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第3部 仇(あだ)
40:閑話(巨大な地方軍・安禄山とキタイ)地図付き
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下手な地図を追加しました。
安禄山は平盧・范陽・河東の3節度使を兼ねます。
地図を見て分かるように、安禄山は唐の北東辺の広大な地(黄河が南流した後の東側のほぼ全ての国境線)の防衛をほぼ一人で、になっておることになります。
北宋がその末期に何とか取り戻そうとする燕雲16州より広大な地域です。
唐代の節度使は、軍事のみならず、政治・財政に渡って大きな権限を与えられたとされます。 (2021.11.12追記)
前書きです。
前話に書いたように、最初は可敦(カトン)城の話を書こうと想い、キタイの歴史を調べていたら、安禄山が視界に入り、ついつい面白くて、想わずずるずると沼に引き込まれてしまいました。
ブハーラー出身のソグド人は安姓を名乗るから、本編の流れとまったく関係ないわけでもなし、それにみんな安禄山大好きだろうし、まあ、いいかという訳で、今回はそういう話です。
前書き終わりです。
大陸では、君主のお膝元におる巨大な中央軍というのが、軍編成の基本をなす。
反乱を恐れるがゆえである。
例えば、本編でモンゴル軍が前例のない大軍でホラズムに攻め込むを得たのは、チンギス自ら率いる親征のゆえである。
また文治国家として名高い宋の都開封にはやはり膨大な軍勢が常駐しておった。
極めつけはこれであろう。
隋の煬帝の大業8年(612)の高句麗遠征はその数113万、公称200万という。これに食糧や物資を運ぶ部隊も加えれば、合計300万を越えた。(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』57貢、講談社、2005年)。
他方で、巨大な地方軍というのは、ありえないとなる。
ありえないとは言いすぎであろうが、望ましくないというのは妥当なところであろう。
その好例がある。
唐代の安禄山である。
ところで、この安禄山、私自身、どこかで安姓なのだから、その祖先はブハーラー出身のソグド人なのだと書いたが。
前掲書97貢によれば、実父は康氏であり、後に母が安延偃(あんえんえん)に嫁いだと。
康姓とすれば、その祖はサマルカンド出身となる。
お詫びも兼ねて『旧唐書』にある安禄山の部分を訳してみよう。
「安禄山は営州の柳城[遼寧省、朝陽市]の雑種[=混血]の胡人[=ソグド人]なり。
母の阿史徳氏は、また突厥の巫師[シャマン]であり、[神]卜を業とする。
[突厥のカガンは阿史那氏であるが、阿史徳氏はその姻族である。ゆえに突厥きっての名族といえる]
禄山は少くして孤となり[=父を亡くし]、母に随いて突厥中に在り。
将軍の安波至の兄の[安]延偃がその母を妻る。」
[ ]内はひとしずくの鯤による追記。
その安禄山は唐の北辺の防衛を託された節度使なのであるが、その相対するのが、キタイ勢であったのである。
キタイはシラムレン川やラオハ川流域を牧地とする。東流するシラムレン川に南からラオハ川が合流する。
モンゴル語でシラは黄色、ムレンは川。ちなみに黄河の方はモンゴル語でカラ[黒]・ムレンという。
ラオハ川はグーグルマップでは老哈河。
安禄山が拠点とする営州からすれば、まさに目と鼻の先である。
奇妙な言い方になるが、安禄山が強大な反乱軍を形成しえたのは、唐朝から見てそれを許容する事情があったということである。
つまり、その北におるキタイがそれだけ強大であり、脅威であったということである。
そして、キタイとしのぎを削る安禄山は、ついに一転して唐朝へと牙をむく。
前掲書100貢によれば、
755年、15万の兵が范陽(はんよう)を発し、洛陽を陥落させる。
范陽(幽州)とは、今の北京(キタイの燕京(南京)、金の中都、元の大都)であり、ここも安禄山の拠点の一つです。
安禄山は三地域の節度使を兼ねたので、その委ねられた地域というのは、かなり広域です。
・平盧節度使:キタイとの国境地帯でもあり最前線基地とも言い得る営州。
・范陽節度使:今の北京を中心とする幽州(営州の南にある)。燕と言った方が分かりやすいかもしれません。
・河東節度使:太原を中心とし、黄河の屈曲部(オルドス)の東にあるので、河東と呼ばれる地(幽州の西にある)。代北とも。雲州を含みます。
ところで、キタイにすれば、安禄山が反乱を起こしたのは、まさに願ったりかなったりであろう。
何せそれまでは、自らをはばむ如くにおった強大な地方軍閥――単純に軍勢と言っても良い――が一転、矛先を唐朝へと違える。
結局、この反乱は鎮圧されるも、これを契機に唐朝は衰亡へ向かうとされる。
とはいえ、もう一つの巨大勢力ウイグルがあった。
唐朝に対しては、まさに叛服常ならずというキタイであったが、
ウイグルに対しては、いつからかは分からぬが、臣従を明確にし、通婚するようになった。
更に839年、この巨大帝国が北方のキルギスの侵攻により、瓦解する。
後世の我々でさえ、なぜ、あれほどの大帝国がかくももろくに?と不思議に想う。
臣従しておるキタイ勢にすれば、まさに、アレッ?という奴であったろう。
という訳で邪魔者はいなくなった。
