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第2話「香りの錬金術」
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一週間という時間は、永遠のように長く感じられた。
その間、僕は一日に何度も小屋へ足を運び、木箱の中身をかき混ぜた。発酵を均一にするための「切り返し」という作業だ。
蓋を開けるたびに、鼻を突く匂いが変化していくのがわかる。
最初は甘酸っぱい果物の香りだったのが、次第にツンとした酢酸の匂いに変わり、やがてそれに混じって、ほのかに深みのある、大地の香りが漂い始めた。
そして今日が、運命の乾燥初日だ。
僕は小屋から木箱を運び出し、天日干し用の台の上に広げた。
中身を見た瞬間、僕は拳を握りしめた。
豆はふっくらと膨らみ、表面は美しい赤茶色に変わっている。ナイフで一つ割ってみると、断面には綺麗な筋が入っており、中心部までしっかりと色が回っていた。
「……成功だ」
僕の声が、震えていた。
発酵は完璧だ。微生物たちは素晴らしい仕事をしてくれた。
だが、ここで気を抜くわけにはいかない。次は乾燥だ。水分を適度に抜かなければ、保存が利かないし、次の焙煎の工程にも進めない。
太陽の下、竹ざるに広げた豆を丁寧に並べる。
急激に乾燥させると豆が割れてしまうし、遅すぎるとカビが生える。空模様を常に気にしながら、手で優しく転がして、まんべんなく日光を当てる。
その様子を、父のガンツが見ていた。
「ルカ、それが例のオニノミか」
太い腕組みをして、父が近づいてくる。
僕は作業の手を止め、姿勢を正した。
「うん。正確には、カカの実って呼んでるけどね」
「色は悪くねえが……本当に食えるのか?」
「まだ今は無理だよ。ここからさらに加工しないと」
父は疑わしそうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
以前なら「農作業に戻れ」と怒鳴られていただろう。けれど最近の父は、僕の作業を黙認してくれている。
それは僕が農作業の手を抜かなくなったからかもしれないし、あるいは僕の目に宿る真剣さに、何かを感じ取ってくれたからかもしれない。
「無理はするなよ」
父はそれだけ言い残して、畑の方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、僕は心の中で感謝した。無関心や反対がないだけで、どれほど救われるか。
乾燥作業は五日間続いた。
豆の水分が抜け、一回り小さくなり、カラカラと乾いた音がするようになる。
いよいよ、焙煎だ。
ここからは香りの錬金術の時間だ。
僕は台所のカマドに火を入れた。鉄製の分厚いフライパンを用意し、乾燥した豆を投入する。
弱火でじっくりと、豆に熱を入れていく。
木べらで絶えず豆を動かし続ける。焦がしてはいけない。けれど、芯まで火を通さなければ、あの香りは生まれない。
パチッ、パチッ。
豆が爆ぜる音がし始める。
その瞬間、台所に劇的な変化が訪れた。
煙とともに立ち昇ったのは、酢酸の匂いではない。
それは、懐かしく、かぐわしく、そして圧倒的な存在感を持つ香り。
チョコレートの香りだ。
「きた……!」
目頭が熱くなるのを感じた。
この世界に来て十四年。夢にまで見たあの香りが、今、目の前にある。
それはまだ荒々しく、野生味に溢れているが、間違いなくカカオの香りだった。
騒ぎを聞きつけたのか、母さんが台所に入ってきた。
「あら、ルカ。何か焦がしたの? ……って、何このいい匂い」
母さんは目を丸くして、鼻をクンクンと動かしている。
「焦げ臭いけど……なんか、すごく美味しそうな匂いがするわね。香ばしくて、ちょっと甘いような」
「これがカカの実の本当の香りだよ、母さん」
僕は興奮を抑えきれずに答えた。
焙煎を終えた豆を冷まし、皮をむく。
現れたのは、黒に近い焦げ茶色の中身。カカオニブだ。
これを、すり鉢に入れる。
