2 / 15
第1話「破滅フラグ回避、最初の仕事はギルド再建」
しおりを挟む
無数の水晶粒を散りばめたシャンデリアが、磨き上げられた大理石の床に眩い光の破片を乱反射させている。王立アカデミーの卒業記念パーティー。集うのは、この国の未来を担う若き貴族の子弟たち。軽やかなワルツの音色、華やかなドレスの擦れる音、楽しげな談笑。そのすべてが、今の私、イザベラ・フォン・ヴァイスハイトには、遠い世界の出来事のように感じられた。
私の目の前には、このエルムガンド王国の第一王子であり、婚約者であるアルフォンスが、氷のように冷たい瞳で私を見下ろしている。彼の隣には、庇護欲をそそる可憐な男爵令嬢リリアナが、不安げに寄り添っていた。
ああ、知っている。この光景を、私は知っている。
「イザベラ・フォン・ヴァイスハイト! お前の嫉妬深い行いは、もはや見過ごすことはできない! お前がリリアナ嬢に対して行ってきた数々の嫌がらせ、その罪は到底許されるものではない!」
アルフォンスの声が、音楽の止んだホールに厳かに響き渡る。周囲の貴族たちが、驚きと好奇、そして侮蔑が入り混じった視線で私を射抜く。
「よって私は、お前との婚約を、今この場をもって破棄する!」
その言葉が引き金だった。ズキリ、とこめかみが激しく痛む。視界がぐにゃりと歪み、無数の映像と情報が、濁流のように頭の中へ流れ込んできた。
(東京。高層ビル。満員電車。プレゼン用の企画書。クライアントへのプレゼン。徹夜続きのプロジェクト)
そうだ、私は……思い出した。
私は、イザベラであると同時に、現代日本で経営コンサルタントとして働いていた、三十代のOLだったのだ。そして、この世界は、私が前世でプレイしていた乙女ゲーム『王立アカデミーの恋詩(ラブソング)』の世界。目の前の光景は、悪役令嬢イザベラが断罪される、物語のオープニングイベントそのものだった。
ゲームのイザベラは、この直後に王子へ暴言を吐いて騎士に取り押さえられる。そして国外追放か修道院への幽閉、という破滅の道を辿るのだ。この断罪劇を裏で糸引いていたのが、我がヴァイスハイト公爵家と対立するマルクス・フォン・シュヴァルツ侯爵。彼はこの事件をきっかけに、ヴァイスハイト家に様々な濡れ衣を着せ、ついには爵位剥奪、領地没収へと追い込む。父は心労で倒れ、母は悲しみに暮れ、まだ幼い弟はどこかへ養子に出される……。
冗談じゃない。そんな未来、絶対に受け入れてなるものか。
脳裏を駆け巡る破滅のシナリオを、奥歯を噛み締めて振り払う。全身から血の気が引くような恐怖と、腹の底から湧き上がる怒り。そして、コンサルタントとして幾多の窮地を乗り越えてきた、冷静な思考が頭をもたげた。
(現状分析。敵はシュヴァルツ侯爵。目的はヴァイスハイト家の失脚。婚約破棄はその第一歩。王子は完全に侯爵の嘘を信じ込んでいる。ここで感情的に反論しても、ゲームのシナリオ通りになるだけ。ならば、取るべき行動は一つ)
彼らの予想を、期待を、シナリオを、根底から覆す一手だった。
私は、恐怖で震える膝に力を込め、ゆっくりと顔を上げた。涙も怒りも表情から消し去り、淑女の礼法に則った、完璧なカーテシーを一つ。
「アルフォンス殿下。そのご決断、謹んでお受けいたします」
凛と響いた私の声に、ホールが水を打ったように静まり返った。アルフォンスが、リリアナが、そして野次馬たちが、信じられないものを見るような目で私を凝視している。シナリオでは、ここで私が泣き叫ぶはずだったのだから。
