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第2部開戦
11:モンゴル進軍8 『モンゴルの后妃とチンギス直属軍―史料の落とし穴編』&『サイラームやっと到着。長かった~』
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今話は前話で述べた『チンギス直属の軍』を扱います。
これは史料上には現れません。
といって隠密の軍というのでは、ありません。
あくまで史料上の制約から伝わっておらぬというに過ぎません。
確かにモンゴルは、秘史・ラシードの『集史』・聖武親征録と他の遊牧勢に比べれば、史料は格段に豊富です。
ただいずれも国史と言い得るものであり、ゆえに、その伝えるのも自ずと国の重要人物となります。
ノヤンでいえば、千人隊長以上がほとんどです。
例えば、日本の江戸幕府でいえば、これは大名に当たります。
そして上記の直属軍というのは、(江戸幕府の)旗本や御家人に当たります。
例えば現代であれ、もし枚数に限りがある条件で、江戸期の歴史をつづる場合、仮に旗本や御家人の名や動きがまったく伝えられなくとも、それをもってすぐに杜撰や拙劣とはならないと想います。
今回の話で少しややこしいのは、千人隊長や近衛隊の隊長も当然チンギズの旗下にあり、これらもまた直属の軍との表現を用いても誤りではないことです。
ここで扱う『直属軍』とはあくまで『千人隊長でないゆえに史料上には現れない直属軍』との意味です。
この直属軍の百人隊長には、どういった者たちがなったのでしょうか。
その候補を捜すのは、それほど難しくありません。
前話で述べた如く、チンギスには、5人の各々のオルドの主以外にも、多くの后妃がおったことが知られています。
当然この者たちにも子がおったはずです。
オルドの主の子には、チンギスは千人隊長の上に立つを許しました。
前話の後半で述べた如く3人が幼くして亡くなっておるので、ボルテの4子とクランの一子の五人のみです。
それでは、それ以外の子はどうなったか。
千人隊長として伝えられておる者は一人もおりません。
これらの者がチンギスに直属する百人隊長・十人隊長となったであろうことは、容易に想像がつくことです。
またこの(史料上に見えぬ)直属軍については、傍証というか、存在を推測させる事柄があります。
モンゴルが勝った際に、その捕虜とした軍兵を分配することは知られています。
この分配の権限はカンにあります。
参戦したノヤンたちに、その勲功に応じて恩賞として分け与えられるのですが、当然自らも取ったはずです。
これが直属軍の兵となったことは、疑い得ません。
また率先臣従した者たちも、そもそも百人程度の軍勢なら、そのまま百人隊長を授けられた可能性が高いと考えられます。
モンゴルの軍制では、各隊は並列にチンギスに直属し、相互に臣従の関係はありません。
万人隊長であれ、千人隊長であれ、チンギスに直属します。
これは百人隊長であれ、十人隊長であれ同じです。
無論、チンギスに臣従する前に、既に千人隊長の配下であった者は、そのままです。
第2部の第7話で見たウイグルの哈刺某の如く、特にチンギスの命がある場合を除いては、チンギスに直属することはありません。
ただ、この場合でさえ、哈刺某はウイグルのイディクートにも属しており、いわば両属します。
この者の息子が後にダルガチの任命と共に、都督(唐に由来するウイグルの官称)を授かることから、それは明らかです(元史の『哈刺亦哈赤北魯伝』に拠る)。
率先臣従するならば、それ以前の臣従関係は安堵され、尊重されるのです。
ですから、ここで議論しているのは、あくまで個別にチンギスに臣従した勢力についての取り扱いです。
例えば、十人で臣従すれば、その内の一人が十人隊長となり、チンギスに直属します。
そして軍征において、チンギスの軍令が出て、初めてそこに王子や万人隊長・千人隊長との臣従の関係が生じるのです。
第1部の第4章の第4話『この時のモンゴル3(カンとムカリ、そして耶律阿海)』で、ムカリに属する駙馬や千人隊長たちを述べましたが、これは対金国戦が継続されておる間だけのことです。
原則としては、戦が終われば、その各々は再び大カンに直属します。
(王族に授けた千人隊長(ジョチ家のクナンや下記に述べるグチュ)は別扱いであり、これは恒常的なものです。現代でいえば、相続財産の生前贈与に近いものです。)
更に傍証を求めるならば、チンギス家――母のホエルンや正妻のボルテにより、育て上げられた者たちがおります。
これらは、いずれも幼くして戦場で拾われた者や、臣下より預かった者です。
本作でも出て来たシギ・クトクやチャガン、あるいはグチュ、ボロウル、ココチュ、そして四狗のジェルメなどがそうです。