現代の機械があれば一瞬でペースト状にできるが、ここにはそんなものはない。自分の腕と、石の重さだけが頼りだ。
ゴリ、ゴリ、ゴリ。
力を込めて、豆をすり潰していく。
摩擦熱で豆に含まれる油分――ココアバターが溶け出し、次第に粉末がペースト状に変わっていくはずだ。
しかし、これが想像以上に重労働だった。
三十分も続けると、腕がパンパンになり、汗が滴り落ちてくる。
「くそっ……こんなところで……」
腕の感覚がなくなってくる。それでも手は止めない。
滑らかになれ。もっと滑らかに。
そう念じながら、ひたすらすり棒を回し続ける。
やがて、ザラザラしていた粉末が、ねっとりとした艶を帯び始めた。黒い液体のような光沢が、鉢の底に生まれる。
カカオマスの完成だ。
僕は震える指で、その黒いペーストを少しだけすくい、なめてみた。
……苦い。
強烈な苦味と、酸味。そして豊かな香り。
砂糖が入っていないカカオ100%の状態だから当然だ。現代人なら「ハイカカオ」として楽しめるかもしれないが、この世界の人にとっては毒に近い味だろう。
ここに、砂糖を加える。
手元にあるのは、市場で買ってきた安物の黒砂糖だ。精製度が低く、雑味が多いが、今はこれしかない。
砂糖を細かく砕き、カカオマスに投入する。再びすり潰し、混ぜ合わせる。
ジャリジャリとした砂糖の粒子が、次第にカカオの油分と馴染んでいく。
粒子を舌で感じないレベルまで細かくするには、何十時間というコンチング(練り上げ)が必要だが、今はまず「食べられる形」にすることが先決だ。
ある程度馴染んだところで、型に流し込む。型といっても、木を削って作った四角い枠だ。
トントンと底を叩いて空気を抜き、冷暗所に置く。
温度を下げるために、再び魔石を使う。今度は「吸熱」の特性を持つ水属性の魔石だ。これを箱の周りに配置し、簡易的な冷蔵庫を作る。
固まるのを待つ間、僕は台所の床にへたり込んだ。
全身の力が抜け、指一本動かせない。
けれど、心は満たされていた。
完成したのだ。
この世界で最初の、チョコレートが。
***
夕方になり、作業を終えたミナが遊びに来た。
「ルカ、いる? なんか家の中からすごい匂いが……」
彼女が居間に入ってくると同時に、僕は冷やしておいた木枠を持っていった。
「ミナ、ちょうど良かった」
「え、何それ? 黒い……板?」
ミナは不思議そうに僕の手元をのぞき込む。
枠から外したそれは、少し歪で、表面もざらついている。市販のチョコレートのような鏡のような光沢はない。
それでも、それは紛れもなくチョコレートだった。
「食べてみてほしいんだ。これが、僕がずっと作りたかったものだ」
僕は一口大に割った欠片を、ミナに差し出した。
彼女は少しひるんだ様子を見せたが、僕の真剣な眼差しに意を決したように頷き、その黒い欠片を口に入れた。
一秒、二秒。
ミナの動きが止まる。
モグモグと口を動かし、そして、目が大きく見開かれた。
「……!」
言葉にならない声が漏れる。
彼女は口元を手で押さえ、驚きと喜びが入り混じったような表情で僕を見た。
「何これ……すごい」
「どう? 美味しい?」
「うん、美味しい! 美味しいよルカ! 最初はちょっと苦いと思ったけど、すぐに甘くなって、口の中でとろけて……こんなの初めて!」
ミナの瞳がキラキラと輝いている。
「香りがすごいわ。口の中から鼻に抜けて、いつまでも美味しい匂いが残ってる。それに、食べると何だか、心が温かくなるような……」
彼女は二つ目の欠片に手を伸ばした。
その笑顔を見た瞬間、僕の苦労はすべて報われた。
たった一人でもいい。
誰かを笑顔にできるなら、それは立派な菓子だ。
僕は安心の息をつくと同時に、強い決意を抱いた。
いける。
これなら、この世界でも通用する。
まだ試作品だ。砂糖の質も悪いし、口どけも悪い。改良の余地は山ほどある。
けれど、この「黒い宝石」は、必ず人々を魅了する。
「ミナ、もっと食べる?」
「食べる! 全部食べていい?」
「さすがに全部は食べ過ぎだよ。鼻血が出るぞ」