「リリアナ様とのこと、心よりお祝い申し上げます。私では、殿下のお相手は務まりませんでした。どうぞ、お幸せに」
完璧な微笑みを浮かべてみせる。アルフォンスは戸惑いを隠せないようだ。彼の正義感の強さは知っている。私がこうも潔く身を引くと、逆に自分が何か間違いを犯したのではないかと、わずかながら疑念が芽生えるはずだ。
「そ、そうか……。わかってくれれば、それでいい」
歯切れの悪い返事をする王子を横目に、私は父であるヴァイスハイト公爵の方へ向き直った。父は、娘が公衆の面前で辱められたことに憤慨し、顔を真っ赤にしている。
「お父様」
「イザベラ、何も言うな。こんな理不尽、私が許さん!」
「いいえ、お父様。私はもう、王子の婚約者ではありません。公爵令嬢として、ただ家にいるだけの身では、ヴァイスハイト家の不名誉をすすぐことはできません」
私は一呼吸置き、ホールにいる全員に聞こえるよう、はっきりと宣言した。
「つきましては、お父様が趣味で続けていらっしゃる冒険者ギルド『白銀の獅子』の運営を、本日よりこの私が引き継ぎたく存じます!」
その瞬間、静寂は破られた。今度こそ、ホールは大きなざわめきに包まれた。
「ギルドだと?」
「公爵令嬢が?」
「気でも狂ったか」
嘲笑と侮蔑が、さざ波のように広がる。無理もない。貴族の令嬢が、荒くれ者の集う冒険者ギルドの運営に携わるなど前代未聞。ましてや『白銀の獅子』は、父が道楽で始めたものの、長年の赤字経営で、いつ潰れてもおかしくないお荷物ギルドとして有名だった。
父も驚きで目を見開いている。
「イザベラ、何を言っているんだ! あんな場所は、お前が行くようなところではない!」
「いいえ、行かせていただきます。このままでは、私はただの『王子に捨てられた女』。ですが、ギルドを立て直し、王国の発展に貢献できたなら、ヴァイスハイト家の名誉を回復することも叶いましょう。どうか、お許しください」
私は深く頭を下げた。これは賭けだ。しかし、衆人環視のなか宣言してしまえば、父も簡単には撤回できない。何より、シュヴァルツ侯爵のシナリオから完全に逸脱できる。彼の狙いは、私とヴァイスハイト家を社交界から孤立させ、徐々に追い詰めること。ならば、こちらから社交界の外、彼の影響力が及ばぬ土俵に降りてしまえばいい。
しばしの沈黙の後、父は深いため息をついた。
「……わかった。お前の覚悟、見届けよう。好きにするがいい」
その許可が出た瞬間、私は踵を返し、誰にも目もくれず、毅然とした足取りでパーティー会場を後にした。背中に突き刺さる視線が心地よかった。喧騒の中に、シュヴァルツ侯爵の苦々しい顔が目に浮かぶようだった。
(第一段階クリア。破滅フラグの回避)
さあ、ここからが本番だ。私の、本当の戦いが始まる。
***
翌日、父から正式な委任状を受け取った私は、お気に入りのドレスではなく、動きやすい乗馬服に着替え、ヴァイスハイト公爵家の紋章が入った豪華絢爛な馬車ではなく、簡素な辻馬車で『白銀の獅子』へと向かった。ギルドがあるのは、王都の賑やかな大通りから少し外れた、職人や労働者が多く住む下町の一角だ。
建物の前に立った瞬間、思わずため息が出た。
二階建ての木造建築は古びて薄汚れ、看板の「白銀の獅子」の文字はかすれて読みにくい。扉を開けると、カラン、という気の抜けたベルの音が鳴り、埃と汗と安い酒の匂いが混じった空気が鼻をついた。昼間だというのに、中は薄暗い。数人の冒険者らしき男たちが、やる気なさそうにテーブルで酒を飲んでいるだけ。壁に貼られた依頼書(クエスト)は数えるほどしかなく、そのほとんどが黄ばんでいた。
