上 下
83 / 206
第3部 仇(あだ)

41:閑話2(話は安禄山の続きであったり、カルルクであったり、全回収の試みであったりもする)地図付き

しおりを挟む
前書きです

 先話に付け足そうと想い、阿布思の記事を訳していました。
 ただ、ちょうどこのころ漠北で色んなことが起きていて、この記事と絡めて考えると面白く、
 また一応本編でもチンギス軍にはカルルクのアルスラーン・カンとスクナーク・テギン及びウイグルのイディクートも参加しており(第2部7話&8話)、
 いわば、ここはその祖先を語ることにもなり、
 再び、まあ、いいかという訳で、今回はそういう話です。

前書き終わりです



 前話にて安禄山を巨大な地方軍として紹介した。
 そして、その巨大となった因として、対抗するキタイの軍勢の強大さが考えられるとも。
 ただ、唐朝の羈縻政策
――半ば自立的な軍勢を自国へ組み込み、辺境の防衛を委ねること
――これは、何も唐朝に限ったことではなく、
――もちろん、細かい差異を言い立てれば、別だが、
――歴史時代を通じて多くの王朝にて採用される合理的な軍事・防衛戦略に他ならない。
 ただ安禄山の反乱という形でこれが破綻しておることが明るみに出たのは、この時、玄宗の唐朝に欠けたるものがあったからである。
 巨大な中央軍である。
 辺境を託された周辺勢力・地方軍閥にとって、その相対する敵が弱小なら、この不在は問題とならない。
 ただ、そうでないなら、矢面に立つのは、常に自軍であり、いつまで経っても中央から大軍が来ないなら、自軍のひたすらな損耗ということになる。
 しかも、その損耗が人の死や負傷などとなるなら、おいおい、冗談ではないよとなるだろう。
 やってらんないよという訳である。
 あくまで、この防衛戦略は最終的に巨大な中央軍が来てくれるからこそ、それまではガンバルよということであったはずである。
 ゆえにこそ、これを発することのできるその国――ここでは唐朝――に臣従しているのである。



 次に紹介する阿布思も、史書はその敵前逃亡の理由を安禄山になすりつけるが、強大化したキタイと当たって自勢力が損なわれるのを、嫌ったは明らかであろう。
 安禄山にしろ、阿布思にしろ、地方軍閥のあるじとして、自勢力の者たちを守らねばならぬし、唐朝に使い捨てにされるのは御免だよという訳である。

『新唐書』の安禄山伝を訳すと
「安禄山は志を得ず、乃ち(=ゆえに)、ことごとくの兵20万を号して、契丹を討ち、以てむくいる[を願い出る]
 帝[=玄宗]は聞き、朔方節度使の阿布思に詔するに、師[=軍]を以て、[安禄山に]会せと。
 阿布思は九姓の首領なり。
 偉なる[容]貌にして、権[謀策]略は多し。
 開元の初め[713年]、黙啜(もくてつ)[突厥第2帝国の第2代カパガン・カガン(在位691~716)]のためにくるしむところとなり、[唐に]内属し、帝はこれを寵[愛]する。[だだし、資治通鑑によれば、唐への内属は天宝元年(742年)である]
 安禄山はもとよりその才を忌み、不相下[? 互いにへりくだらず?]、これ[=阿布思]を襲い取るを欲す。
 ゆえにうわべにては[阿布思が己を]自ずから助けるを請う。
 阿布思はおそれ、叛して、漠北へ転じて入る。
 [ために、]安禄山は進まず、すなわち軍をかえす(=退却する)。
 阿布思は回紇(ウイグル)の[劫]掠するところに会い、葛邏祿(カルルク)へはしる[=逃げる]。
 安禄山はその部落[=阿布思の敗残兵]を厚く募りて、これを[投]降させる。
 葛邏祿(カルルク)は[唐朝を]懼れて、阿布思をらえて、これを北庭[都護府=ビシュバリク]に送り、これを京師[=長安。ここは唐朝の意]に献じた。
 安禄山は既に阿布思の[投降した]衆を得れば、すなわち、[軍]兵は天下に雄たり、いよいよ偃[=おごり高ぶり]肆(ほしいまま)にする。」
 [補足すると、阿布思の部衆に対する安禄山の対応にまったく非はないのであるが、後に反乱を起こすので、悪し様にかかれている]
 []はひとしずくの鯤による補足

