「人の心がない」と追放された公爵令嬢は、感情を情報として分析する元魔王でした。辺境で静かに暮らしたいだけなのに、氷の聖女と崇められています

黒崎隼人

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第01話「観測対象A:感情の飽和と追放という名の変数」

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 リディア・フォン・クラインフェルトは、目の前で繰り広げられる人間劇を、いつものように観測していた。

 場所は王宮の謁見(えっけん)の間。豪華絢爛(ごうかけんらん)なシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に反射している。その中央で、病に倒れた騎士の額に手をかざしているのは、聖女セレスティア。彼女の純白のドレスが、その神聖さを演出していた。

「おお、聖女様……光が、温かい光が……」

 騎士の口から漏れる感謝の言葉。それに応えるように、セレスティアは慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。周囲の貴族たちからは、感嘆のため息が漏れた。彼らの感情データが、リディアの知覚に流れ込んでくる。

『対象:セレスティア。感情パラメータ:高揚、自己陶酔。変動率:+3.4%。対象:周囲の貴族。感情パラメータ:賞賛、安堵、信仰。変動率:+5.1%。興味深いサンプルだ』

 リディアは、壁際に控えたまま、無感動にその光景を分析する。喜びも、悲しみも、怒りも、彼女にはただの数値と波形でしかない。それらは色も形も持たない、純粋な情報として処理される。彼女は公爵令嬢でありながら、聖女候補の一人でありながら、ただの一度も祈りで奇跡を起こしたことがなかった。聖女の証である聖痕も、その白い腕のどこにも浮かび上がってはいない。

 人々は彼女を「失敗作の聖女」、あるいは「氷の人形」と呼んだ。その評価は、リディアにとってはどうでもいいことだった。重要なのは、彼女の知的好奇心を満たす、質の良いデータが手に入るかどうか。その一点に尽きる。

「リディア・フォン・クラインフェルト!」

 鋭い声が、彼女の名を呼んだ。声の主は、玉座の前に立つ第一王子アルフレッド。その金色の髪は正義感に輝き、青い瞳はリディアを糾弾するように射抜いていた。

『対象:アルフレッド。感情パラメータ:義憤、失望、嫌悪。変動率:+8.9%。極めて高い数値。原因は、私か』

 リディアは静かに一礼する。その表情には、何の感情も浮かんでいない。それが、さらにアルフレッドの感情を逆撫ですることを、彼女はデータとして理解していた。

「君という女は! 人々が病に苦しみ、セレスティアが身を粉にして癒しの奇跡を行っているというのに、壁際でただ傍観しているだけとは! 君に人の心はないのか!」

 アルフレッドの言葉に、周囲の貴族たちが同意するように頷く。彼らの感情もまた、リディアへの非難へと同調していく。まるで、一つの巨大な感情のうねりだ。

 リディアの隣にいつの間にか寄り添っていたセレスティアが、儚げな表情でアルフレッドを見上げた。

「王子様、おやめください。リディア様は、きっとご自分のやり方で国のことを案じていらっしゃるのです。ただ……リディア様のあの冷たい瞳に見つめられると、私の心が少し、凍えてしまって……癒しの力が、弱まってしまうような気がするのです」

 か細く、しかし謁見の間にいる全員の耳に届く声。それは、計算され尽くした、極めて効果的な讒言(ざんげん)だった。

『ケーススタディ:他者の同情を誘うための最適な発言タイミングと内容。セレスティアの行動は、ほぼ満点のサンプルと言える。彼女の感情パラメータに『計算』『優越感』の微弱な波形を検出。面白い』

 アルフレッドは、セレスティアを庇うように一歩前に出た。彼の瞳に宿るリディアへの嫌悪は、今や確定的なものになっていた。

「聞いたか、リディア。君のその存在自体が、聖女の奇跡を阻害しているのだ。もはや、君を聖女候補として王宮に置いておくことはできない」

 宣告。
 それは、リディアにとっても予測済みのシナリオだった。王都の貴族社会は、感情のサンプルとしては非常に興味深いが、同時にノイズが多すぎる。見栄、嫉妬、陰謀、虚飾。それらが複雑に絡み合ったデータは、純粋な分析を行うには不向きだった。

「リディア・フォン・クラインフェルト。本日をもって、君から聖女候補の資格を剥奪する。そして、その冷酷な心で民を惑わすことのないよう、北の果て、アーデルベルト領への追放を命じる!」

 アーデルベルト領。不毛の地、忘れられた土地。事実上の流刑だ。
 周囲から、嘲笑と侮蔑の感情データが津波のように押し寄せる。しかし、リディアの心は湖面のように静かだった。彼女の内で稼働しているのは、常に冷静な分析モジュールだけだ。

『追放という変数。これにより、観測環境が大幅に変化する。王都の複雑系データから、辺境の単純系データへ。これは、私の研究にとって、むしろ有益な可能性が高い。最適解は、この命令を受諾すること』

 リディアは、表情一つ変えずに、ただ深く頭を下げた。

「……御意のままに」

 その淡々とした態度が、アルフレッドのプライドをさらに傷つけたと、リディアは受信したデータから判断した。だが、彼女がこれから行うべき行動に、何ら変化はない。

 馬車に揺られ、王都を離れる日。民衆は、追放される「失敗作の聖女」に石を投げつけた。硬い石が、馬車の壁に当たって乾いた音を立てる。彼らの感情は単純だ。『怒り』『侮蔑』『安堵』。リディアは、窓のカーテンの隙間からその光景を眺め、ただ静かにデータを収集していた。

『社会的制裁における、集団心理の形成プロセス。予測範囲内の反応。サンプルとして記録』

 彼女の正体は、かつてこの世界で「感情を喰らう魔族」と呼ばれた種族の女王。永い、永い眠りの末に魂は摩耗し、前世の記憶も力もほとんど失われた。ただ、感情をエネルギーとして捕食していた名残である「感情を情報として分析する」能力だけが、彼女の中に残っていた。

 人間は、不可解で、非効率で、矛盾に満ちた生き物だ。だからこそ、観察対象として尽きない興味をそそられる。

 王都の喧騒が遠ざかっていく。
 リディアの新たなサンプリングが、今、始まろうとしていた。北の果ての不毛の地で、一体どんな純粋なデータが採取できるのか。彼女の心――という名の分析器官は、微かな期待に満たされていた。
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