これが、私の新しい職場。
前世で手掛けたきらびやかなオフィスビルとは、天と地ほどの差だ。だが、不思議と心は燃えていた。ゼロからのスタート、いや、マイナスからのスタート。これほどコンサルタント魂をくすぐられる案件はない。
カウンターの奥で、帳簿を眺めて頭を抱えていた中年男性が、私の姿に気づいて顔を上げた。ギルドの数少ない職員、事務長のバルトロだ。
「お、お嬢様!? なぜこのような場所に……」
「バルトロ。話は父から聞いていますね。本日より、私がギルドマスター代理を務めます。イザベラ・フォン・ヴァイスハイトです。早速ですが、ギルドの財務状況と人員構成、現在の受注案件について、すべての資料を見せてください」
私が淀みなくそう告げると、バルトロだけでなく、酒を飲んでいた冒険者たちも、ぽかんとした顔でこちらを見た。彼らにとって、私は「世間知らずのお姫様」が遊びに来たくらいにしか見えていないだろう。
「は、はい……こちらへどうぞ」
バルトロに通された小さな事務所で、私は山のような羊皮紙の資料に目を通し始めた。売上、経費、冒険者の登録数、依頼の達成率……。数字は嘘をつかない。そして、そこから見えてきた現実は、想像以上に深刻だった。
(依頼が少ないから冒険者が集まらない。冒険者がいないから難しい依頼は受けられない。結果、さらに依頼が減る。典型的な負のスパイラルだ)
「まずは、この状況を打開します」
私は立ち上がると、ギルドのホールにいる冒険者たちを呼び集めた。目の前に並んだのは、古参らしい態度の悪い中年男たちばかり五人。
「皆さん。私はこのギルドを立て直すために来ました。そのための改革案を提示します。第一に『依頼(クエスト)の可視化』。すべての依頼内容、推奨レベル、危険度、そして報酬を明確にリスト化し、誰でも閲覧できるようにします。第二に『成果報酬制度の明確化』。依頼の達成度に応じて、基本報酬にボーナスを加算するシステムを導入します」
前世のビジネスの常識。だが、この世界では画期的な提案だったらしい。しかし、彼らの反応は冷ややかだった。
「けっ、お嬢様のままごとか」
一番態度の悪い、髭面の男が吐き捨てる。
「俺たちはな、長年の勘で仕事を選んでんだ。いちいちそんなもんに目を通すかよ」
「そうだそうだ。それにボーナスだぁ? どうせ大した額じゃねえだろう」
反発は予想通り。信頼がない状態で、正論を振りかざしても意味はない。ならば、必要なのは一つ。
(実績だ。この私が、彼らよりも有能であることを、結果で示す)
私は、壁に貼られた依頼書の中から、一枚を剥がした。
「では、手始めにこの依頼を私が達成してみせましょう」
その依頼書を見た瞬間、冒険者たちの顔色が変わった。
「お、おい、そいつは……やめとけ、お嬢様! 死ぬぞ!」
彼らが血相を変えて止めるのも無理はない。それは、誰もが避ける依頼だった。
【緊急討伐依頼:西の森のゴブリンの巣。ゴブリン十数匹。リーダー格のホブゴブリン一体を確認。被害甚大】
報酬は高いが、危険度も高い。過去に二つのパーティーが挑み、いずれも重傷者を出し、撤退している。素人の令嬢が手を出していい案件では、断じてない。
「バルトロ、ギルドの倉庫にある地図、燻り玉、罠の在庫をすべて教えてください。それと、腕の立つ斥候(スカウト)と、回復魔法の心得がある方を一人ずつ、臨時で雇います。費用は私の私費で構いません」
私は彼らの制止を無視し、冷静に指示を出す。私の頭脳が、このゴブリン討伐を一つのプロジェクトとして捉え、瞬時にリスクとリソースを算出し、最適な実行計画を組み上げていく。
