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第4話「商人の天秤」
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アルンの街に、冷たい秋風が吹き抜けていた。
石畳の上を枯れ葉が転がり、乾いた音を立てている。僕は襟を立てて、外套の前をしっかりと合わせた。懐には、昨日徹夜で仕上げた『ショコラ・改』が入っている。
目の前にそびえ立つのは、商人ギルドの重厚な石造りの建物だ。
入り口の扉は分厚いオーク材で作られており、真鍮の取っ手は使い込まれて鈍い光を放っている。見上げるほどの高さがあるその扉は、まるで拒絶しているようにも、試しているようにも見えた。
僕は深呼吸を一つして、その重い扉を押し開けた。
カラン、コロン。
来客を告げる鐘の音が、高い天井に吸い込まれていく。
中は暖かかった。暖炉の火がパチパチと燃える音、紙をめくる音、そして低い話し声が入り混じっている。独特のインクと羊皮紙の匂いが鼻を突いた。
「……予約していた、ルカです」
受付の女性に声をかけると、彼女は手元の帳面を確認し、すぐに奥の部屋へと案内してくれた。
通されたのは、壁一面に本棚が並ぶ応接室だった。
部屋の中央には、猫足の豪華なテーブルが置かれている。その向こう側に、先日市場で会った老人、マルセルが座っていた。
「よく来たな、少年」
マルセルは読んでいた書類を脇に置き、眼鏡の位置を指で直した。
市場で見た時のラフな格好とは違い、今日は仕立ての良いベストを着込み、商人としての威厳をまとっている。その瞳は鋭く、まるで獲物を見定めるワシやタカのようだ。
「失礼します」
僕は緊張を悟られないように背筋を伸ばし、対面の椅子に腰を下ろした。
ふかふかの座面が沈み込む。その座り心地の良さが、かえって居心地の悪さを助長させた。
「さて、無駄話は好まない。例の物は持ってきたか?」
「はい」
僕は鞄から木箱を取り出し、テーブルの上に置いた。
蓋を開けると、そこには前回よりも形を整えた、長方形のチョコレートが六枚、行儀よく並んでいる。
マルセルの目が、光った。
「ほう……見た目は前回より洗練されたな」
「はい。型を作り直しました。それと、配合も少し変えています」
マルセルは無言で一枚をつまみ上げ、光にかざして表面の艶を確認した。そして、ためらいなく口へと運ぶ。
部屋に沈黙が落ちた。
聞こえるのは、壁にかかった振り子時計の音だけ。カチ、カチ、カチ、という規則正しいリズムが、僕の心臓の鼓動と重なっていく。
長い。
たった数十秒が、数時間にも感じられる。
マルセルは目を閉じ、舌の上で転がすように味わっている。その表情からは、感情が読み取れない。
やがて、彼はゆっくりと目を開けた。
「……砂糖を変えたな?」
ズバリと言い当てられ、僕は息を呑んだ。
「わかりますか」
「以前の雑味が消え、カカオとかいう実の香りが前面に出ている。舌触りも、砂のようなザラつきが減り、絹のような滑らかさに近づいた。……悪くない」
安堵の息が漏れそうになるのを、ぐっとこらえる。
だが、マルセルの表情は緩まなかった。
「だが、これを作るのにどれだけのコストがかかっている?」
鋭い質問が飛んできた。
「……手間賃を除けば、材料費だけで銀貨一枚分くらいです」
「ほう。それに君の労働力と技術料を乗せれば、売値は銀貨二枚か三枚といったところか。……高いな」
マルセルは冷徹に言い放った。
「平民が気軽に買える値段ではない。貴族や富裕層向けの嗜好品だ。だが、彼らは味だけでは金を出さない。見た目、包装、そして『物語』に金を払うのだ」
物語。
その言葉が、僕の胸に刺さった。
「ただ美味しいだけの菓子なら、王都のパティシエが作るケーキには勝てん。あれは見た目も華やかで、職人の技術の結晶だ。君のこの黒い板は、確かに美味いが、華がない」
