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第4話「偽りの婚約者と社交界の嵐」
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「クロフォード公爵閣下、ならびにリリアーナ様のご入場です!」
高らかな声と共に、大広間の巨大な扉が開かれる。眩いシャンデリアの光、着飾った貴族たちの喧騒、そして、むせ返るような香水の匂い。リリィは思わず顔をしかめそうになったが、隣に立つエリオットの横顔を見て、ぐっとこらえた。
今日は、国王主催の夜会。そして、リリィがエリオットの婚約者として、社交界に正式にお披露目される日だった。
エリオットは、リリィの鼻先に、彼女が調合したミントとユーカリの香りを染み込ませたハンカチをそっと当ててくれていた。この爽やかな香りが、他の甘い香水の刺激を和らげるための、ささやかな防御策だ。
「大丈夫か、リリィ」
「はい。エリオット様こそ、頭痛は……?」
「君のおかげで、いつもよりは平気だ」
彼の声は平坦だったが、その気遣いがリリィには嬉しかった。
二人が会場に足を踏み入れると、一斉に視線が突き刺さる。好奇、嫉妬、驚愕。様々な感情が渦巻く視線の集中砲火に、リリィは思わず身を固くした。
「あれが、クロフォード公爵の……」
「どこの馬の骨とも知れぬ娘を……」
ひそひそと交わされる声が、リリィの耳に届く。無理もない。これまで女性の影が一切なかった「鉄仮面公爵」が、いきなり平民上がりの見習い調香師を婚約者として連れてきたのだ。格好の噂の的だろう。
(負けちゃダメだ。これも、契約のうち)
リリィは背筋を伸ばし、エリオットの腕にそっと手を添えた。すると、彼の大きな手が、リリィの手を安心させるように優しく握り返してくれた。
その時、甲高い声が二人の間に割り込んできた。
「まあ、クロフォード公爵! ごきげんよう。こちらが、噂の方ですのね?」
現れたのは、薔薇の刺繍が施された真紅のドレスをまとった、派手な顔立ちの令嬢だった。マーガレット侯爵令嬢、確かそんな名前だったはずだ。彼女はエリオットの有力な婚約者候補の一人だと、事前に聞いていた。
「初めまして。わたくし、セシリア・マーガレットと申しますわ。あなた、調香師ですって? 公爵閣下のお側に侍るには、ずいぶんと地味なご職業ですことね」
セシリアは扇で口元を隠しながら、あからさまな軽蔑の視線をリリィに向ける。彼女から漂う、濃厚な薔薇の香水の匂いに、リリィは眉をひそめた。
「……自己紹介がまだでしたわね。私はリリアーナ・ベルクと申します。地味な仕事ですが、人の心を癒すことができる、誇りある仕事ですわ」
リリィが毅然と言い返すと、セシリアはカチンときたのか、扇をぴしゃりと閉じた。
「口だけは達者なようですわね! でも、あなたのような方が、公爵閣下の隣にふさわしいとお思い?」
一触即発の空気が流れた、その時。
「セシリア嬢」
エリオットの低く、冷たい声が響いた。
「私の婚約者に対して、あまり無礼な口を利くのはやめてもらおうか。彼女は、俺が選んだ唯一の女性だ。彼女の仕事も、彼女自身も、俺が何より誇りに思っている」
エリオットはリリィの肩を抱き寄せ、セシリアを射抜くような鋭い視線で睨みつけた。その有無を言わせぬ迫力に、セシリアは顔を青ざめさせ、たじろいだ。
「も、申し訳ありません……」
すごすごと退散していくセシリアの後ろ姿を見送り、リリィは呆然とエリオットを見上げた。
(今、私のことを……誇りに思うって……)
契約上、自分を庇ってくれただけだと分かっている。それでも、彼の言葉はリリィの胸に温かく響いた。
「ありがとうございます、エリオット様」
「気にするな。契約のうちだ」
彼はそう言って、また鉄仮面に戻ってしまう。でも、リリィには分かった。彼の行動は、ただの義務感じゃない。その証拠に、彼が自分を抱き寄せた腕には、かすかに力がこもっていた。
***
一方、エリオットの内心は、穏やかではなかった。
(あの女、リリィになんて口を……!)