(情報収集(斥候)、リソース確保(ギルドの道具)、人員配置(臨時雇用)、そしてリスク分析)
「お嬢様、本気ですか!?」
「ええ、本気です。それと皆さん」
私は、呆然とする古参冒険者たちに向き直り、静かに、しかし力強く言い放った。
「私がこの依頼を、被害ゼロ、かつ過去最速で達成した暁には、私のやり方に従ってもらいます。よろしいですね?」
その挑戦的な言葉に、彼らはゴクリと息を呑んだ。私の瞳には、もはや昨日までの気弱な令嬢の面影はどこにもなかった。あるのは、困難なプロジェクトを前に、静かな闘志を燃やす、一人のプロフェッショナルの顔だった。
悪役令嬢のレッテルは、もういらない。今日から私は、ギルドマスター、イザベラだ。
私の目の前には、このエルムガンド王国の第一王子であり、婚約者であるアルフォンスが、氷のように冷たい瞳で私を見下ろしている。彼の隣には、庇護欲をそそる可憐な男爵令嬢リリアナが、不安げに寄り添っていた。
ああ、知っている。この光景を、私は知っている。
「イザベラ・フォン・ヴァイスハイト! お前の嫉妬深い行いは、もはや見過ごすことはできない! お前がリリアナ嬢に対して行ってきた数々の嫌がらせ、その罪は到底許されるものではない!」
アルフォンスの声が、音楽の止んだホールに厳かに響き渡る。周囲の貴族たちが、驚きと好奇、そして侮蔑が入り混じった視線で私を射抜く。
「よって私は、お前との婚約を、今この場をもって破棄する!」
その言葉が引き金だった。ズキリ、とこめかみが激しく痛む。視界がぐにゃりと歪み、無数の映像と情報が、濁流のように頭の中へ流れ込んできた。
(東京。高層ビル。満員電車。プレゼン用の企画書。クライアントへのプレゼン。徹夜続きのプロジェクト)
そうだ、私は……思い出した。
私は、イザベラであると同時に、現代日本で経営コンサルタントとして働いていた、三十代のOLだったのだ。そして、この世界は、私が前世でプレイしていた乙女ゲーム『王立アカデミーの恋詩(ラブソング)』の世界。目の前の光景は、悪役令嬢イザベラが断罪される、物語のオープニングイベントそのものだった。
ゲームのイザベラは、この直後に王子へ暴言を吐いて騎士に取り押さえられる。そして国外追放か修道院への幽閉、という破滅の道を辿るのだ。この断罪劇を裏で糸引いていたのが、我がヴァイスハイト公爵家と対立するマルクス・フォン・シュヴァルツ侯爵。彼はこの事件をきっかけに、ヴァイスハイト家に様々な濡れ衣を着せ、ついには爵位剥奪、領地没収へと追い込む。父は心労で倒れ、母は悲しみに暮れ、まだ幼い弟はどこかへ養子に出される……。
冗談じゃない。そんな未来、絶対に受け入れてなるものか。
脳裏を駆け巡る破滅のシナリオを、奥歯を噛み締めて振り払う。全身から血の気が引くような恐怖と、腹の底から湧き上がる怒り。そして、コンサルタントとして幾多の窮地を乗り越えてきた、冷静な思考が頭をもたげた。
(現状分析。敵はシュヴァルツ侯爵。目的はヴァイスハイト家の失脚。婚約破棄はその第一歩。王子は完全に侯爵の嘘を信じ込んでいる。ここで感情的に反論しても、ゲームのシナリオ通りになるだけ。ならば、取るべき行動は一つ)
彼らの予想を、期待を、シナリオを、根底から覆す一手だった。
私は、恐怖で震える膝に力を込め、ゆっくりと顔を上げた。涙も怒りも表情から消し去り、淑女の礼法に則った、完璧なカーテシーを一つ。
「アルフォンス殿下。そのご決断、謹んでお受けいたします」