これからは我々キタイの天下よ・・・・・・という状況で、
そこで新たなライバル、第2の強大な地方軍閥、沙陀(さだ)の登場となる。
安禄山は平盧・范陽・河東の3節度使を兼ねます。
地図を見て分かるように、安禄山は唐の北東辺の広大な地(黄河が南流した後の東側のほぼ全ての国境線)の防衛をほぼ一人で、になっておることになります。
北宋がその末期に何とか取り戻そうとする燕雲16州より広大な地域です。
唐代の節度使は、軍事のみならず、政治・財政に渡って大きな権限を与えられたとされます。 (2021.11.12追記)
前書きです。
前話に書いたように、最初は可敦(カトン)城の話を書こうと想い、キタイの歴史を調べていたら、安禄山が視界に入り、ついつい面白くて、想わずずるずると沼に引き込まれてしまいました。
ブハーラー出身のソグド人は安姓を名乗るから、本編の流れとまったく関係ないわけでもなし、それにみんな安禄山大好きだろうし、まあ、いいかという訳で、今回はそういう話です。
前書き終わりです。
大陸では、君主のお膝元におる巨大な中央軍というのが、軍編成の基本をなす。
反乱を恐れるがゆえである。
例えば、本編でモンゴル軍が前例のない大軍でホラズムに攻め込むを得たのは、チンギス自ら率いる親征のゆえである。
また文治国家として名高い宋の都開封にはやはり膨大な軍勢が常駐しておった。
極めつけはこれであろう。
隋の煬帝の大業8年(612)の高句麗遠征はその数113万、公称200万という。これに食糧や物資を運ぶ部隊も加えれば、合計300万を越えた。(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』57貢、講談社、2005年)。
他方で、巨大な地方軍というのは、ありえないとなる。
ありえないとは言いすぎであろうが、望ましくないというのは妥当なところであろう。
その好例がある。
唐代の安禄山である。
ところで、この安禄山、私自身、どこかで安姓なのだから、その祖先はブハーラー出身のソグド人なのだと書いたが。
前掲書97貢によれば、実父は康氏であり、後に母が安延偃(あんえんえん)に嫁いだと。
康姓とすれば、その祖はサマルカンド出身となる。
お詫びも兼ねて『旧唐書』にある安禄山の部分を訳してみよう。
「安禄山は営州の柳城[遼寧省、朝陽市]の雑種[=混血]の胡人[=ソグド人]なり。
母の阿史徳氏は、また突厥の巫師[シャマン]であり、[神]卜を業とする。
[突厥のカガンは阿史那氏であるが、阿史徳氏はその姻族である。ゆえに突厥きっての名族といえる]
禄山は少くして孤となり[=父を亡くし]、母に随いて突厥中に在り。
将軍の安波至の兄の[安]延偃がその母を妻る。」
[ ]内はひとしずくの鯤による追記。
その安禄山は唐の北辺の防衛を託された節度使なのであるが、その相対するのが、キタイ勢であったのである。
キタイはシラムレン川やラオハ川流域を牧地とする。東流するシラムレン川に南からラオハ川が合流する。
モンゴル語でシラは黄色、ムレンは川。ちなみに黄河の方はモンゴル語でカラ[黒]・ムレンという。
ラオハ川はグーグルマップでは老哈河。
安禄山が拠点とする営州からすれば、まさに目と鼻の先である。
奇妙な言い方になるが、安禄山が強大な反乱軍を形成しえたのは、唐朝から見てそれを許容する事情があったということである。
つまり、その北におるキタイがそれだけ強大であり、脅威であったということである。
そして、キタイとしのぎを削る安禄山は、ついに一転して唐朝へと牙をむく。
前掲書100貢によれば、
755年、15万の兵が范陽(はんよう)を発し、洛陽を陥落させる。
范陽(幽州)とは、今の北京(キタイの燕京(南京)、金の中都、元の大都)であり、ここも安禄山の拠点の一つです。
安禄山は三地域の節度使を兼ねたので、その委ねられた地域というのは、かなり広域です。
・平盧節度使:キタイとの国境地帯でもあり最前線基地とも言い得る営州。
・范陽節度使:今の北京を中心とする幽州(営州の南にある)。燕と言った方が分かりやすいかもしれません。
・河東節度使:太原を中心とし、黄河の屈曲部(オルドス)の東にあるので、河東と呼ばれる地(幽州の西にある)。代北とも。雲州を含みます。
ところで、キタイにすれば、安禄山が反乱を起こしたのは、まさに願ったりかなったりであろう。
何せそれまでは、自らをはばむ如くにおった強大な地方軍閥――単純に軍勢と言っても良い――が一転、矛先を唐朝へと違える。
結局、この反乱は鎮圧されるも、これを契機に唐朝は衰亡へ向かうとされる。
とはいえ、もう一つの巨大勢力ウイグルがあった。
唐朝に対しては、まさに叛服常ならずというキタイであったが、
ウイグルに対しては、いつからかは分からぬが、臣従を明確にし、通婚するようになった。
更に839年、この巨大帝国が北方のキルギスの侵攻により、瓦解する。
後世の我々でさえ、なぜ、あれほどの大帝国がかくももろくに?と不思議に想う。
臣従しておるキタイ勢にすれば、まさに、アレッ?という奴であったろう。
という訳で邪魔者はいなくなった。
これからは我々キタイの天下よ・・・・・・という状況で、
そこで新たなライバル、第2の強大な地方軍閥、沙陀(さだ)の登場となる。
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