この者たち自身は、当然自前の軍というのを持っておりません。
その最初に率いたのが、このチンギス直属の軍であろうことは、疑いを得ないところです。
というより、むしろこの者たちは、このチンギスの直属の軍を率いるためにこそ、その家中にて育て上げられたと見るべきでしょう。
(もちろん、この者たちも、後に至っては、自ら挙げる勲功により、自兵を得たのもまた確実ですが。)
例えば、その内の一人のグチュが、母のホエルンと末弟オッチギンに授けられたのも、このあたりの事情をほのめかしておると想えます。
ホエルンは後半生、少なくともその晩年にはオッチギンと共におりました。
モンゴルでは末子が父母と共におるという慣習があり、それに従ったのです。
ホエルンがこのグチュを育て上げたとすれば、自らの将として欲しいと、主張する権利は有りましょう。
そしてその死に際し、オッチギンに譲られたと考えることはできるでしょう。
あるいはそもそもオッチギンの将として授けるように、ホエルンがチンギスに要求したのかもしれません。
我が育て上げた義子たちを、チンギスが独り占めするものではないとして。
これを伝える秘史10巻の243節では、二人のうちのどちらに与えたのか明記されておりません(注1)。
そもそも万人隊長・千人隊長自身が動員できる軍は、実数の万や千に劣るもの、場合によっては大きく劣るものと、私は考えています。
そして軍中に占める遊牧勢の割合が高く、また戦が引き続いたチンギスの時期は、特にその傾向が高かったろうと想います。
そして軍征に際しては、チンギスはこの(史料に見えぬ)直属軍を授けて、増員したものと考えています。
それが実数の千や万にどこまで近付いたかというのは、まさに、「その時の現実に動員できる兵の数」や「その軍征にどれだけの兵数が必要と考えたか」によって決まったとしか言い得ません。
これは後代の元朝の時の史料ですが、人口の多い農耕地を加えたこの時でさえ、実数に満ちておりません。
元史の百官7の諸路の万戸府の条の関係する部分のみ以下に訳します。
(路は元朝の地方の最大の行政単位です。現代の省に相当します)
『上万戸府は7千以上、中万戸府は5千以上、下千戸府は3千以上の軍をつかさどる。
上千戸所は7百以上、中千戸所は5百以上、下千戸所は3百以上の軍をつかさどる。』
元史の万戸府とは万人隊、千戸所とは千人隊のことです。
元朝は、これを兵員の数によって、上・中・下に分けたのです。
他方で、千人隊長というのは、このチンギス・カンの血を引く百人隊長たちを、軍征時に限るとはいえ、率いることを許されたのですから、特別な存在と言えましょう。
秘史を一度でも読んだことがある方ならば、この千人隊長の栄誉をたたえる詩情を感じられたのではないでしょうか。
またこの直属軍を授けるからこそ、軍征で得た捕虜や略奪品の分配権をチンギスが有するを得たと、私は考えています。
サイラームはオトラルに近い。
隊商でさえ四、五日、早馬なら一日で到達できる距離である。
しかもおあつらえ向きにこの二つの地をアリス川が結んでおる。(注2)
つまり進軍して下さいと言わんばかりの地であった。
チンギスはあえてそこで軍を止めた。
大軍による圧力をかけて相手の動きを誘うと共に、ホラズム軍に関する情報収集に余念がなかった。
それと共に敵の進軍に備えよと全軍に命じた。
敵の急襲を警戒して、
スベエテイには万人隊を授け前衛として先行展開させており、
その後方に第二軍としてジェベに万人隊を授け布陣させておった。
右翼にはイェスンゲ万人隊を付して、ジョチ率いる2万人隊と併せ、総計3万人隊が、
左翼にはチャアダイとオゴデイが率いる総計4万人隊が、
共に大きく広がって展開しておった。
また後軍として、駙馬のトクチャルに万人隊を授け、背後を固めさせた。
各隊は上記で述べたチンギス直属軍を付して、増強されておった。
そしてその中央にはチンギスの大中軍が布陣した。
当初の計画通り、この地での決戦を前提としたものであった。
注1 秘史の訳書の詳細は参考文献に記しています。
注2 サイラームはタシュケントの北にあるシムケント近郊、その約14キロ東南東(カザフスタン国内)にあります。
グーグルマップではsayramで検索できます。
オトラルは、かつてはアリス川とシルダリヤの合流地の高台にありました。
現在ではシルダリヤの北岸側に少し(約10キロほど)離れて、前記シムケントの西北西約120キロにあります。
グーグルマップではオトラルトベで検索できます(トベは高台の意味です)。
衛星写真で見えるいびつな台形が、オトラルの遺跡です。
グーグルマップを見ますと、この両者の近くを流れる川が見えますので、これがアリス川と想われます。
(途中で中間ほどにあるアルスという地の近くを通ります)