凛と響いた私の声に、ホールが水を打ったように静まり返った。アルフォンスが、リリアナが、そして野次馬たちが、信じられないものを見るような目で私を凝視している。シナリオでは、ここで私が泣き叫ぶはずだったのだから。
「リリアナ様とのこと、心よりお祝い申し上げます。私では、殿下のお相手は務まりませんでした。どうぞ、お幸せに」
完璧な微笑みを浮かべてみせる。アルフォンスは戸惑いを隠せないようだ。彼の正義感の強さは知っている。私がこうも潔く身を引くと、逆に自分が何か間違いを犯したのではないかと、わずかながら疑念が芽生えるはずだ。
「そ、そうか……。わかってくれれば、それでいい」
歯切れの悪い返事をする王子を横目に、私は父であるヴァイスハイト公爵の方へ向き直った。父は、娘が公衆の面前で辱められたことに憤慨し、顔を真っ赤にしている。
「お父様」
「イザベラ、何も言うな。こんな理不尽、私が許さん!」
「いいえ、お父様。私はもう、王子の婚約者ではありません。公爵令嬢として、ただ家にいるだけの身では、ヴァイスハイト家の不名誉をすすぐことはできません」
私は一呼吸置き、ホールにいる全員に聞こえるよう、はっきりと宣言した。
「つきましては、お父様が趣味で続けていらっしゃる冒険者ギルド『白銀の獅子』の運営を、本日よりこの私が引き継ぎたく存じます!」
その瞬間、静寂は破られた。今度こそ、ホールは大きなざわめきに包まれた。
「ギルドだと?」
「公爵令嬢が?」
「気でも狂ったか」
嘲笑と侮蔑が、さざ波のように広がる。無理もない。貴族の令嬢が、荒くれ者の集う冒険者ギルドの運営に携わるなど前代未聞。ましてや『白銀の獅子』は、父が道楽で始めたものの、長年の赤字経営で、いつ潰れてもおかしくないお荷物ギルドとして有名だった。
父も驚きで目を見開いている。
「イザベラ、何を言っているんだ! あんな場所は、お前が行くようなところではない!」
「いいえ、行かせていただきます。このままでは、私はただの『王子に捨てられた女』。ですが、ギルドを立て直し、王国の発展に貢献できたなら、ヴァイスハイト家の名誉を回復することも叶いましょう。どうか、お許しください」
私は深く頭を下げた。これは賭けだ。しかし、衆人環視のなか宣言してしまえば、父も簡単には撤回できない。何より、シュヴァルツ侯爵のシナリオから完全に逸脱できる。彼の狙いは、私とヴァイスハイト家を社交界から孤立させ、徐々に追い詰めること。ならば、こちらから社交界の外、彼の影響力が及ばぬ土俵に降りてしまえばいい。
しばしの沈黙の後、父は深いため息をついた。
「……わかった。お前の覚悟、見届けよう。好きにするがいい」
その許可が出た瞬間、私は踵を返し、誰にも目もくれず、毅然とした足取りでパーティー会場を後にした。背中に突き刺さる視線が心地よかった。喧騒の中に、シュヴァルツ侯爵の苦々しい顔が目に浮かぶようだった。
(第一段階クリア。破滅フラグの回避)
さあ、ここからが本番だ。私の、本当の戦いが始まる。
***
翌日、父から正式な委任状を受け取った私は、お気に入りのドレスではなく、動きやすい乗馬服に着替え、ヴァイスハイト公爵家の紋章が入った豪華絢爛な馬車ではなく、簡素な辻馬車で『白銀の獅子』へと向かった。ギルドがあるのは、王都の賑やかな大通りから少し外れた、職人や労働者が多く住む下町の一角だ。
建物の前に立った瞬間、思わずため息が出た。
