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番外編「氷の竜騎士が溶かされた日」
◆クロード視点
吐き出す息は、瞬時に白く凍りついて空気に溶け込んでいく。
鉄の味がする冷気が肺を満たし、吐き出すたびに体温が外の世界へと奪われていった。
北の果て、魔の山嶺。
一年の大半を雪と氷に閉ざされたこの不毛の地で、クロードはただ命を削りながら剣を振るい続けていた。
周囲には、黒々とした血を流して倒れる数多の魔物の残骸が転がっている。
雪原は赤と黒に汚染され、むせ返るような鉄と獣の悪臭が風に乗って鼻を突いた。
戦闘は終わった。
だが、クロードの胸中に安堵はない。
足元で、相棒であるルルが苦痛に身をよじっていた。
巨大な竜の姿から、魔力を温存するための小さな白い毛玉の姿へと戻っているが、その背中には深くえぐられた裂傷があり、真っ赤な血が絶え間なく雪を染めている。
「……すまない、ルル。俺の剣が遅かったばかりに」
クロードは分厚い革手袋を外し、凍える手でルルを抱き上げようとした。
しかし、傷の痛みに怯えるルルは、主であるクロードにすら牙を剥いて威嚇の声を上げる。
触れることすら許されない。
己の無力さが、鉛のように胃の腑を重くした。
このまま砦に連れ帰っても、助かる見込みは薄い。
辺境の砦には、高度な治癒魔法を使える魔術師など一人もいないのだ。
絶望が足元から這い上がってくるのを感じながら、クロードは立ち上がり、周囲を見渡した。
猛吹雪で視界が霞む中、雪だまりの陰に、不自然な黒い影がうずくまっているのが見えた。
近づいてみると、それは一人の女だった。
この極寒の地には到底似つかわしくない、紙のように薄い奇妙な作りの黒い服。
唇は藤の花のように紫に染まり、肌は雪よりも蒼白に透き通っている。
瞼は固く閉じられ、息をしているのかどうかも怪しい。
追放者か。
王都の連中が、また罪のない平民を身代わりに捨てたのだろう。
クロードの胸に冷たい怒りがよぎったが、彼には他人の命を拾う余裕などなかった。
ルルの命の灯火が、今まさに消えようとしているのだ。
「勝手にしろ。死ぬのも生きるのも、お前の自由だ」
氷のように冷たい言葉を投げ捨て、背を向ける。
だが、その背中に向かって、雪に埋もれていたはずの女が這いずるように手を伸ばしてきた。
「……させ、て」
女の指先が、ルルの白い毛並みに触れた。
クロードが止める間もなかった。
見ず知らずの人間に触れられれば、ルルは最後の力で噛みつくはずだ。
そう思った瞬間、奇跡が起きた。
女の冷え切った小さな手のひらから、淡い桜色の光が溢れ出したのだ。
それは、王都の魔術師たちが使うような閃光ではない。
春の陽だまりを凝縮したような、柔らかく温かい光。
光がルルの傷口に吸い込まれていくと同時に、空気を震わせるほどの熱が周囲に放たれた。
クロードの頬を、柔らかな春の風が撫でた錯覚に陥る。
パキパキという音を立てて、ルルの折れていた骨が繋がり、えぐれていた肉が塞がっていく。
溢れ出ていた血は完全に止まり、新しい真っ白な毛並みがまたたく間に再生した。
ルルが力強く鳴き、女の胸元に飛び込んだ。
女は安心したように微笑み、そのまま糸が切れたように雪の上へ倒れ込んだ。
クロードは咄嗟に手を伸ばし、崩れ落ちる彼女の体を抱きとめた。
腕の中に収まった体は、ひどく軽かった。
骨と皮ばかりのような細い肩。
だが、彼女の首筋からは、ほのかに甘い香りがした。
血と錆の匂いしか知らないクロードの脳を、優しく揺さぶるような未知の匂い。