 この原文を載せる吉田[2010、114から115貢]は、阿布思は突厥第2帝国の西葉護であったが、742(天宝元)年に唐朝に帰順したとし、また安禄山が契丹討伐を願い出たのは752年とする。

 第2部9話『モンゴル進軍6 アルマリク→フス・オルダ~』で玄奘さんがスイアーブに訪ねた突厥のカガンは、突厥第一帝国の分裂後の西突厥。
 結局この東西の突厥は滅亡し、その後に再興されたのがこの突厥第2帝国。
 北庭都護府については、第2部6話『モンゴル進軍3 どこでアルタイを越えたか?中編)』で少し論じた。
 これは702年に設置されており、約50年後のこの時も唐の前線基地として機能しておったことが分かる。



 ところで、漠北では744年に突厥からウイグルへの主役交代劇という大事件が起こるのですが、これにはバスミルとカルルクがからみ、多少の紆余曲折がある。
 これを森安[2015の64貢及び255貢]及び川崎 浩孝[1993]によりまとめてみる。
 ①742年、バスミル、ウイグル、カルルクの連合軍が突厥第2帝国の骨咄葉護カガンを敗走せしめ、バスミルの部酋の阿史那施をカガンに立てた。
 他方、突厥の遺衆は新たに独自の烏蘇米施カガンを立てた。
 ②743~4年、バスミルとウイグルとカルルクの連合軍が突厥の烏蘇米施カガンを殺し、バスミルの名で唐の首都の長安へその首を送った。
 ③744年ウイグルとカルルクは連合してバスミルを破り、ウイグルの族長の骨力裴羅(クトルク・ボイラ)がキョル・ビルゲ・カガンとして即位した。
 ④その後カルルクはウイグルと不和になり、カルルクは三派に別れた。
 a.ウチュケン地方に拠する一派はウイグルに臣従し、
 b.一派はアルタイ山脈及び北庭方面に残り、
 c.一派は746年に十姓(西突厥)の故地であるセミレチエ(天山山脈の北麓でバルハシ湖の南。スイアーブやタラス)に去った。
 ⑤751年唐とアッバース朝はタラス川にて会戦する。セミレチエに去ったカルルク勢(上記④c)は最初唐側につくも、途中で寝返り、ゆえに唐は敗北す。
 ⑥752年11月18日、ウイグルは、(アルタイ山脈西麓を北流する)カラ・イルティッシュ川を越えて、アルタイ山脈及び北庭方面に残るカルルク勢(上記④b)を破る。
(上流部からザイサン湖までのイルティッシュ川を、特にカラ・イルティッシュ川と呼びます)
 ⑦753年9月、カルルクの葉護頓毗伽が阿布思を生け捕りにしたので、唐朝はこの者を金山王に封じる。
 ⑧754年の8~10月に、カルルク勢は西へと去った。
(注 上記年月はウイグルの暦と漢籍の暦を区別せずに記している。
 ゆえに月の方は一月ほど互いにずれる可能性がある。
 おおよその季節の目安にしていただければと、想います)

 これを見ると、阿布思の唐への帰属が恐らくは、3連合による突厥カガンの敗走を直接のきっかけとすることが分かる。



 また、興味深いことに、この阿布思が漠北へ赴いたのは⑤と⑦の間の時期である。
 それでは、阿布思がどういうルートで漠北へ赴いたかを考えてみたい。
 そもそも阿布思は朔方節度使であるから、(営州からは)遠い霊武(霊州)におる。
 考えられるルートは大きく分けて2案。
 まず、案A