またオトラルをウィキペディアで検索すると、かなりネタバレしますので、控えられた方が本作をより楽しめるとは想います。
これは史料上には現れません。
といって隠密の軍というのでは、ありません。
あくまで史料上の制約から伝わっておらぬというに過ぎません。
確かにモンゴルは、秘史・ラシードの『集史』・聖武親征録と他の遊牧勢に比べれば、史料は格段に豊富です。
ただいずれも国史と言い得るものであり、ゆえに、その伝えるのも自ずと国の重要人物となります。
ノヤンでいえば、千人隊長以上がほとんどです。
例えば、日本の江戸幕府でいえば、これは大名に当たります。
そして上記の直属軍というのは、(江戸幕府の)旗本や御家人に当たります。
例えば現代であれ、もし枚数に限りがある条件で、江戸期の歴史をつづる場合、仮に旗本や御家人の名や動きがまったく伝えられなくとも、それをもってすぐに杜撰や拙劣とはならないと想います。
今回の話で少しややこしいのは、千人隊長や近衛隊の隊長も当然チンギズの旗下にあり、これらもまた直属の軍との表現を用いても誤りではないことです。
ここで扱う『直属軍』とはあくまで『千人隊長でないゆえに史料上には現れない直属軍』との意味です。
この直属軍の百人隊長には、どういった者たちがなったのでしょうか。
その候補を捜すのは、それほど難しくありません。
前話で述べた如く、チンギスには、5人の各々のオルドの主以外にも、多くの后妃がおったことが知られています。
当然この者たちにも子がおったはずです。
オルドの主の子には、チンギスは千人隊長の上に立つを許しました。
前話の後半で述べた如く3人が幼くして亡くなっておるので、ボルテの4子とクランの一子の五人のみです。
それでは、それ以外の子はどうなったか。
千人隊長として伝えられておる者は一人もおりません。
これらの者がチンギスに直属する百人隊長・十人隊長となったであろうことは、容易に想像がつくことです。
またこの(史料上に見えぬ)直属軍については、傍証というか、存在を推測させる事柄があります。
モンゴルが勝った際に、その捕虜とした軍兵を分配することは知られています。
この分配の権限はカンにあります。
参戦したノヤンたちに、その勲功に応じて恩賞として分け与えられるのですが、当然自らも取ったはずです。
これが直属軍の兵となったことは、疑い得ません。
また率先臣従した者たちも、そもそも百人程度の軍勢なら、そのまま百人隊長を授けられた可能性が高いと考えられます。
モンゴルの軍制では、各隊は並列にチンギスに直属し、相互に臣従の関係はありません。
万人隊長であれ、千人隊長であれ、チンギスに直属します。
これは百人隊長であれ、十人隊長であれ同じです。
無論、チンギスに臣従する前に、既に千人隊長の配下であった者は、そのままです。
第2部の第7話で見たウイグルの哈刺某の如く、特にチンギスの命がある場合を除いては、チンギスに直属することはありません。
ただ、この場合でさえ、哈刺某はウイグルのイディクートにも属しており、いわば両属します。
この者の息子が後にダルガチの任命と共に、都督(唐に由来するウイグルの官称)を授かることから、それは明らかです(元史の『哈刺亦哈赤北魯伝』に拠る)。
率先臣従するならば、それ以前の臣従関係は安堵され、尊重されるのです。
ですから、ここで議論しているのは、あくまで個別にチンギスに臣従した勢力についての取り扱いです。
例えば、十人で臣従すれば、その内の一人が十人隊長となり、チンギスに直属します。
そして軍征において、チンギスの軍令が出て、初めてそこに王子や万人隊長・千人隊長との臣従の関係が生じるのです。
第1部の第4章の第4話『この時のモンゴル3(カンとムカリ、そして耶律阿海)』で、ムカリに属する駙馬や千人隊長たちを述べましたが、これは対金国戦が継続されておる間だけのことです。
原則としては、戦が終われば、その各々は再び大カンに直属します。
(王族に授けた千人隊長(ジョチ家のクナンや下記に述べるグチュ)は別扱いであり、これは恒常的なものです。現代でいえば、相続財産の生前贈与に近いものです。)
更に傍証を求めるならば、チンギス家――母のホエルンや正妻のボルテにより、育て上げられた者たちがおります。
これらは、いずれも幼くして戦場で拾われた者や、臣下より預かった者です。
本作でも出て来たシギ・クトクやチャガン、あるいはグチュ、ボロウル、ココチュ、そして四狗のジェルメなどがそうです。
この者たち自身は、当然自前の軍というのを持っておりません。
その最初に率いたのが、このチンギス直属の軍であろうことは、疑いを得ないところです。
というより、むしろこの者たちは、このチンギスの直属の軍を率いるためにこそ、その家中にて育て上げられたと見るべきでしょう。