彼女の体温は雪のように冷たいのに、クロードが触れている胸の奥だけが、火の粉を落とされたように熱く疼き始めていた。
◆ ◆ ◆
砦に戻り、彼女を自分の寝台に寝かせた。
分厚い毛布を何枚も重ねて体を温めさせたが、クロードの思考はひどく乱れていた。
あの桜色の光。
あれは間違いなく、最上級の治癒魔法に匹敵する奇跡だ。
王都の連中は、これほどの力を持つ女をゴミとして捨てたのか。
苛立ちと、得体の知れない高揚感が胸の中で渦を巻く。
少し冷たい空気を入れようと部屋を出て、しばらくして戻ると、寝台はもぬけの殻だった。
微かな物音を頼りに厨房へ向かうと、そこには信じられない光景があった。
死の淵にいたはずの彼女が、鼻歌交じりに鍋の前に立っている。
そして、厨房を満たしているのは、脳の奥まで痺れさせるような強烈な匂いだった。
獣の脂が焦げる香ばしさ、香草の爽やかな刺激、煮込まれた野菜が放つ濃厚な甘み。
それらが複雑に絡み合い、胃袋を直接鷲掴みにされるような食欲をかき立てる。
彼女は振り返り、クロードを見つけると、花が咲くような笑みを浮かべた。
アカリと名乗った彼女が差し出したのは、琥珀色に輝く熱いスープだった。
警戒心がなかったわけではない。
だが、その匂いに抗うことは、飢えた獣に肉を我慢させるに等しかった。
木製のスプーンを受け取り、一口すする。
瞬間、クロードの目が大きく見開かれた。
熱い液体が喉を通り抜け、胃の腑に落ちた直後。
腹の底から、爆発的な熱量が全身の血管を駆け巡ったのだ。
酷使してすり減っていた筋肉の繊維が、一本一本太く再生していくような生々しい感覚。
枯渇していた魔力炉に、澄み切った水が激流となって流れ込んでくる。
右肩にあった深い古傷の疼きが、音を立てて消え去った。
これは、ただの食事ではない。
飲む治癒魔法。
いや、それ以上の何かだ。
クロードは無言のまま、皿の底を舐めるように最後の一滴まで飲み干した。
体が、嘘のように軽い。
だが、それ以上にクロードを揺さぶったのは、目の前で嬉しそうに笑うアカリの存在だった。
王都は、彼女を不要だと言った。
ならば、俺がもらう。
彼女の力も、彼女が作る飯も、そして彼女自身も、すべて俺のものだ。
クロードの胸の奥で、冬眠から目覚めた竜が重い瞼をこじ開け、咆哮を上げるのを感じた。
それは、生まれて初めて知る執着という名の飢えだった。
◆ ◆ ◆
アカリが砦の料理番となってからの日々は、クロードにとって試練の連続だった。
彼女の料理は、砦の騎士たちを瞬く間に虜にした。
死んだような目をしていた男たちが、食事の時間になるたびに顔を輝かせ、アカリの周りに群がる。
食堂の入り口からその光景を見るたび、クロードの腹の底で黒い泥のような感情が煮え滾った。
他の男たちが彼女に話しかける声。
彼女に向ける熱を帯びた視線。
すべてが目障りだった。
あの笑顔を向けられるのは、俺だけでいい。
彼女が差し出す皿を受け取るのも、俺だけでいい。
彼女の肩に触れる男がいれば、その腕を切り落としてやりたいという残虐な衝動が湧き上がる。
クロードは己の内に渦巻く獣性を必死に鎖で縛り付けながら、彼女と騎士たちの間に冷たい壁として立ち塞がった。
「俺の所有物に、気安く近づくな」
低い声で威圧し、男たちを散らす。
怯えたように肩をすくめるアカリを見ると、今度はどうしようもない庇護欲が胸を締め付けた。
寒さで彼女の指先が白くなっているのを見れば、自分の外套を乱暴に脱いで巻きつける。
分厚い黒狼の毛皮にすっぽりと包まれ、クロードの匂いに染まった彼女を見ると、奇妙な満足感が得られた。
