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第10話「観測者の許に訪れたエラーと新たな研究サンプル」
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リディアは、フェンリルと共に、森の中の静かな湖畔にいた。神狼の白銀の毛皮に背を預け、穏やかな水面を眺める。フェンリルの体温が、じんわりと伝わってくる。この解析不能な安らぎの時間は、今や彼女にとって欠かせないものとなっていた。
『思考モジュールの最適化時間。王都から受信する感情データは、ノイズが多すぎる。それに比べ、この森のデータは極めて安定しており、クリアだ』
彼女が静寂を楽しんでいると、不意に、遠方から複数の人間の感情データが近づいてくるのを感知した。その中の一つに、彼女は覚えがあった。
『……この波形は。対象:アルフレッド・フォン・ヴァイスハイト。感情パラメータ:焦燥、後悔、そして微量の希望。変動率が極めて高い。なぜ、彼がここに?』
予測不能な変数の出現。リディアの分析モジュールが、高速で回転を始める。
やがて、森の木々の間から、数人の騎馬の集団が現れた。その先頭にいたのは、旅の汚れで見る影もないが、確かに第一王子アルフレッドその人だった。
アルフレッドは、伝説の神狼と共にいるリディアの姿を見て、息を呑んだ。人々が恐れる神獣が、まるで忠実な番犬のように彼女に寄り添っている。その光景は、あまりにも幻想的で、彼女がもはや普通の人間ではないことを、雄弁に物語っていた。
フェンリルは、見知らぬ人間たちに気づくと、グルル、と低い唸り声を上げた。森の空気が、ぴんと張り詰める。
「フェンリル。大丈夫」
リディアが、そっと神狼の首筋を撫でると、フェンリルは唸り声を収め、再び彼女の隣に静かに伏せた。その様子を見て、アルフレッドは、ごくりと喉を鳴らした。
彼は、馬から降りると、リディアに向かって、ゆっくりと歩み寄った。そして、彼女から数歩離れた場所で、深く、深く、頭を下げた。
「リディア・フォン・クラインフェルト……君に、頼みがある」
その声は、王子のものとは思えないほど、弱々しく、切実だった。
「王都が、国が、滅びかけている。『虚無の呪い』に蝕まれ、人々は生きる気力を失っている。もはや、我々の手には負えない」
アルフレッドは、顔を上げ、リディアの瞳をまっすぐに見つめた。
「君の持つ、あの人の心を見透かすような力で、この国を救ってくれ。私が間違っていた。君を追放したことは、取り返しのつかない過ちだった。どうか、この通りだ」
彼は、その場で膝をつき、額を地面にこすりつけようとした。王国の第一王子が、追放した一人の少女に、土下座をしようとしている。同行した騎士たちが、慌てて止めようとするが、アルフレッドはそれを振り払った。
リディアは、その一連の行動と、彼から発せられる膨大な感情データを、ただ静かに観測していた。
『対象:アルフレッド。感情パラメータ:屈辱、後悔、罪悪感、懇願。過去のデータと比較し、パーソナリティに著しい変化が見られる。追放という私の不在が、彼にこれほどの学習効果をもたらしたのか。興味深いケーススタディだ』
彼女に、国を救う義理はない。アルフレッドを許すとか、許さないとか、そういった感情も存在しない。
ただ、彼の語る現象――「大規模な感情データの消失」――は、元・感情を喰らう魔族として、看過できない異常事態だった。
全ての生命は、何らかの感情を発している。それが、この世界の理だ。その感情が「無」になるなど、通常ではあり得ない。それは、システムの根幹を揺るがす、致命的なエラーだ。
『原因は何か。どのようなプロセスで、感情データは消失するのか。それは、可逆的な現象なのか、それとも不可逆的なのか』
リディアの知的好奇心が、強く刺激された。これは、最高の研究サンプルだ。辺境の地で集めた純粋なデータも興味深いが、これほど大規模で、不可解な現象を分析できる機会は、滅多にない。
リディアは、静かに立ち上がった。傍らでは、カイウスが、いつの間にか駆けつけ、心配そうに成り行きを見守っている。
「……面白い」
リディアの口から漏れたのは、その一言だった。
アルフレッドが、驚いて顔を上げる。
「その現象、分析してみましょう。私自身の、知的好奇心のために」
彼女の瞳には、憐れみも、使命感もなかった。ただ、未知なる謎を前にした、研究者のような、冷徹な輝きがあるだけだった。
アルフレッドは、その言葉の意味を完全には理解できなかったかもしれない。だが、彼女が協力を承諾してくれたことだけは、わかった。彼は、安堵と、そして言いようのない畏怖の念に、ただ打ち震えるしかなかった。
