無臭の公爵様は香りの令嬢を手放さない~契約婚約のはずが、私の香りで極甘に覚醒しました!?~

黒崎隼人

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第2話「ビジネスライクな婚約契約」

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 エリオットは自室に戻ると、重いため息をついた。

(また同じことの繰り返しだろうか……)

 今日やってきた調香師、リリアーナ・ベルク。小柄で、栗色の髪を揺らす姿は、まるで森の小動物のようだ。その大きな瞳には、強い意志と好奇心が宿っていた。これまでに来た者たちとは、どこか違う雰囲気を感じたのは確かだ。
 だが、期待はすぐに失望に変わる。それが、これまでの彼の人生だった。
 幼い頃から、エリオットの世界は「無臭」だった。いや、正確には、香りというものが彼に苦痛しかもたらさなかったのだ。色とりどりの花が咲き誇る庭園も、焼きたてのパンが並ぶ厨房も、彼にとっては頭痛を引き起こす地獄でしかない。
 特に、華やかなドレスをまとった令嬢たちが振りまく甘ったるい香水は、耐えがたい苦痛だった。おかげで社交界では「鉄仮面」「女嫌い」とあらぬ噂を立てられ、縁談はことごとく破談。クロフォード公爵家の存続を危ぶむ声も聞こえ始めていた。

(誰にも理解されぬ苦しみだ)

 コンコン、と扉を叩く音がした。

「エリオット様、リリアーナと申します。少し、よろしいでしょうか」

「……入れ」

 許可を出すと、彼女は小さな木箱を抱えて入ってきた。

「これから、いくつかの香りを試していただきたいと思います。どれも刺激の少ない、自然のものですので、ご安心ください」

 彼女はそう言うと、箱の中から小さな瓶をいくつか取り出した。中には、乾燥したハーブや木の欠片が入っている。

「まずは、カモミールの香りです。心を落ち着かせる効果があります」

 リリアーナが瓶の蓋を開け、そっとエリオットの前に差し出す。彼は警戒しながら、恐る恐るその香りを吸い込んだ。

(……痛くない)

 いつもなら、香りを嗅いだ瞬間にこめかみがズキリと痛むはずなのに、それがない。ただ、穏やかで優しい草の匂いが、静かに鼻腔をくすぐるだけだった。

「次は、サンダルウッド。白檀の香りです。集中力を高めてくれます」

 これも、大丈夫だった。深く、落ち着いた木の香りが、ささくれていた神経を鎮めてくれるようだ。
 ラベンダー、ローズマリー、シダーウッド……。リリアーナが差し出す天然素材の香りは、どれもエリオットに苦痛を与えなかった。むしろ、生まれて初めて「心地よい」とすら感じた。

「すごい……。どうして、君の用意した香りは平気なんだ?」

 驚きを隠せずに尋ねると、リリアーナはにっこりと微笑んだ。

「私が使うのは、自然からいただいた恵みそのものだからです。多くの香水は、化学的に合成された香料を多量に使っています。もしかしたらエリオット様は、その人工的な成分に反応してしまうのかもしれません」

 なるほど、とエリオットは唸った。これまで誰も思いつかなかった視点だ。この少女は、見かけによらず相当な知識と観察眼を持っている。

(彼女なら、あるいは……)

 長年、諦めかけていた希望の光が、エリオットの胸に微かに灯った。

「リリアーナ」

「はい、なんでしょうか」

「君に、一つ取引を持ちかけたい」

 エリオットは、かねてから考えていた計画を口にした。それは、あまりにも突飛で、無謀な提案だった。

「俺と、婚約してほしい」

「…………はい?」

 リリアーナが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で固まった。まあ、当然の反応だろう。会ったばかりの男にいきなり求婚されれば、誰だってそうなる。

「な、なな、何を突然! 私とあなたでは、身分が違いすぎます! それに、私たち、今日会ったばかりで……」

「もちろん、本物の婚約ではない。契約だ」

 エリオットは慌てる彼女を制し、冷静に説明を続けた。

「俺は、しつこい縁談にうんざりしている。公爵家の跡継ぎ問題もあり、周囲がやかましい。そこで、君に俺の婚約者を演じてもらう。表向きは、俺の体質を理解し、側にいることができる唯一の女性、ということにしてな」

「婚約者の、ふり……?」

「そうだ。君は公爵夫人の立場を得ることで、俺の呪いの原因を心置きなく調査できる。社交界にも出入りしやすくなり、情報を集められるだろう。俺に近づく他の令嬢たちを牽制する役目も担ってもらう」

 これは、双方にとって利益のある取引だ。エリオットはそう確信していた。リリアーナの調香師としての能力は本物。彼女を側に置いておけば、いつかこの呪いから解放されるかもしれない。そのためなら、どんな手段も使うつもりだった。
 リリアーナはしばらく黙り込んで、何かを考え込んでいるようだった。その大きな瞳が不安げに揺れている。

(無理な相談か……。平民の娘に、貴族社会の闇に足を踏み入れろというのだからな)

 エリオットが諦めかけた、その時だった。

「わかりました。そのお話、お受けします」

「……いいのか?」

「はい。ただし、条件があります」

 意外にもはっきりとした声で、彼女は言った。

「この契約は、あくまであなたの呪いを解くためのもの。もし呪いが解けたら、この婚約は白紙に戻してください。私は私の工房で、人々のための香りを自由に作り続けたいんです」

「……わかった。約束しよう」

「それから、もう一つ。私のことを『リリィ』と呼んでください。リリアーナは、少し長すぎますから」

 そう言って、彼女はいたずらっぽく笑った。その笑顔は、この無機質な屋敷に初めて差し込んだ陽光のように、まぶしく見えた。

「リリィ、か。悪くない」

 エリオットは、鉄仮面の下で微かに口元を緩めた。
 こうして、無臭の公爵と香りの令嬢の、奇妙な契約婚約生活が幕を開けた。最初はただのビジネスパートナー。互いの利害が一致しただけの、ドライな関係。
 そのはずだった。
 エリオットはまだ知らない。この小さな調香師が、彼の凍てついた世界に、どれほど鮮やかで温かい彩りをもたらすことになるのかを。そしてリリィもまた、この契約が自分の運命を大きく変えることになるなど、まだ想像もしていなかった。二人の歯車は、まだかすかな音を立てて、ゆっくりと回り始めたばかりだった。
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