反論できなかった。
今の僕には、現代的な包装紙も、お洒落なリボンもない。ただの葉っぱで包んだだけの、武骨な塊だ。
「そこでだ」
マルセルは身を乗り出し、机の上で指を組んだ。
「私が投資をしよう」
「……え?」
「君の技術には可能性がある。だが、商品としては未熟だ。私が販路と、パッケージの資材、そして砂糖の仕入れルートを提供しよう。その代わり、君はこの『ショコラ』の製造に専念し、私に卸すのだ」
それは、願ってもない申し出だった。
個人の力では限界がある。特に砂糖の入手と販売ルートの確保は、農村の子供には高すぎるハードルだ。
しかし、それは同時に、僕がただの下請け職人になることも意味していた。
僕はマルセルの目を見つめ返した。
その瞳の奥には、計算高い商人の色と、純粋に新しい商材を楽しむ冒険者の色が混在していた。
「……条件があります」
僕は喉の渇きを覚えながらも、声を絞り出した。
「なんだ? 言ってみろ」
「品質の管理は、すべて僕に任せてください。どんなに注文が増えても、僕が納得できないものは出しません。それと、ブランド名は僕が決めること。この二つが守れないなら、この話はなかったことにします」
生意気だと思われただろうか。
けれど、これだけは譲れない。チョコレートは僕の誇りであり、前世からの大切な絆なのだ。
マルセルは驚いたように目を丸くし、それから低く笑い声を上げた。
「ククク……ハハハ! いい度胸だ。農家のせがれにしておくには惜しいな」
彼は楽しそうに机を叩いた。
「いいだろう。品質へのこだわりこそが、高級品の価値を高める。その条件、飲んでやる」
マルセルは引き出しから一枚の羊皮紙を取り出し、素早くペンを走らせた。契約書だ。
「だが、忘れるなよ。お前が品質を落とせば、契約は即破棄だ。それに、安定供給も義務付けられる。カカオの実の確保は大丈夫なんだろうな?」
「はい。栽培方法も確立しつつあります。森の一部を管理して、収穫量を増やしていますから」
「ならいい。……サインしろ」
差し出されたペンを受け取る。
指先が少し震えた。
このサイン一つで、僕の人生が大きく変わる。ただの農民から、チョコレート職人への第一歩。
僕は大きく息を吸い込み、紙の上に『ルカ』と記した。
インクが紙に染み込んでいくのを見ながら、僕は心の中で誓った。
絶対に、このチャンスを逃さない。
この世界中の人を、僕のチョコレートで笑顔にしてみせるんだ、と。
「取引成立だ、ルカ。……忙しくなるぞ」
マルセルの言葉通り、その日から僕の生活は一変することになった。
穏やかな農村の日々は終わり、甘く激しい戦いの幕が開けたのだ。
***
帰り道、馬車に揺られながら、僕は懐の契約書に触れた。
羊皮紙の感触が、現実味を帯びて伝わってくる。
ふと、窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。空は茜色と紫色のグラデーションに染まり、遠くの山並みが黒いシルエットとなって浮かび上がっている。
美しい景色だ。
けれど、僕の頭の中はこれからの計画でいっぱいだった。
まずは砂糖だ。マルセルがルートを紹介してくれると言っても、最高級の砂糖は依然として高価だ。利益を出すためには、コストを抑えつつ品質を維持する方法を考えなければならない。
そして、生産体制。
一人でやれる量には限界がある。誰か、手伝ってくれる人が必要だ。
信頼できて、器用で、何よりチョコレートへの愛がある人。
……一人だけ、心当たりがあった。
茶色い髪の、笑顔が可愛い幼なじみの顔が浮かぶ。
「ミナ……協力してくれるかな」
僕は小さくつぶやいた。
彼女なら、きっと面白がってくれるはずだ。
馬車が村に近づくにつれて、家々の窓から漏れる灯りが見えてきた。
その中の一つ、僕の家の隣にある小さな家にも、暖かいオレンジ色の光が灯っている。