セシリアがリリィに侮蔑の言葉を投げかけた瞬間、エリオットの頭に血が上った。リリィの作る香りに、彼女の真摯な人柄に、どれだけ自分が救われているか。それを何も知らないくせに、と腹立たしくて仕方がなかった。
リリィの肩を抱いた時、彼女の体温と、彼女から漂う石鹸の清潔な香りに、心が落ち着くのを感じた。もっと、この温もりに触れていたい。守ってやりたい。
(……何を考えているんだ、俺は)
これは契約だ。彼女は、いつか自分の元を去っていく。そのことを忘れてはいけない。エリオットは込み上げる独占欲に蓋をするように、無表情を貫いた。
***
その後も、次から次へと挨拶に来る貴族たちの相手をしているうちに、夜は更けていった。リリィは慣れない社交界にすっかり疲れ果てていたが、エリオットが常に側にいてくれたおかげで、何とか乗り切ることができた。
***
夜会が終わり、帰りの馬車に乗り込むと、リリィはどっと疲れが出たのか、ソファに深くもたれかかった。
「お疲れ様、リリィ。大変だっただろう」
「エリオット様こそ……。でも、楽しかったです。あなたが、守ってくれたから」
リリィはそう言うと、こくりこくりと舟をこぎ始め、やがてエリオットの肩にこてんと頭をもたれて眠ってしまった。
「……!」
エリオットは身動きが取れなくなった。肩にかかる、柔らかな髪の感触。聞こえてくる、穏やかな寝息。彼女の無防備な姿に、心臓がうるさいほどに鳴り響く。
(……敵わんな)
エリオットは小さくため息をつくと、自分の上着を脱いで、そっとリリィの肩にかけた。
窓の外を流れる王都の夜景を見つめながら、彼は思う。
この偽りの婚約が、いつか終わる日が来る。その時、自分はこの温もりを手放すことができるのだろうか。
鉄仮面の下で、エリオットの眉間に深いしわが刻まれた。社交界の嵐よりも、自分の心の中に吹き荒れる嵐の方が、よほど厄介だと彼は感じていた。
高らかな声と共に、大広間の巨大な扉が開かれる。眩いシャンデリアの光、着飾った貴族たちの喧騒、そして、むせ返るような香水の匂い。リリィは思わず顔をしかめそうになったが、隣に立つエリオットの横顔を見て、ぐっとこらえた。
今日は、国王主催の夜会。そして、リリィがエリオットの婚約者として、社交界に正式にお披露目される日だった。
エリオットは、リリィの鼻先に、彼女が調合したミントとユーカリの香りを染み込ませたハンカチをそっと当ててくれていた。この爽やかな香りが、他の甘い香水の刺激を和らげるための、ささやかな防御策だ。
「大丈夫か、リリィ」
「はい。エリオット様こそ、頭痛は……?」
「君のおかげで、いつもよりは平気だ」
彼の声は平坦だったが、その気遣いがリリィには嬉しかった。
二人が会場に足を踏み入れると、一斉に視線が突き刺さる。好奇、嫉妬、驚愕。様々な感情が渦巻く視線の集中砲火に、リリィは思わず身を固くした。
「あれが、クロフォード公爵の……」
「どこの馬の骨とも知れぬ娘を……」
ひそひそと交わされる声が、リリィの耳に届く。無理もない。これまで女性の影が一切なかった「鉄仮面公爵」が、いきなり平民上がりの見習い調香師を婚約者として連れてきたのだ。格好の噂の的だろう。
(負けちゃダメだ。これも、契約のうち)
リリィは背筋を伸ばし、エリオットの腕にそっと手を添えた。すると、彼の大きな手が、リリィの手を安心させるように優しく握り返してくれた。
その時、甲高い声が二人の間に割り込んできた。
「まあ、クロフォード公爵! ごきげんよう。こちらが、噂の方ですのね?」
現れたのは、薔薇の刺繍が施された真紅のドレスをまとった、派手な顔立ちの令嬢だった。マーガレット侯爵令嬢、確かそんな名前だったはずだ。彼女はエリオットの有力な婚約者候補の一人だと、事前に聞いていた。