もっと、彼女を喜ばせたい。
もっと、自分だけを見てほしい。
その一心で、クロードは単騎で危険な氷谷へと向かった。
標的は、最上級の魔物である氷鳥。
普通の剣では傷一つつけられない硬い羽毛と、触れれば血が凍る冷気を放つ厄介な相手だ。
だが、これを持ち帰れば、彼女はどんな顔をするだろうか。
どんな新しい味を生み出してくれるのだろうか。
頬を鋭い氷の刃で切り裂かれながらも、クロードの頭の中にあったのは、アカリの柔らかい笑顔だけだった。
重い獲物を引きずって砦に戻り、彼女の前にそれを置いた時。
驚き、そして心底嬉しそうに微笑んだ彼女の顔を見た瞬間、頬の傷の痛みなど完全に消し飛んでいた。
夜、彼女の私室を訪れた時のことは、今でもクロードの理性を揺さぶる。
暖炉の火に照らされた彼女は、ひどく無防備だった。
頬に触れると、雪のように白い肌が火照り、赤い熱を帯びる。
大きな瞳が揺れ、クロードを真っ直ぐに見つめ返す。
逃げ出さない彼女の強さが、クロードの理性の鎖をさらに軋ませる。
このまま彼女をベッドに押し倒し、俺の痕跡を全身に刻み込んで、二度と他の男の目に触れられないように奥深くへ閉じ込めてしまいたい。
狂おしいほどの独占欲が、血管の中で暴れ回る。
だが、ここで踏み込めば、彼女を壊してしまうかもしれない。
クロードは奥歯を強く噛み締め、必死に欲望を飲み込んだ。
彼女を抱き寄せることしかできなかった自分の不器用さに絶望しながらも、腕の中に収まる温かな体温だけが、クロードの唯一の救いとなっていた。
◆ ◆ ◆
その平穏が、汚らわしい豚の足音によって踏みにじられたのは、春の兆しが見え始めた頃だった。
王都からの使者。
豪華な絹の外套を着膨れさせた、脂ぎった小太りの男。
その口から飛び出したのは、アカリを再び地獄へ引きずり戻そうとする、身勝手で吐き気のするような要求だった。
「聖女様の力を不当に持ち出した泥棒」
男がそう言い放った瞬間、クロードの視界は真っ赤な血の色に染まった。
怒りという生ぬるいものではない。
これは、明確な殺意だった。
アカリがどれほど傷つき、泣きながら雪原を彷徨ったか。
それを知ろうともせず、用済みだと捨てた手を再び伸ばしてくる厚顔無恥さ。
震えるアカリの背中を見た瞬間、クロードの内で何かが完全に弾け飛んだ。
大剣を引き抜く。
石畳が砕け散る音が、食堂に響き渡った。
「俺の女に、気安く近づくな」
口をついて出た言葉は、冷たく、重く、絶対の死を孕んでいた。
使者の男の顔面が蒼白に染まるのを見て、クロードの内に残虐な喜びが湧き上がる。
このまま首をはねてやる。
四肢を切り刻み、魔物の餌にしてやる。
大剣の切っ先を使者の鼻先に突きつけた時、クロードは本気で男の顔面を縦に両断するつもりだった。
だが、背後で息を呑むアカリの気配が、すんでのところで剣を止めた。
彼女の美しい記憶を、豚の血で汚すわけにはいかない。
冷徹に法理を突きつけ、圧倒的な武力と暴力の気配で男たちを叩き出す。
雪原を無様に這いずりながら逃げていく使者たちの背中を見送っても、クロードの胸で荒れ狂う嵐は治まらなかった。
アカリを奪われるかもしれないという恐怖。
自分の手の届かない場所へ、彼女が引きずられていくかもしれないという想像。
それが、最強の竜騎士であるはずのクロードを、根底から震え上がらせた。
◆ ◆ ◆
自室に戻り、扉を閉めた瞬間。
クロードはもう、自分を抑え込むことができなかった。
振り返り、怯えたような顔をするアカリの腕を掴む。
彼女を抱きしめた時、クロードはようやく肺に酸素が戻ってきた気がした。