こうして、追放された聖女は、再び王都の地を踏むことになった。
復讐のためでも、名誉の回復のためでもない。
ただ、そこに、彼女の知的好奇心をくすぐる、最高の謎があったから。それだけの理由で。
『思考モジュールの最適化時間。王都から受信する感情データは、ノイズが多すぎる。それに比べ、この森のデータは極めて安定しており、クリアだ』
彼女が静寂を楽しんでいると、不意に、遠方から複数の人間の感情データが近づいてくるのを感知した。その中の一つに、彼女は覚えがあった。
『……この波形は。対象:アルフレッド・フォン・ヴァイスハイト。感情パラメータ:焦燥、後悔、そして微量の希望。変動率が極めて高い。なぜ、彼がここに?』
予測不能な変数の出現。リディアの分析モジュールが、高速で回転を始める。
やがて、森の木々の間から、数人の騎馬の集団が現れた。その先頭にいたのは、旅の汚れで見る影もないが、確かに第一王子アルフレッドその人だった。
アルフレッドは、伝説の神狼と共にいるリディアの姿を見て、息を呑んだ。人々が恐れる神獣が、まるで忠実な番犬のように彼女に寄り添っている。その光景は、あまりにも幻想的で、彼女がもはや普通の人間ではないことを、雄弁に物語っていた。
フェンリルは、見知らぬ人間たちに気づくと、グルル、と低い唸り声を上げた。森の空気が、ぴんと張り詰める。
「フェンリル。大丈夫」
リディアが、そっと神狼の首筋を撫でると、フェンリルは唸り声を収め、再び彼女の隣に静かに伏せた。その様子を見て、アルフレッドは、ごくりと喉を鳴らした。
彼は、馬から降りると、リディアに向かって、ゆっくりと歩み寄った。そして、彼女から数歩離れた場所で、深く、深く、頭を下げた。
「リディア・フォン・クラインフェルト……君に、頼みがある」
その声は、王子のものとは思えないほど、弱々しく、切実だった。
「王都が、国が、滅びかけている。『虚無の呪い』に蝕まれ、人々は生きる気力を失っている。もはや、我々の手には負えない」
アルフレッドは、顔を上げ、リディアの瞳をまっすぐに見つめた。
「君の持つ、あの人の心を見透かすような力で、この国を救ってくれ。私が間違っていた。君を追放したことは、取り返しのつかない過ちだった。どうか、この通りだ」
彼は、その場で膝をつき、額を地面にこすりつけようとした。王国の第一王子が、追放した一人の少女に、土下座をしようとしている。同行した騎士たちが、慌てて止めようとするが、アルフレッドはそれを振り払った。
リディアは、その一連の行動と、彼から発せられる膨大な感情データを、ただ静かに観測していた。
『対象:アルフレッド。感情パラメータ:屈辱、後悔、罪悪感、懇願。過去のデータと比較し、パーソナリティに著しい変化が見られる。追放という私の不在が、彼にこれほどの学習効果をもたらしたのか。興味深いケーススタディだ』
彼女に、国を救う義理はない。アルフレッドを許すとか、許さないとか、そういった感情も存在しない。
ただ、彼の語る現象――「大規模な感情データの消失」――は、元・感情を喰らう魔族として、看過できない異常事態だった。
全ての生命は、何らかの感情を発している。それが、この世界の理だ。その感情が「無」になるなど、通常ではあり得ない。それは、システムの根幹を揺るがす、致命的なエラーだ。
『原因は何か。どのようなプロセスで、感情データは消失するのか。それは、可逆的な現象なのか、それとも不可逆的なのか』
リディアの知的好奇心が、強く刺激された。これは、最高の研究サンプルだ。辺境の地で集めた純粋なデータも興味深いが、これほど大規模で、不可解な現象を分析できる機会は、滅多にない。
リディアは、静かに立ち上がった。傍らでは、カイウスが、いつの間にか駆けつけ、心配そうに成り行きを見守っている。
「……面白い」
リディアの口から漏れたのは、その一言だった。
アルフレッドが、驚いて顔を上げる。
「その現象、分析してみましょう。私自身の、知的好奇心のために」
彼女の瞳には、憐れみも、使命感もなかった。ただ、未知なる謎を前にした、研究者のような、冷徹な輝きがあるだけだった。
アルフレッドは、その言葉の意味を完全には理解できなかったかもしれない。だが、彼女が協力を承諾してくれたことだけは、わかった。彼は、安堵と、そして言いようのない畏怖の念に、ただ打ち震えるしかなかった。
こうして、追放された聖女は、再び王都の地を踏むことになった。
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