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第3部 仇(あだ)

18:オトラル戦15:カンクリ騎馬軍の出撃、再び3

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人物紹介
ホラズム側
イナルチュク・カン:オトラルの城主。カンクリ勢。

ソクメズ:イナルチュクの側近にして百人隊長。カンクリ勢

トガン:同上

ブーザール:同上

カラチャ:スルターンにより援軍として派遣されたマムルーク軍万人隊の指揮官。
人物紹介終了



 敵の圧力が不意にゆるんだ。
 しばらくして、ラッパの音が聞こえた。
 自軍のものではなかった。
 敵は我先にと退却を始める。
 ソクメズにも、その隊にも、それを追う気力はなかった。
 ただ、それを追う自軍は見えた。

 やがて一人の男が、ソクメズのかたわらに騎馬にて寄せる。

「来ていただけましたか。」

「遅れた。済まぬ。」

 イナルチュクであった。
 ソクメズは、そこで体力の限界に達したのか、あるいはこれまでの緊張が解けたゆえか、己が体が傾くのを感じた。
 幸いだったのは、イナルチュクの方に倒れたことだった。
 支えられて、何とか落馬をまぬがれた。
 気力を振り絞り、やっとのことで態勢を立て直す。

「すみませぬ。情けないところを見せまして。年のせいで、どうも踏ん張りがききませぬ。」

「いや、良くやった。そなたの隊の動きがなかったら、我が軍は間違いなく全滅しておった。」



 ホラズム側の被害は大きかった。
 ブーザール隊は8割ほどを失い、生き残った者も多く負傷した。
 ブーザール本人も命は永らえたが、矢傷を負っておった。

 ソクメズ隊も7割を失った。
 かなりの多勢を相手にしたゆえであるは明らかであった。

 トガン隊は4割であった。
 ここでもトガンは勇猛に戦い、ブーザール隊の全滅を防ぎ、かつ、少なくない者の命を救った。



 そのトガンであるが、その心は、それほどれしいものではなかった。
 その端正な顔は暗澹あんたんたる想いにおおわれておった。

(あの将は何なのだ)

 その将は、まさに戦場を支配しておった。
 救援に駆けつけたときは、残ったソクメズの隊も合わせれば、こちらの方が数は上回っておったはず。
 にもかかわらず、戦況を五分にまで持ち返すことができなかった。
 その将は、自軍の統制を保ち、幾度もこちらの部隊に突撃をかけた。
 その度に、こちらは散り散りとなり、数の優勢をいかせなかった。

 幸いであったのは、敵の追撃の軍が遅れたこと。
 あるいは、ブーザール隊を襲った部隊が速すぎたのか。
 その突撃のすさまじさは、戦の後、ソクメズ殿に教えてもらった。
 いずれにしろ、追撃軍との挟撃を受ける前に、カラチャ殿の援軍が現れ、救われた格好であった。

 乱れ動く自軍。
 対して、まるで一つの意思を持つ如くの敵軍。
 ――それを率いる黒ずくめの戦装束の将
 ――そのそばを片時も離れぬ黒のトク。
 それらがトガンの脳裏をいつまで経っても去らなかったのである。



 イナルチュクは先に捕虜にしたモンゴルの隊長を、営倉から連れて来させた。

「黒のトクを持つは誰であったか。」

「あれは最も勇猛なる将に託されるものです。このオトラル攻めにては、カンの弟カサルの子であるイェスンゲに託されました。」

 イナルチュクは、相手の誇らしげな言い様がかんさわり、想わず、心中にこの者に対する殺意がき上がる。
 しかしそれではあの糧食倉庫に回した者と同じだと想い至り、それを抑えつけた。
 情報は有用であった。
 ゆえにこの者は重要であった。
 それは己がこの者に対して生殺与奪せいさつよだつの権を握っておることとは、全く別の話のはずであった。

 あの者は、こう我に言った。
 こんなに口の軽い者は殺してしまうべきですと。
 一面、あの者は真実を述べておる。
 ただ結論は異なる。
『こんなに口の軽い者』ほど、我らにとって有用な者はなく、ゆえに生かすべきと。
 我は確かにあの時、そう考えたはずであった。

 そもそも黒のトクについて話を聞くのは2度目であった。
 恐らく、その時も名を聞いたのだが、
 ――聞きれぬモンゴルの名は憶えづらく、
 ――ただ、それが奴らの吉数たる9に由来することのみが頭の中にあった。
 そのゆえに、再び問うたのであったが。
 恐らく、捕虜は最初に聞いた時も同じ言い様をしたのだろうが、その時殺意を抱いた記憶はなかった。

 イナルチュクは、揺らぐ戦況下、己がどこまで平静を保っておるかの自信はなかった。
 ただ、このモンゴル隊長を殺さぬことを以て、己が平静のあかしとすべきとして、自戒の念を深くした。
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