細い腰を強く引き寄せ、自分の胸に押し付ける。
鼓動が、体温が、彼女の甘い匂いが、暴走寸前だったクロードの狂気を少しずつなだめていく。
「お前を失うことだけは、耐えられないと思った」
絞り出すようにこぼれ落ちたのは、情けないほどに素直な弱音だった。
「俺は強くなどない。お前がいなければ、もう息をすることすらできない。お前の作る飯がなければ、お前の温かい手が俺に触れなければ、俺はただの氷の塊に戻ってしまう」
涙をこぼしながら、それでも真っ直ぐに自分を見上げてくるアカリの強さ。
「私、ここにいたいです。クロードさんの傍で、ずっと……温かいスープを作りたい。あなたを、癒やしたい……っ」
その言葉が、クロードの最後の理性を焼き尽くした。
気づけば、彼女の唇を塞いでいた。
初めて触れるその場所は、想像していたよりもずっと柔らかく、そして熱かった。
触れただけのキスでは到底足りない。
彼女のすべてを味わい尽くし、自分という存在を彼女の奥深くまで刻み込みたい。
角度を変え、何度も、深く唇を重ねる。
彼女の小さな口内から、甘く熱い息が流れ込んでくる。
腕の中で力が抜け、崩れ落ちそうになる彼女の体を、強靭な腕で抱え上げる。
このまま骨の髄まで溶かして、一つになってしまいたい。
彼女の甘い匂いが脳髄を犯し、思考を完全に停止させる。
王都など、どうでもいい。
世界がどうなろうと知ったことではない。
俺の腕の中に、彼女がいる。
ただそれだけで、クロードの世界は完全に満たされていた。
氷のように冷え切っていた辺境の竜騎士は、平凡な女が作る温かいスープと、その無防備な笑顔によって、跡形もなく溶かされたのだ。
もう二度と、氷結することはない。
彼女の放つ甘く強烈な熱が、クロードの心臓を永遠に燃やし続けるのだから。
吐き出す息は、瞬時に白く凍りついて空気に溶け込んでいく。
鉄の味がする冷気が肺を満たし、吐き出すたびに体温が外の世界へと奪われていった。
北の果て、魔の山嶺。
一年の大半を雪と氷に閉ざされたこの不毛の地で、クロードはただ命を削りながら剣を振るい続けていた。
周囲には、黒々とした血を流して倒れる数多の魔物の残骸が転がっている。
雪原は赤と黒に汚染され、むせ返るような鉄と獣の悪臭が風に乗って鼻を突いた。
戦闘は終わった。
だが、クロードの胸中に安堵はない。
足元で、相棒であるルルが苦痛に身をよじっていた。
巨大な竜の姿から、魔力を温存するための小さな白い毛玉の姿へと戻っているが、その背中には深くえぐられた裂傷があり、真っ赤な血が絶え間なく雪を染めている。
「……すまない、ルル。俺の剣が遅かったばかりに」
クロードは分厚い革手袋を外し、凍える手でルルを抱き上げようとした。
しかし、傷の痛みに怯えるルルは、主であるクロードにすら牙を剥いて威嚇の声を上げる。
触れることすら許されない。
己の無力さが、鉛のように胃の腑を重くした。
このまま砦に連れ帰っても、助かる見込みは薄い。
辺境の砦には、高度な治癒魔法を使える魔術師など一人もいないのだ。
絶望が足元から這い上がってくるのを感じながら、クロードは立ち上がり、周囲を見渡した。
猛吹雪で視界が霞む中、雪だまりの陰に、不自然な黒い影がうずくまっているのが見えた。
近づいてみると、それは一人の女だった。
この極寒の地には到底似つかわしくない、紙のように薄い奇妙な作りの黒い服。
唇は藤の花のように紫に染まり、肌は雪よりも蒼白に透き通っている。
瞼は固く閉じられ、息をしているのかどうかも怪しい。
追放者か。
