無臭の公爵様は香りの令嬢を手放さない~契約婚約のはずが、私の香りで極甘に覚醒しました!?~

黒崎隼人

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第9話「砕かれた香りと公爵の覚醒」

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「貴様、リリィに何をする気だ!」

 エリオットの怒声が、破壊された工房に響き渡る。彼の手には、書斎にあった装飾用の長剣が握られていた。
 バルタザール卿の手下の男は、一瞬怯んだが、すぐに短剣を構え直した。

「クロフォード公爵か。だが、あんたに俺は止められねえ。こいつを殺せと、バルタザール様からきつく言われてんでな!」

 男の言葉に、エリオットは確信した。やはり、すべては叔父の仕業だったのだ。

「リリィ、俺の後ろへ!」

 エリオットはリリィをかばうように前に立ち、男と対峙する。貴族とはいえ、公爵家の嗜みとして剣術の心得はある。しかし、相手は裏社会で生きる手練れだ。油断はできない。
 金属音が響き、激しい剣戟が繰り広げられる。リリィは、震えながらも、エリオットの背中をただ見つめることしかできなかった。

(私のせいで、エリオット様が……!)

 自分の研究が、彼を危険に晒してしまった。後悔と無力感で、胸が張り裂けそうだった。
 その時、男が卑劣な手を打った。彼は懐から砂の入った小袋を取り出すと、エリオットの顔めがけて投げつけたのだ。

「ぐっ……!」

 目くらましを食らい、エリオットが一瞬体勢を崩す。その隙を、男は見逃さなかった。
 短剣が、エリオットの肩を深く切り裂く。

「エリオット様!」

 リリィの悲鳴が上がる。エリオットは片膝をつき、傷口から流れる血で彼のシャツが赤く染まっていく。むせ返るような血の匂いが、リリィの鼻を突いた。

「はっ、終わりだな、公爵様!」

 男が、とどめを刺そうと短剣を振り上げた。
 その瞬間だった。
 リリィは、無我夢中で動いていた。床に転がっていた、すりこぎ棒を拾い上げると、男の背後からその頭を力一杯殴りつけたのだ。

「ぐはっ!」

 不意の一撃に、男はうめき声を上げて倒れ込む。リリィはそのまま、気を失った男の上に馬乗りになり、何度も何度もすりこぎ棒を振り下ろした。

「この……人殺し! エリオット様を……よくも……!」

 涙でぐしゃぐしゃになりながら、彼女は叫んでいた。愛する人を傷つけられた怒りと悲しみが、彼女を突き動かしていた。

「……リリィ、もういい」

 エリオットの優しい声に、リリィははっと我に返った。気づけば、彼女の手は血で汚れていた。

「エリオット様、お怪我は……!?」

「大したことはない。それより、君が無事でよかった」

 エリオットは深手を負っているにもかかわらず、リリィを安心させるように微笑んだ。
 その時、男が倒れた拍子に落とした小瓶が、リリィの目に留まった。それは、彼女が完成させたばかりの、解毒の香りが入った小瓶だった。しかし、床に叩きつけられた衝撃で瓶には大きなヒビが入り、中身の貴重な香油が流れ出してしまっていた。

「あ……ああ……!」

 砕かれた小瓶。それは、二人の希望が打ち砕かれたことの象徴のように思えた。

「せっかく、完成したのに……。ごめんなさい、ごめんなさい……!」

 リリィは、その場に崩れ落ち、泣きじゃくった。
 エリオットは、傷ついた腕で、そんな彼女をそっと抱きしめた。

「君が謝ることじゃない。悪いのは、すべて叔父上だ」

 工房には、砕けた瓶から漏れ出した解毒の香りが満ちていた。聖なる木と太陽の雫が織りなす、清らかで力強い香り。
 その香りを吸い込んだエリオットの体内で、何かが変わり始めていた。
 長年、毒によって眠らされていた五感が、ゆっくりと覚醒していく。
 まず、聴覚が鋭敏になった。遠くで衛兵たちが駆けつけてくる足音が聞こえる。
 次に、視界が鮮明になった。涙に濡れるリリィのまつげの一本一本まで、はっきりと見える。
 そして最後に――嗅覚が、蘇った。
 最初に彼の鼻を捉えたのは、血の鉄錆びた匂い。そして、リリィの涙のしょっぱい匂い。床に散らばったハーブの青々しい香り。
 あらゆる匂いが、濁流のように彼の脳になだれ込んでくる。あまりの情報量に、激しい頭痛が彼を襲った。

「う……ぐっ……!」

「エリオット様!? どうしたのですか、しっかりして!」

 リリィが必死に彼の名を呼ぶ。
 エリオットは、朦朧とする意識の中、一つの香りをはっきりと感じ取っていた。
 それは、彼を抱きしめるリリィ自身から発せられる、甘く、優しい香り。まるで、春の陽だまりの中で咲き誇る、小さな白い花のような、彼女だけの香り。

(これが……リリィの、香り……)

 それは、エリオットが生まれて初めて、心から「愛おしい」と感じた香りだった。
 彼は、リリィを抱きしめる腕に、さらに力を込めた。

「……大丈夫だ」

 彼の声は、かすれていたが、力強かった。

「俺は、もう大丈夫だ」

 公爵は、覚醒した。長きにわたる呪いの眠りから、ついに目覚めたのだ。

 しかし、本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。
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