その光を見ていると、自然と口元が緩んだ。
早く帰って、報告しよう。
金貨の重みと、未来への希望を。
石畳の上を枯れ葉が転がり、乾いた音を立てている。僕は襟を立てて、外套の前をしっかりと合わせた。懐には、昨日徹夜で仕上げた『ショコラ・改』が入っている。
目の前にそびえ立つのは、商人ギルドの重厚な石造りの建物だ。
入り口の扉は分厚いオーク材で作られており、真鍮の取っ手は使い込まれて鈍い光を放っている。見上げるほどの高さがあるその扉は、まるで拒絶しているようにも、試しているようにも見えた。
僕は深呼吸を一つして、その重い扉を押し開けた。
カラン、コロン。
来客を告げる鐘の音が、高い天井に吸い込まれていく。
中は暖かかった。暖炉の火がパチパチと燃える音、紙をめくる音、そして低い話し声が入り混じっている。独特のインクと羊皮紙の匂いが鼻を突いた。
「……予約していた、ルカです」
受付の女性に声をかけると、彼女は手元の帳面を確認し、すぐに奥の部屋へと案内してくれた。
通されたのは、壁一面に本棚が並ぶ応接室だった。
部屋の中央には、猫足の豪華なテーブルが置かれている。その向こう側に、先日市場で会った老人、マルセルが座っていた。
「よく来たな、少年」
マルセルは読んでいた書類を脇に置き、眼鏡の位置を指で直した。
市場で見た時のラフな格好とは違い、今日は仕立ての良いベストを着込み、商人としての威厳をまとっている。その瞳は鋭く、まるで獲物を見定めるワシやタカのようだ。
「失礼します」
僕は緊張を悟られないように背筋を伸ばし、対面の椅子に腰を下ろした。
ふかふかの座面が沈み込む。その座り心地の良さが、かえって居心地の悪さを助長させた。
「さて、無駄話は好まない。例の物は持ってきたか?」
「はい」
僕は鞄から木箱を取り出し、テーブルの上に置いた。
蓋を開けると、そこには前回よりも形を整えた、長方形のチョコレートが六枚、行儀よく並んでいる。
マルセルの目が、光った。
「ほう……見た目は前回より洗練されたな」
「はい。型を作り直しました。それと、配合も少し変えています」
マルセルは無言で一枚をつまみ上げ、光にかざして表面の艶を確認した。そして、ためらいなく口へと運ぶ。
部屋に沈黙が落ちた。
聞こえるのは、壁にかかった振り子時計の音だけ。カチ、カチ、カチ、という規則正しいリズムが、僕の心臓の鼓動と重なっていく。
長い。
たった数十秒が、数時間にも感じられる。
マルセルは目を閉じ、舌の上で転がすように味わっている。その表情からは、感情が読み取れない。
やがて、彼はゆっくりと目を開けた。
「……砂糖を変えたな?」
ズバリと言い当てられ、僕は息を呑んだ。
「わかりますか」
「以前の雑味が消え、カカオとかいう実の香りが前面に出ている。舌触りも、砂のようなザラつきが減り、絹のような滑らかさに近づいた。……悪くない」
安堵の息が漏れそうになるのを、ぐっとこらえる。
だが、マルセルの表情は緩まなかった。
「だが、これを作るのにどれだけのコストがかかっている?」
鋭い質問が飛んできた。
「……手間賃を除けば、材料費だけで銀貨一枚分くらいです」
「ほう。それに君の労働力と技術料を乗せれば、売値は銀貨二枚か三枚といったところか。……高いな」
マルセルは冷徹に言い放った。
「平民が気軽に買える値段ではない。貴族や富裕層向けの嗜好品だ。だが、彼らは味だけでは金を出さない。見た目、包装、そして『物語』に金を払うのだ」
物語。
その言葉が、僕の胸に刺さった。
「ただ美味しいだけの菓子なら、王都のパティシエが作るケーキには勝てん。あれは見た目も華やかで、職人の技術の結晶だ。君のこの黒い板は、確かに美味いが、華がない」
反論できなかった。
今の僕には、現代的な包装紙も、お洒落なリボンもない。ただの葉っぱで包んだだけの、武骨な塊だ。
「そこでだ」