王都の連中が、また罪のない平民を身代わりに捨てたのだろう。
クロードの胸に冷たい怒りがよぎったが、彼には他人の命を拾う余裕などなかった。
ルルの命の灯火が、今まさに消えようとしているのだ。
「勝手にしろ。死ぬのも生きるのも、お前の自由だ」
氷のように冷たい言葉を投げ捨て、背を向ける。
だが、その背中に向かって、雪に埋もれていたはずの女が這いずるように手を伸ばしてきた。
「……させ、て」
女の指先が、ルルの白い毛並みに触れた。
クロードが止める間もなかった。
見ず知らずの人間に触れられれば、ルルは最後の力で噛みつくはずだ。
そう思った瞬間、奇跡が起きた。
女の冷え切った小さな手のひらから、淡い桜色の光が溢れ出したのだ。
それは、王都の魔術師たちが使うような閃光ではない。
春の陽だまりを凝縮したような、柔らかく温かい光。
光がルルの傷口に吸い込まれていくと同時に、空気を震わせるほどの熱が周囲に放たれた。
クロードの頬を、柔らかな春の風が撫でた錯覚に陥る。
パキパキという音を立てて、ルルの折れていた骨が繋がり、えぐれていた肉が塞がっていく。
溢れ出ていた血は完全に止まり、新しい真っ白な毛並みがまたたく間に再生した。
ルルが力強く鳴き、女の胸元に飛び込んだ。
女は安心したように微笑み、そのまま糸が切れたように雪の上へ倒れ込んだ。
クロードは咄嗟に手を伸ばし、崩れ落ちる彼女の体を抱きとめた。
腕の中に収まった体は、ひどく軽かった。
骨と皮ばかりのような細い肩。
だが、彼女の首筋からは、ほのかに甘い香りがした。
血と錆の匂いしか知らないクロードの脳を、優しく揺さぶるような未知の匂い。
彼女の体温は雪のように冷たいのに、クロードが触れている胸の奥だけが、火の粉を落とされたように熱く疼き始めていた。
◆ ◆ ◆
砦に戻り、彼女を自分の寝台に寝かせた。
分厚い毛布を何枚も重ねて体を温めさせたが、クロードの思考はひどく乱れていた。
あの桜色の光。
あれは間違いなく、最上級の治癒魔法に匹敵する奇跡だ。
王都の連中は、これほどの力を持つ女をゴミとして捨てたのか。
苛立ちと、得体の知れない高揚感が胸の中で渦を巻く。
少し冷たい空気を入れようと部屋を出て、しばらくして戻ると、寝台はもぬけの殻だった。
微かな物音を頼りに厨房へ向かうと、そこには信じられない光景があった。
死の淵にいたはずの彼女が、鼻歌交じりに鍋の前に立っている。
そして、厨房を満たしているのは、脳の奥まで痺れさせるような強烈な匂いだった。
獣の脂が焦げる香ばしさ、香草の爽やかな刺激、煮込まれた野菜が放つ濃厚な甘み。
それらが複雑に絡み合い、胃袋を直接鷲掴みにされるような食欲をかき立てる。
彼女は振り返り、クロードを見つけると、花が咲くような笑みを浮かべた。
アカリと名乗った彼女が差し出したのは、琥珀色に輝く熱いスープだった。
警戒心がなかったわけではない。
だが、その匂いに抗うことは、飢えた獣に肉を我慢させるに等しかった。
木製のスプーンを受け取り、一口すする。
瞬間、クロードの目が大きく見開かれた。
熱い液体が喉を通り抜け、胃の腑に落ちた直後。
腹の底から、爆発的な熱量が全身の血管を駆け巡ったのだ。
酷使してすり減っていた筋肉の繊維が、一本一本太く再生していくような生々しい感覚。
枯渇していた魔力炉に、澄み切った水が激流となって流れ込んでくる。
右肩にあった深い古傷の疼きが、音を立てて消え去った。
これは、ただの食事ではない。
飲む治癒魔法。
いや、それ以上の何かだ。
クロードは無言のまま、皿の底を舐めるように最後の一滴まで飲み干した。