「えー、ケチー」
笑い合う僕たちの横で、窓の外には一番星が輝いていた。
小さな農村の、小さな台所から。
甘くてほろ苦い革命が、今まさに始まろうとしていた。
その間、僕は一日に何度も小屋へ足を運び、木箱の中身をかき混ぜた。発酵を均一にするための「切り返し」という作業だ。
蓋を開けるたびに、鼻を突く匂いが変化していくのがわかる。
最初は甘酸っぱい果物の香りだったのが、次第にツンとした酢酸の匂いに変わり、やがてそれに混じって、ほのかに深みのある、大地の香りが漂い始めた。
そして今日が、運命の乾燥初日だ。
僕は小屋から木箱を運び出し、天日干し用の台の上に広げた。
中身を見た瞬間、僕は拳を握りしめた。
豆はふっくらと膨らみ、表面は美しい赤茶色に変わっている。ナイフで一つ割ってみると、断面には綺麗な筋が入っており、中心部までしっかりと色が回っていた。
「……成功だ」
僕の声が、震えていた。
発酵は完璧だ。微生物たちは素晴らしい仕事をしてくれた。
だが、ここで気を抜くわけにはいかない。次は乾燥だ。水分を適度に抜かなければ、保存が利かないし、次の焙煎の工程にも進めない。
太陽の下、竹ざるに広げた豆を丁寧に並べる。
急激に乾燥させると豆が割れてしまうし、遅すぎるとカビが生える。空模様を常に気にしながら、手で優しく転がして、まんべんなく日光を当てる。
その様子を、父のガンツが見ていた。
「ルカ、それが例のオニノミか」
太い腕組みをして、父が近づいてくる。
僕は作業の手を止め、姿勢を正した。
「うん。正確には、カカの実って呼んでるけどね」
「色は悪くねえが……本当に食えるのか?」
「まだ今は無理だよ。ここからさらに加工しないと」
父は疑わしそうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
以前なら「農作業に戻れ」と怒鳴られていただろう。けれど最近の父は、僕の作業を黙認してくれている。
それは僕が農作業の手を抜かなくなったからかもしれないし、あるいは僕の目に宿る真剣さに、何かを感じ取ってくれたからかもしれない。
「無理はするなよ」
父はそれだけ言い残して、畑の方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、僕は心の中で感謝した。無関心や反対がないだけで、どれほど救われるか。
乾燥作業は五日間続いた。
豆の水分が抜け、一回り小さくなり、カラカラと乾いた音がするようになる。
いよいよ、焙煎だ。
ここからは香りの錬金術の時間だ。
僕は台所のカマドに火を入れた。鉄製の分厚いフライパンを用意し、乾燥した豆を投入する。
弱火でじっくりと、豆に熱を入れていく。
木べらで絶えず豆を動かし続ける。焦がしてはいけない。けれど、芯まで火を通さなければ、あの香りは生まれない。
パチッ、パチッ。
豆が爆ぜる音がし始める。
その瞬間、台所に劇的な変化が訪れた。
煙とともに立ち昇ったのは、酢酸の匂いではない。
それは、懐かしく、かぐわしく、そして圧倒的な存在感を持つ香り。
チョコレートの香りだ。
「きた……!」
目頭が熱くなるのを感じた。
この世界に来て十四年。夢にまで見たあの香りが、今、目の前にある。
それはまだ荒々しく、野生味に溢れているが、間違いなくカカオの香りだった。
騒ぎを聞きつけたのか、母さんが台所に入ってきた。
「あら、ルカ。何か焦がしたの? ……って、何このいい匂い」
母さんは目を丸くして、鼻をクンクンと動かしている。
「焦げ臭いけど……なんか、すごく美味しそうな匂いがするわね。香ばしくて、ちょっと甘いような」
「これがカカの実の本当の香りだよ、母さん」
僕は興奮を抑えきれずに答えた。
焙煎を終えた豆を冷まし、皮をむく。
現れたのは、黒に近い焦げ茶色の中身。カカオニブだ。
これを、すり鉢に入れる。
現代の機械があれば一瞬でペースト状にできるが、ここにはそんなものはない。自分の腕と、石の重さだけが頼りだ。
ゴリ、ゴリ、ゴリ。