 これはできるだけ史料に忠実に再現したルートである。
 ウイグルに劫掠された後、その引き返した軍勢を投降させておるのだから、阿布思はある程度までは、安禄山のおる近くまで行ったのだろう。
 ただ、営州まで進んでは、そこから漠北へ転じると、キタイ勢の領域を突っ切る必要があるので、これは無いであろう。
 恐らく幽州(現在の北京)付近まで進み、そこで転じて、張家口(グーグルマップも同上)の方から漠北に入ったのではないか。
 そしてできるだけ川沿いを進みたかろうから、まずはケルレン川流域を目指し、そこからウイグルのオルドに至らんとしたと想われる。
 ここで史料と矛盾するとまでは行かないまでも、疑問が生じる。
 上記⑥に記した如く、ウイグルは752年の11月には、既にアルタイ西麓にてカルルクを攻撃しておる。
 ゆえに、この時点では、カルルクはアルタイ西麓に追いやられ、東麓側はウイグル側の支配下にあると見て良い。
 この状況にて、ウイグルの劫掠を受けてなおカルルクへ至るには、相当に困難であると言って良かろう。
 隊商や旅人に身をやつして少人数でということなら、可能であろうとも想うが。
 そもそも、軍勢を率いて漠北に赴いておるのだから、隠れてカルルクに赴こうとしておったのではない。
『ウイグルに掠された』とは、ウイグルに帰付を願い出て、拒まれて、その上で劫掠されたのだろう。
 そのゆえに、かなり無防備な状況におるところを、しかもウイグルに準備する時を与えることになるので、大部隊で襲われた可能性も高く、損害も大きいと想われる。
 それがどこかというのは分からぬが、そこからカルルクの方へと逃げるとすれば、西~西南西へと向かわなければならない。
 この時アルタイ側の東麓がウイグルの支配下にあるとすれば、劫掠を受けた部隊で、なおウイグル支配下の地を、しかも長距離突っ切らねばならない。
(ある者たちは安禄山の伝にある如く、引き返したのだろうが、ある者たちは、そのまま阿布思に付き従ったと想われる。)

 ある程度、合理的な解を見出そうとすれば、
 ・阿布思が漠北へ赴いたのは752年の11月以前であり、
 ・この時は、カルルクがまだアルタイ山脈の東方にも、ある程度勢力を保っておった
 という状況を推定する必要がある。
 そしてその後の展開として、
 ・(阿布思の軍勢を加えるも?)カルルクは敗れ、アルタイ東麓を失う。
 ・そして上記⑥、⑦へと至る。
 そもそも突厥を倒すのに3連合の軍勢が必要であり、次にバスミルを倒すのにウイグル・カルルクの連合が必要であったことを踏まえれば、
 最終的な結末――ウイグルがモンゴル高原のあるじとなること――から想われるほど、軍事的にウイグルが圧倒していなかったのではないか、と想われる。
 実際、バスミルの君長がカガンに推戴されたことを想えば、バスミルの軍勢が最大であったと想われる。
 バスミルを滅ぼした後、ウイグルの君長がカガンになったゆえ、軍事的にウイグルがカルルクを上回ったのも確かであろう。
 実際、最終的にカルルクを追い払ったのだから、そうであったのだろう。
 しかし746年から754年まで8年かかったということは、やはり圧倒するほどの力の差はなかったと想われる。
 また、文面が限られる碑面に、つらつらとカルルクのことを書くのは、やはり書くに値する相手、つまり強敵であったからであろう。
 だから案Aというのも、ありえぬという訳ではない。

 次にB案

 もう一つは玄宗からの詔を受けると、営州には向かわず、そのまま漠北、しかも直接カルルクのおるアルタイ西方に赴いたとみなす場合である。
 どのみち、逃亡する気なら、という訳である。
 これなら、ウイグルの攻撃も、阿布思がカルルクへ入ろうとしておるのを察した辺境1部隊の攻撃に過ぎず、またカルルクの領域も近く、十分逃げ込める。
 この場合、引き返した敗残兵は、むしろ安禄山の徳望を慕って自ら遠路赴いたということになる。
 反乱者である以上、その者を慕って軍勢が集うなどあってはならぬので、史料がそう書かないというのも、首肯しうるところ。
 個人的にはB案の方が現実的と想われる。

 いずれがというのを決めるには、正直、もう一つ史料が欲しいところである。



 ところで、上記のカルルクの如くの遊牧勢が西へ逃げるのはいつものことであるが、唐が北庭へ軍事拠点を置いていることで、新たな要素が加わっておると見て良い。
 つまりカルルクとすれば、うまく唐朝と連合しうれば、自らより優勢なウイグルに対抗しうるのではと、期待したと想われる。
 実際、カルルクの唐朝への朝貢は752年に3度、753年に2度と集中している(川崎 浩孝[1993]108貢)。
 また、阿布思がカルルクに逃げ込んでから、これを唐朝に差し出すのに少し時がかかっている。
 つまり阿布思を差し出しても唐朝の協力が欲しい、何らかの軍事協力なり仲裁なりを希望する想いがあったのではないか。
 この時カルルクには滅ぼした旧突厥や旧バスミルの軍勢の一部も帰付しておったと想われる。
 そのような状況で、帰付者を差し出すならば、他の帰付した勢力――特に旧突厥系――には動揺が走ったろうし、新たに帰付を募るにも差し障りがあろう。
 カルルクが追い込まれて行く様は、こうしたところからも、うかがわれるのかもしれない。