体が、嘘のように軽い。
だが、それ以上にクロードを揺さぶったのは、目の前で嬉しそうに笑うアカリの存在だった。
王都は、彼女を不要だと言った。
ならば、俺がもらう。
彼女の力も、彼女が作る飯も、そして彼女自身も、すべて俺のものだ。
クロードの胸の奥で、冬眠から目覚めた竜が重い瞼をこじ開け、咆哮を上げるのを感じた。
それは、生まれて初めて知る執着という名の飢えだった。
◆ ◆ ◆
アカリが砦の料理番となってからの日々は、クロードにとって試練の連続だった。
彼女の料理は、砦の騎士たちを瞬く間に虜にした。
死んだような目をしていた男たちが、食事の時間になるたびに顔を輝かせ、アカリの周りに群がる。
食堂の入り口からその光景を見るたび、クロードの腹の底で黒い泥のような感情が煮え滾った。
他の男たちが彼女に話しかける声。
彼女に向ける熱を帯びた視線。
すべてが目障りだった。
あの笑顔を向けられるのは、俺だけでいい。
彼女が差し出す皿を受け取るのも、俺だけでいい。
彼女の肩に触れる男がいれば、その腕を切り落としてやりたいという残虐な衝動が湧き上がる。
クロードは己の内に渦巻く獣性を必死に鎖で縛り付けながら、彼女と騎士たちの間に冷たい壁として立ち塞がった。
「俺の所有物に、気安く近づくな」
低い声で威圧し、男たちを散らす。
怯えたように肩をすくめるアカリを見ると、今度はどうしようもない庇護欲が胸を締め付けた。
寒さで彼女の指先が白くなっているのを見れば、自分の外套を乱暴に脱いで巻きつける。
分厚い黒狼の毛皮にすっぽりと包まれ、クロードの匂いに染まった彼女を見ると、奇妙な満足感が得られた。
もっと、彼女を喜ばせたい。
もっと、自分だけを見てほしい。
その一心で、クロードは単騎で危険な氷谷へと向かった。
標的は、最上級の魔物である氷鳥。
普通の剣では傷一つつけられない硬い羽毛と、触れれば血が凍る冷気を放つ厄介な相手だ。
だが、これを持ち帰れば、彼女はどんな顔をするだろうか。
どんな新しい味を生み出してくれるのだろうか。
頬を鋭い氷の刃で切り裂かれながらも、クロードの頭の中にあったのは、アカリの柔らかい笑顔だけだった。
重い獲物を引きずって砦に戻り、彼女の前にそれを置いた時。
驚き、そして心底嬉しそうに微笑んだ彼女の顔を見た瞬間、頬の傷の痛みなど完全に消し飛んでいた。
夜、彼女の私室を訪れた時のことは、今でもクロードの理性を揺さぶる。
暖炉の火に照らされた彼女は、ひどく無防備だった。
頬に触れると、雪のように白い肌が火照り、赤い熱を帯びる。
大きな瞳が揺れ、クロードを真っ直ぐに見つめ返す。
逃げ出さない彼女の強さが、クロードの理性の鎖をさらに軋ませる。
このまま彼女をベッドに押し倒し、俺の痕跡を全身に刻み込んで、二度と他の男の目に触れられないように奥深くへ閉じ込めてしまいたい。
狂おしいほどの独占欲が、血管の中で暴れ回る。
だが、ここで踏み込めば、彼女を壊してしまうかもしれない。
クロードは奥歯を強く噛み締め、必死に欲望を飲み込んだ。
彼女を抱き寄せることしかできなかった自分の不器用さに絶望しながらも、腕の中に収まる温かな体温だけが、クロードの唯一の救いとなっていた。
◆ ◆ ◆
その平穏が、汚らわしい豚の足音によって踏みにじられたのは、春の兆しが見え始めた頃だった。
王都からの使者。
豪華な絹の外套を着膨れさせた、脂ぎった小太りの男。
その口から飛び出したのは、アカリを再び地獄へ引きずり戻そうとする、身勝手で吐き気のするような要求だった。
「聖女様の力を不当に持ち出した泥棒」