力を込めて、豆をすり潰していく。
摩擦熱で豆に含まれる油分――ココアバターが溶け出し、次第に粉末がペースト状に変わっていくはずだ。
しかし、これが想像以上に重労働だった。
三十分も続けると、腕がパンパンになり、汗が滴り落ちてくる。
「くそっ……こんなところで……」
腕の感覚がなくなってくる。それでも手は止めない。
滑らかになれ。もっと滑らかに。
そう念じながら、ひたすらすり棒を回し続ける。
やがて、ザラザラしていた粉末が、ねっとりとした艶を帯び始めた。黒い液体のような光沢が、鉢の底に生まれる。
カカオマスの完成だ。
僕は震える指で、その黒いペーストを少しだけすくい、なめてみた。
……苦い。
強烈な苦味と、酸味。そして豊かな香り。
砂糖が入っていないカカオ100%の状態だから当然だ。現代人なら「ハイカカオ」として楽しめるかもしれないが、この世界の人にとっては毒に近い味だろう。
ここに、砂糖を加える。
手元にあるのは、市場で買ってきた安物の黒砂糖だ。精製度が低く、雑味が多いが、今はこれしかない。
砂糖を細かく砕き、カカオマスに投入する。再びすり潰し、混ぜ合わせる。
ジャリジャリとした砂糖の粒子が、次第にカカオの油分と馴染んでいく。
粒子を舌で感じないレベルまで細かくするには、何十時間というコンチング(練り上げ)が必要だが、今はまず「食べられる形」にすることが先決だ。
ある程度馴染んだところで、型に流し込む。型といっても、木を削って作った四角い枠だ。
トントンと底を叩いて空気を抜き、冷暗所に置く。
温度を下げるために、再び魔石を使う。今度は「吸熱」の特性を持つ水属性の魔石だ。これを箱の周りに配置し、簡易的な冷蔵庫を作る。
固まるのを待つ間、僕は台所の床にへたり込んだ。
全身の力が抜け、指一本動かせない。
けれど、心は満たされていた。
完成したのだ。
この世界で最初の、チョコレートが。
***
夕方になり、作業を終えたミナが遊びに来た。
「ルカ、いる? なんか家の中からすごい匂いが……」
彼女が居間に入ってくると同時に、僕は冷やしておいた木枠を持っていった。
「ミナ、ちょうど良かった」
「え、何それ? 黒い……板?」
ミナは不思議そうに僕の手元をのぞき込む。
枠から外したそれは、少し歪で、表面もざらついている。市販のチョコレートのような鏡のような光沢はない。
それでも、それは紛れもなくチョコレートだった。
「食べてみてほしいんだ。これが、僕がずっと作りたかったものだ」
僕は一口大に割った欠片を、ミナに差し出した。
彼女は少しひるんだ様子を見せたが、僕の真剣な眼差しに意を決したように頷き、その黒い欠片を口に入れた。
一秒、二秒。
ミナの動きが止まる。
モグモグと口を動かし、そして、目が大きく見開かれた。
「……!」
言葉にならない声が漏れる。
彼女は口元を手で押さえ、驚きと喜びが入り混じったような表情で僕を見た。
「何これ……すごい」
「どう? 美味しい?」
「うん、美味しい! 美味しいよルカ! 最初はちょっと苦いと思ったけど、すぐに甘くなって、口の中でとろけて……こんなの初めて!」
ミナの瞳がキラキラと輝いている。
「香りがすごいわ。口の中から鼻に抜けて、いつまでも美味しい匂いが残ってる。それに、食べると何だか、心が温かくなるような……」
彼女は二つ目の欠片に手を伸ばした。
その笑顔を見た瞬間、僕の苦労はすべて報われた。
たった一人でもいい。
誰かを笑顔にできるなら、それは立派な菓子だ。
僕は安心の息をつくと同時に、強い決意を抱いた。
いける。
これなら、この世界でも通用する。
まだ試作品だ。砂糖の質も悪いし、口どけも悪い。改良の余地は山ほどある。
けれど、この「黒い宝石」は、必ず人々を魅了する。
「ミナ、もっと食べる?」
「食べる! 全部食べていい?」
「さすがに全部は食べ過ぎだよ。鼻血が出るぞ」
「えー、ケチー」
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