「人の心がない」と追放された公爵令嬢は、感情を情報として分析する元魔王でした。辺境で静かに暮らしたいだけなのに、氷の聖女と崇められています

黒崎隼人

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エピローグ「観測者は、温かいノイズの夢を見るか」

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 冬の足音が聞こえ始めた、ある日の夜。
 リディアは、自室の暖炉の前で、分厚い本を読んでいた。窓の外では、粉雪が静かに舞い始めている。

 部屋の扉が、控えめにノックされた。
「リディア様、入るよ」

 カイウスが、温かいハーブティーを淹れたポットと、二つのカップを手に、部屋に入ってきた。彼が、こうして夜にリディアの部屋を訪れるのは、いつものことだった。

「今日の報告書は、もう読みましたか?」

 リディアは、本から目を上げずに尋ねた。

「ああ、読んだよ。君の予測通り、新品種のジャガイモは大豊作だった。これで、今年の冬は、誰も飢えることなく越せそうだ。ありがとう、リディア」

 カイウスは、リディアの向かいの椅子に腰掛け、カップにハーブティーを注いだ。湯気と共に、爽やかな香りが立ち上る。

「予測ではなく、データに基づいた当然の帰結です。全てのパラメータを、最適化したのですから」

 リディアは、そう答えながら、ぱたんと本を閉じた。そして、カイウスが差し出したカップを受け取った。温かい陶器の感触が、指先に伝わる。

 しばらくの間、二人の間には、暖炉の薪がはぜる音だけが響いていた。それは、気まずい沈黙ではなく、互いを信頼しきった者たちの間にだけ流れる、穏やかな時間だった。

 やがて、リディアが、ぽつりと呟いた。

「カイウス様」

「ん?」

「最近、私の内部で、奇妙なノイズが観測される頻度が増加しています」

 カイウスは、少し驚いて、彼女の顔を見た。

「ノイズ?」

「ええ。解析不能な、シグナルです。特定の条件下で発生します。例えば、あなたが、私にそうやって微笑みかけた時や、領民たちが、私に感謝の言葉を述べた時。そして、フェンリルが、私の隣で眠っている時」

 リディアは、自分の胸のあたりに、そっと手を当てた。

「それは、私の論理モジュールに、微弱なエラーを引き起こします。思考が、わずかに、温かい靄(もや)のようなものに覆われる感覚。非常に、非効率的です。ですが……不思議と、不快ではない」

 彼女は、真剣な顔で、自らの内に起きている現象を分析し、報告していた。
 カイウスは、その言葉を、静かに聞いていた。そして、たまらなく愛おしい、という感情が、胸の奥から込み上げてくるのを感じた。

 彼は、椅子から立ち上がると、リディアのそばに膝をつき、彼女の手に、自分の手をそっと重ねた。

「リディア。それは、たぶん……エラーなんかじゃない」

 カイウスは、優しく、語りかけるように言った。

「それは、きっと、君の心だ。君が、この土地で、私たちと共に過ごす中で、新しく芽生えたものなんじゃないか?」

 心。
 その言葉の定義を、リディアは知らない。これまで、数え切れないほどのサンプルから、その存在をデータとして観測してきた。しかし、それが自らの内に存在するとは、考えたこともなかった。

「……私の、心……」

 リディアは、重ねられたカイウスの手の温かさを感じながら、その言葉を反芻(はんすう)した。
 彼女の内で、また、あの温かいノイズが、ふわりと生まれた。

『解析、不能。しかし、検証の価値、あり』

 リディアは、初めて、自らの内にあるこの揺らぎを、排除すべきエラーではなく、解き明かすべき、新しい研究テーマとして、認識した。

「……カイウス様。この『心』というパラメータについて、より詳細なデータが必要です。今後、継続的な観測と、ケーススタディへのご協力をお願いします」

 真顔でそう告げるリディアに、カイウスは、思わず吹き出してしまった。
 そして、心からの笑顔で、頷いた。

「ああ。喜んで、協力しよう。君の観測が、終わるまで。ずっと、隣で」

 元・魔族の女王の、人間社会の観察は、まだ始まったばかりだ。
 その探求の果てに、彼女が、自らの内に生まれた温かいノイズの正体を知る日が来るのか、それは、まだ誰にもわからない。

 ただ、窓の外で降りしきる雪が、静かに世界を白く染めていくように。
 彼女の氷の世界もまた、気づかぬうちに、少しずつ、温かい色に染まり始めているのかもしれなかった。
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