったな。」

「そうですけど。」

「お前の祖父に頼まれて、これまで預かって来た。
 しかし今回改めてお前に直接確認すべきと想ったのだ。
 このまま我らと共に交易に赴くか。
 それとも隊商を離れて、一人サマルカンドに向かうか。
 離れても、給金は交易に赴くのと同じだけ払うし、約束したラクダもここで与えよう。」

「共に行きます。」

 こればかりは、即座に答えた。

「そう急いで答えを出すな。
 皆の酔いっぷりを見れば、隊商はすぐには発さぬ。」

「この子はあこがれておるのだよ。そなたを見る目に明らかに現れておる。」

 とヤラワチ様に心中を指摘され、アリーは想わず赤面するも、

「オマルのようになりたいのだろう。」

 とうながされ、仕方なく

「はい。」と正直に答える。

 他方隊長の方は黙しておった。
 それではとばかりに、ヤラワチ様が言葉を続ける。

「なあに、確かにまったく危険がない訳ではない。
 しかしまさに我が生き証人だ。
 戻って来た今でも、本当に首がつながっておるのか、時々さわって確かめてはおるが。」

 と笑いながら言う。
 それから真顔に戻って続けた。

「オマルの言いつけをしっかり守りさえすれば、少なくとも今回の交易は安全であろう。
 何より相手も一国の君主。
 そうそう言葉をたがえはせぬさ。
 その言質げんちを取るためにこそ、カンは我を赴かせたのだから。」

 ただオマル隊長には、やはり次の如くに告げられた。

「よくよく考えろ。お前自身が選ぶしかない。」

「そうだ。そして人は誰であれ、想いを抱くなら、その想いを大切にすべきと、
 我は想うがな。」

「ヤラワチ様。そうしたことは言わないで下さい。
 実際身の危険を感じられたのでしょう。」

「ああ。特に『己の子のように愛したい』とのカンの言葉を伝えたら、『我は断じて異教徒の子にはならぬぞ』と急にスルターンが激怒した。
 あの時は、きもを冷やしたぞ。
 『あくまで儀礼上の言葉に過ぎませぬ。』とあわててとりなしたが。
 しかし交渉ごとには、こうしたことは付きものなのだよ。それはオマル自身も分かろう。」

「わたくしは承知しております。
 問題はアリーです。
 アリーにはこれが危険なこととの認識を持って欲しいのです。」

「この時代、どこに行こうと全く危険でないところなどないよ。
 そうだろう。オマル。
 だからこそ、そなたもまたカンの隊商を率いておるのだろう。
 そしてそなた自身が、まさにその隊商を率いてホラズムに入らんとしておるのだ。
 それもまた何らかの想いを抱くゆえであろう。
 それに神はあきないにはげめと言われておる。
 オマル。そなたが言うた如く、この子は自分で決めよう。
 我やそなたがそうした如く。
 誰もそれを止められぬし、止めるべきではない。
 この子にその考える時間を与えるために、そろそろ解放してやるべきではないか。
 そして我らは我らで積もる話もあれば。」

「ただスルターンは危険な人物です。
 わたしくしが想っていたより、明らかにそうです。
 それこそヤラワチ様ご自身が、身をもって経験されたところのもの。」

 と反論した後に、それでも隊長は、遂にアリーに出て行くことを許した。
 ただそれはやはり

「自分のことだ。良く考えてから結論を出せ。」

と告げてからであった。
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