男がそう言い放った瞬間、クロードの視界は真っ赤な血の色に染まった。
怒りという生ぬるいものではない。
これは、明確な殺意だった。
アカリがどれほど傷つき、泣きながら雪原を彷徨ったか。
それを知ろうともせず、用済みだと捨てた手を再び伸ばしてくる厚顔無恥さ。
震えるアカリの背中を見た瞬間、クロードの内で何かが完全に弾け飛んだ。
大剣を引き抜く。
石畳が砕け散る音が、食堂に響き渡った。
「俺の女に、気安く近づくな」
口をついて出た言葉は、冷たく、重く、絶対の死を孕んでいた。
使者の男の顔面が蒼白に染まるのを見て、クロードの内に残虐な喜びが湧き上がる。
このまま首をはねてやる。
四肢を切り刻み、魔物の餌にしてやる。
大剣の切っ先を使者の鼻先に突きつけた時、クロードは本気で男の顔面を縦に両断するつもりだった。
だが、背後で息を呑むアカリの気配が、すんでのところで剣を止めた。
彼女の美しい記憶を、豚の血で汚すわけにはいかない。
冷徹に法理を突きつけ、圧倒的な武力と暴力の気配で男たちを叩き出す。
雪原を無様に這いずりながら逃げていく使者たちの背中を見送っても、クロードの胸で荒れ狂う嵐は治まらなかった。
アカリを奪われるかもしれないという恐怖。
自分の手の届かない場所へ、彼女が引きずられていくかもしれないという想像。
それが、最強の竜騎士であるはずのクロードを、根底から震え上がらせた。
◆ ◆ ◆
自室に戻り、扉を閉めた瞬間。
クロードはもう、自分を抑え込むことができなかった。
振り返り、怯えたような顔をするアカリの腕を掴む。
彼女を抱きしめた時、クロードはようやく肺に酸素が戻ってきた気がした。
細い腰を強く引き寄せ、自分の胸に押し付ける。
鼓動が、体温が、彼女の甘い匂いが、暴走寸前だったクロードの狂気を少しずつなだめていく。
「お前を失うことだけは、耐えられないと思った」
絞り出すようにこぼれ落ちたのは、情けないほどに素直な弱音だった。
「俺は強くなどない。お前がいなければ、もう息をすることすらできない。お前の作る飯がなければ、お前の温かい手が俺に触れなければ、俺はただの氷の塊に戻ってしまう」
涙をこぼしながら、それでも真っ直ぐに自分を見上げてくるアカリの強さ。
「私、ここにいたいです。クロードさんの傍で、ずっと……温かいスープを作りたい。あなたを、癒やしたい……っ」
その言葉が、クロードの最後の理性を焼き尽くした。
気づけば、彼女の唇を塞いでいた。
初めて触れるその場所は、想像していたよりもずっと柔らかく、そして熱かった。
触れただけのキスでは到底足りない。
彼女のすべてを味わい尽くし、自分という存在を彼女の奥深くまで刻み込みたい。
角度を変え、何度も、深く唇を重ねる。
彼女の小さな口内から、甘く熱い息が流れ込んでくる。
腕の中で力が抜け、崩れ落ちそうになる彼女の体を、強靭な腕で抱え上げる。
このまま骨の髄まで溶かして、一つになってしまいたい。
彼女の甘い匂いが脳髄を犯し、思考を完全に停止させる。
王都など、どうでもいい。
世界がどうなろうと知ったことではない。
俺の腕の中に、彼女がいる。
ただそれだけで、クロードの世界は完全に満たされていた。
氷のように冷え切っていた辺境の竜騎士は、平凡な女が作る温かいスープと、その無防備な笑顔によって、跡形もなく溶かされたのだ。
もう二度と、氷結することはない。
彼女の放つ甘く強烈な熱が、クロードの心臓を永遠に燃やし続けるのだから。
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