(もちろん、この者たちも、後に至っては、自ら挙げる勲功により、自兵を得たのもまた確実ですが。)
例えば、その内の一人のグチュが、母のホエルンと末弟オッチギンに授けられたのも、このあたりの事情をほのめかしておると想えます。
ホエルンは後半生、少なくともその晩年にはオッチギンと共におりました。
モンゴルでは末子が父母と共におるという慣習があり、それに従ったのです。
ホエルンがこのグチュを育て上げたとすれば、自らの将として欲しいと、主張する権利は有りましょう。
そしてその死に際し、オッチギンに譲られたと考えることはできるでしょう。
あるいはそもそもオッチギンの将として授けるように、ホエルンがチンギスに要求したのかもしれません。
我が育て上げた義子たちを、チンギスが独り占めするものではないとして。
これを伝える秘史10巻の243節では、二人のうちのどちらに与えたのか明記されておりません(注1)。
そもそも万人隊長・千人隊長自身が動員できる軍は、実数の万や千に劣るもの、場合によっては大きく劣るものと、私は考えています。
そして軍中に占める遊牧勢の割合が高く、また戦が引き続いたチンギスの時期は、特にその傾向が高かったろうと想います。
そして軍征に際しては、チンギスはこの(史料に見えぬ)直属軍を授けて、増員したものと考えています。
それが実数の千や万にどこまで近付いたかというのは、まさに、「その時の現実に動員できる兵の数」や「その軍征にどれだけの兵数が必要と考えたか」によって決まったとしか言い得ません。
これは後代の元朝の時の史料ですが、人口の多い農耕地を加えたこの時でさえ、実数に満ちておりません。
元史の百官7の諸路の万戸府の条の関係する部分のみ以下に訳します。
(路は元朝の地方の最大の行政単位です。現代の省に相当します)
『上万戸府は7千以上、中万戸府は5千以上、下千戸府は3千以上の軍をつかさどる。
上千戸所は7百以上、中千戸所は5百以上、下千戸所は3百以上の軍をつかさどる。』
元史の万戸府とは万人隊、千戸所とは千人隊のことです。
元朝は、これを兵員の数によって、上・中・下に分けたのです。
他方で、千人隊長というのは、このチンギス・カンの血を引く百人隊長たちを、軍征時に限るとはいえ、率いることを許されたのですから、特別な存在と言えましょう。
秘史を一度でも読んだことがある方ならば、この千人隊長の栄誉をたたえる詩情を感じられたのではないでしょうか。
またこの直属軍を授けるからこそ、軍征で得た捕虜や略奪品の分配権をチンギスが有するを得たと、私は考えています。
サイラームはオトラルに近い。
隊商でさえ四、五日、早馬なら一日で到達できる距離である。
しかもおあつらえ向きにこの二つの地をアリス川が結んでおる。(注2)
つまり進軍して下さいと言わんばかりの地であった。
チンギスはあえてそこで軍を止めた。
大軍による圧力をかけて相手の動きを誘うと共に、ホラズム軍に関する情報収集に余念がなかった。
それと共に敵の進軍に備えよと全軍に命じた。
敵の急襲を警戒して、
スベエテイには万人隊を授け前衛として先行展開させており、
その後方に第二軍としてジェベに万人隊を授け布陣させておった。
右翼にはイェスンゲ万人隊を付して、ジョチ率いる2万人隊と併せ、総計3万人隊が、
左翼にはチャアダイとオゴデイが率いる総計4万人隊が、
共に大きく広がって展開しておった。
また後軍として、駙馬のトクチャルに万人隊を授け、背後を固めさせた。
各隊は上記で述べたチンギス直属軍を付して、増強されておった。
そしてその中央にはチンギスの大中軍が布陣した。
当初の計画通り、この地での決戦を前提としたものであった。
注1 秘史の訳書の詳細は参考文献に記しています。
注2 サイラームはタシュケントの北にあるシムケント近郊、その約14キロ東南東(カザフスタン国内)にあります。
グーグルマップではsayramで検索できます。
オトラルは、かつてはアリス川とシルダリヤの合流地の高台にありました。
現在ではシルダリヤの北岸側に少し(約10キロほど)離れて、前記シムケントの西北西約120キロにあります。
グーグルマップではオトラルトベで検索できます(トベは高台の意味です)。
衛星写真で見えるいびつな台形が、オトラルの遺跡です。
グーグルマップを見ますと、この両者の近くを流れる川が見えますので、これがアリス川と想われます。
(途中で中間ほどにあるアルスという地の近くを通ります)
またオトラルをウィキペディアで検索すると、かなりネタバレしますので、控えられた方が本作をより楽しめるとは想います。
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