 阿布思がウイグルに帰付を願い出た場合ですが、
 ウイグルにすれば、唐朝の介入など望むはずもなく、ゆえにそもそも(唐朝にとっての)反乱者たる阿布思を受け入れるはずもないとなろう。

 そして阿布思にすれば、ウイグルとカルルクが激しく対立しておる状況なら、いずれかは己を入れてくれる、軍事力として必要とするはずであろう、との想いがあったのではないか。
 その結末から見ると、一見無謀とも想える阿布思の行動にも、その根拠があったのではと想えます。

 唐朝にすれば、うまくウイグルとカルルクの対立を利用して、かつて突厥を臣従させた如くへと持って行きたいところであろうが、肝腎の中央軍がおらねば、まさに、それは望み得ぬことであったろう。
 唐朝が介入するを得ぬままに、ウイグルとカルルクの決着が付いた上記⑧の後のこと。
 前話で述べた如く755年に安禄山の反乱が起きる。
 反乱軍は洛陽を陥れ、玄宗は長安を棄て四川の成都へ逃げるを強いられる。
 ならば、唐朝にとっては、まさにそれどころではないとなったのである。



 川崎 浩孝[1993]98貢にタラスの会戦を伝える『資治通鑑』の原文が載る。知りたい人もいるだろうから、訳しておこう。
『[高]仙芝[唐軍の総指揮官]はこれを聞き、蕃・漢の3万の衆[よりなる軍]をひきいて、大食[アラブ人、ここではアッバース朝を指す]を撃つ[べく]、深く入ること700余里。
 恆羅斯 [怛羅斯(タラス)の誤記であろう]城に至りて、大食[軍]と[遭]遇し、相持すこと[=両軍相譲らぬこと]5日。
 葛邏祿(カルルク)の部衆が叛し、大食[軍]とともに唐軍を夾攻し、[唐軍の]士卒が死亡するはことごとくであり、余すところは[=生き残ったのは]、わずかに数千人」
 []はひとしずくの鯤による補足。
 大食というのは、そもそもアラブ人を指すペルシア語タージークの語が漢地に入り、音写されたもの。
 後にトルコ人にもこの語が入り、そこではタージークの語でペルシア人を呼ぶようになる。
 これがまたペルシア語に入ってというややこしい展開はあったりするが。
 実際ペルシア人の歴史家ジュワイニーはこの語を定住ペルシア人の意味で用いている。



 また、上記の⑥の記事を伝えるシネウス碑文は、カラ・イルティッシュ川を渡るときに筏を使ってとしている(川崎 浩孝[1993]105貢)。
 これはずい分と下流、つまり北の方で渡河したことを示す。
 西征に従軍した耶律楚材も、またおよそ2年後に同じ道を通ったと考えられている長春も筏を用いたとは伝えていない。
 アルタイ山脈を越えたところが、チンギスの西征軍と異なる可能性が高い。
 どこでアルタイを越えたかは第2部の5~7話で論じ、また地図も付した。
 この時は、アルタイ越えは南の方の一カ所だけなのではと推論した。
 そうではなく、アルタイの北の方にも峠道があるということになる。
 ただ、こちらは河を筏で渡ることを強いられるようなルートということである。
 ならば、西征の遠征には用いなかっただろうと想われる。
 人ならいざ知らず、馬、しかもそれが莫大な数とくれば、それを筏に乗せて運ぶのはかなりの手間と考えられるゆえに。
 ウイグルが北の方の峠を通ったのは、やはり唐朝の干渉を嫌ったということで説明が付くのかも、とも想う。

 参考文献(年代順)
 ・川崎 浩孝『カルルク西遷年代考─シネウス・タリアト両碑文の再検討による─』1993年
(2021.11.11現在、大阪大学学術情報庫にてPDF形式にて公開されており、そこより入手)
 ・森部豊『ソグド人の東方活動と東ユーラシア世界の歴史的展開』関西大学出版部 2010年
 ・森安孝夫『東西ウイグルと中央ユーラシア』名古屋大学出版会 2015年



しおりを挟む

処理中です...