マルセルは身を乗り出し、机の上で指を組んだ。
「私が投資をしよう」
「……え?」
「君の技術には可能性がある。だが、商品としては未熟だ。私が販路と、パッケージの資材、そして砂糖の仕入れルートを提供しよう。その代わり、君はこの『ショコラ』の製造に専念し、私に卸すのだ」
それは、願ってもない申し出だった。
個人の力では限界がある。特に砂糖の入手と販売ルートの確保は、農村の子供には高すぎるハードルだ。
しかし、それは同時に、僕がただの下請け職人になることも意味していた。
僕はマルセルの目を見つめ返した。
その瞳の奥には、計算高い商人の色と、純粋に新しい商材を楽しむ冒険者の色が混在していた。
「……条件があります」
僕は喉の渇きを覚えながらも、声を絞り出した。
「なんだ? 言ってみろ」
「品質の管理は、すべて僕に任せてください。どんなに注文が増えても、僕が納得できないものは出しません。それと、ブランド名は僕が決めること。この二つが守れないなら、この話はなかったことにします」
生意気だと思われただろうか。
けれど、これだけは譲れない。チョコレートは僕の誇りであり、前世からの大切な絆なのだ。
マルセルは驚いたように目を丸くし、それから低く笑い声を上げた。
「ククク……ハハハ! いい度胸だ。農家のせがれにしておくには惜しいな」
彼は楽しそうに机を叩いた。
「いいだろう。品質へのこだわりこそが、高級品の価値を高める。その条件、飲んでやる」
マルセルは引き出しから一枚の羊皮紙を取り出し、素早くペンを走らせた。契約書だ。
「だが、忘れるなよ。お前が品質を落とせば、契約は即破棄だ。それに、安定供給も義務付けられる。カカオの実の確保は大丈夫なんだろうな?」
「はい。栽培方法も確立しつつあります。森の一部を管理して、収穫量を増やしていますから」
「ならいい。……サインしろ」
差し出されたペンを受け取る。
指先が少し震えた。
このサイン一つで、僕の人生が大きく変わる。ただの農民から、チョコレート職人への第一歩。
僕は大きく息を吸い込み、紙の上に『ルカ』と記した。
インクが紙に染み込んでいくのを見ながら、僕は心の中で誓った。
絶対に、このチャンスを逃さない。
この世界中の人を、僕のチョコレートで笑顔にしてみせるんだ、と。
「取引成立だ、ルカ。……忙しくなるぞ」
マルセルの言葉通り、その日から僕の生活は一変することになった。
穏やかな農村の日々は終わり、甘く激しい戦いの幕が開けたのだ。
***
帰り道、馬車に揺られながら、僕は懐の契約書に触れた。
羊皮紙の感触が、現実味を帯びて伝わってくる。
ふと、窓の外を見ると、夕日が沈みかけていた。空は茜色と紫色のグラデーションに染まり、遠くの山並みが黒いシルエットとなって浮かび上がっている。
美しい景色だ。
けれど、僕の頭の中はこれからの計画でいっぱいだった。
まずは砂糖だ。マルセルがルートを紹介してくれると言っても、最高級の砂糖は依然として高価だ。利益を出すためには、コストを抑えつつ品質を維持する方法を考えなければならない。
そして、生産体制。
一人でやれる量には限界がある。誰か、手伝ってくれる人が必要だ。
信頼できて、器用で、何よりチョコレートへの愛がある人。
……一人だけ、心当たりがあった。
茶色い髪の、笑顔が可愛い幼なじみの顔が浮かぶ。
「ミナ……協力してくれるかな」
僕は小さくつぶやいた。
彼女なら、きっと面白がってくれるはずだ。
馬車が村に近づくにつれて、家々の窓から漏れる灯りが見えてきた。
その中の一つ、僕の家の隣にある小さな家にも、暖かいオレンジ色の光が灯っている。
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金貨の重みと、未来への希望を。
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