「初めまして。わたくし、セシリア・マーガレットと申しますわ。あなた、調香師ですって? 公爵閣下のお側に侍るには、ずいぶんと地味なご職業ですことね」
セシリアは扇で口元を隠しながら、あからさまな軽蔑の視線をリリィに向ける。彼女から漂う、濃厚な薔薇の香水の匂いに、リリィは眉をひそめた。
「……自己紹介がまだでしたわね。私はリリアーナ・ベルクと申します。地味な仕事ですが、人の心を癒すことができる、誇りある仕事ですわ」
リリィが毅然と言い返すと、セシリアはカチンときたのか、扇をぴしゃりと閉じた。
「口だけは達者なようですわね! でも、あなたのような方が、公爵閣下の隣にふさわしいとお思い?」
一触即発の空気が流れた、その時。
「セシリア嬢」
エリオットの低く、冷たい声が響いた。
「私の婚約者に対して、あまり無礼な口を利くのはやめてもらおうか。彼女は、俺が選んだ唯一の女性だ。彼女の仕事も、彼女自身も、俺が何より誇りに思っている」
エリオットはリリィの肩を抱き寄せ、セシリアを射抜くような鋭い視線で睨みつけた。その有無を言わせぬ迫力に、セシリアは顔を青ざめさせ、たじろいだ。
「も、申し訳ありません……」
すごすごと退散していくセシリアの後ろ姿を見送り、リリィは呆然とエリオットを見上げた。
(今、私のことを……誇りに思うって……)
契約上、自分を庇ってくれただけだと分かっている。それでも、彼の言葉はリリィの胸に温かく響いた。
「ありがとうございます、エリオット様」
「気にするな。契約のうちだ」
彼はそう言って、また鉄仮面に戻ってしまう。でも、リリィには分かった。彼の行動は、ただの義務感じゃない。その証拠に、彼が自分を抱き寄せた腕には、かすかに力がこもっていた。
***
一方、エリオットの内心は、穏やかではなかった。
(あの女、リリィになんて口を……!)
セシリアがリリィに侮蔑の言葉を投げかけた瞬間、エリオットの頭に血が上った。リリィの作る香りに、彼女の真摯な人柄に、どれだけ自分が救われているか。それを何も知らないくせに、と腹立たしくて仕方がなかった。
リリィの肩を抱いた時、彼女の体温と、彼女から漂う石鹸の清潔な香りに、心が落ち着くのを感じた。もっと、この温もりに触れていたい。守ってやりたい。
(……何を考えているんだ、俺は)
これは契約だ。彼女は、いつか自分の元を去っていく。そのことを忘れてはいけない。エリオットは込み上げる独占欲に蓋をするように、無表情を貫いた。
***
その後も、次から次へと挨拶に来る貴族たちの相手をしているうちに、夜は更けていった。リリィは慣れない社交界にすっかり疲れ果てていたが、エリオットが常に側にいてくれたおかげで、何とか乗り切ることができた。
***
夜会が終わり、帰りの馬車に乗り込むと、リリィはどっと疲れが出たのか、ソファに深くもたれかかった。
「お疲れ様、リリィ。大変だっただろう」
「エリオット様こそ……。でも、楽しかったです。あなたが、守ってくれたから」
リリィはそう言うと、こくりこくりと舟をこぎ始め、やがてエリオットの肩にこてんと頭をもたれて眠ってしまった。
「……!」
エリオットは身動きが取れなくなった。肩にかかる、柔らかな髪の感触。聞こえてくる、穏やかな寝息。彼女の無防備な姿に、心臓がうるさいほどに鳴り響く。
(……敵わんな)
エリオットは小さくため息をつくと、自分の上着を脱いで、そっとリリィの肩にかけた。
窓の外を流れる王都の夜景を見つめながら、彼は思う。
この偽りの婚約が、いつか終わる日が来る。その時、自分はこの温もりを手放すことができるのだろうか。
鉄仮面の下で、エリオットの眉間に深いしわが刻まれた。社交界の嵐よりも、自分の心の中に吹き荒れる嵐の方が、よほど厄介だと彼は感じていた。
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