二階建ての木造建築は古びて薄汚れ、看板の「白銀の獅子」の文字はかすれて読みにくい。扉を開けると、カラン、という気の抜けたベルの音が鳴り、埃と汗と安い酒の匂いが混じった空気が鼻をついた。昼間だというのに、中は薄暗い。数人の冒険者らしき男たちが、やる気なさそうにテーブルで酒を飲んでいるだけ。壁に貼られた依頼書(クエスト)は数えるほどしかなく、そのほとんどが黄ばんでいた。
これが、私の新しい職場。
前世で手掛けたきらびやかなオフィスビルとは、天と地ほどの差だ。だが、不思議と心は燃えていた。ゼロからのスタート、いや、マイナスからのスタート。これほどコンサルタント魂をくすぐられる案件はない。
カウンターの奥で、帳簿を眺めて頭を抱えていた中年男性が、私の姿に気づいて顔を上げた。ギルドの数少ない職員、事務長のバルトロだ。
「お、お嬢様!? なぜこのような場所に……」
「バルトロ。話は父から聞いていますね。本日より、私がギルドマスター代理を務めます。イザベラ・フォン・ヴァイスハイトです。早速ですが、ギルドの財務状況と人員構成、現在の受注案件について、すべての資料を見せてください」
私が淀みなくそう告げると、バルトロだけでなく、酒を飲んでいた冒険者たちも、ぽかんとした顔でこちらを見た。彼らにとって、私は「世間知らずのお姫様」が遊びに来たくらいにしか見えていないだろう。
「は、はい……こちらへどうぞ」
バルトロに通された小さな事務所で、私は山のような羊皮紙の資料に目を通し始めた。売上、経費、冒険者の登録数、依頼の達成率……。数字は嘘をつかない。そして、そこから見えてきた現実は、想像以上に深刻だった。
(依頼が少ないから冒険者が集まらない。冒険者がいないから難しい依頼は受けられない。結果、さらに依頼が減る。典型的な負のスパイラルだ)
「まずは、この状況を打開します」
私は立ち上がると、ギルドのホールにいる冒険者たちを呼び集めた。目の前に並んだのは、古参らしい態度の悪い中年男たちばかり五人。
「皆さん。私はこのギルドを立て直すために来ました。そのための改革案を提示します。第一に『依頼(クエスト)の可視化』。すべての依頼内容、推奨レベル、危険度、そして報酬を明確にリスト化し、誰でも閲覧できるようにします。第二に『成果報酬制度の明確化』。依頼の達成度に応じて、基本報酬にボーナスを加算するシステムを導入します」
前世のビジネスの常識。だが、この世界では画期的な提案だったらしい。しかし、彼らの反応は冷ややかだった。
「けっ、お嬢様のままごとか」
一番態度の悪い、髭面の男が吐き捨てる。
「俺たちはな、長年の勘で仕事を選んでんだ。いちいちそんなもんに目を通すかよ」
「そうだそうだ。それにボーナスだぁ? どうせ大した額じゃねえだろう」
反発は予想通り。信頼がない状態で、正論を振りかざしても意味はない。ならば、必要なのは一つ。
(実績だ。この私が、彼らよりも有能であることを、結果で示す)
私は、壁に貼られた依頼書の中から、一枚を剥がした。
「では、手始めにこの依頼を私が達成してみせましょう」
その依頼書を見た瞬間、冒険者たちの顔色が変わった。
「お、おい、そいつは……やめとけ、お嬢様! 死ぬぞ!」
彼らが血相を変えて止めるのも無理はない。それは、誰もが避ける依頼だった。
【緊急討伐依頼:西の森のゴブリンの巣。ゴブリン十数匹。リーダー格のホブゴブリン一体を確認。被害甚大】
報酬は高いが、危険度も高い。過去に二つのパーティーが挑み、いずれも重傷者を出し、撤退している。素人の令嬢が手を出していい案件では、断じてない。
「バルトロ、ギルドの倉庫にある地図、燻り玉、罠の在庫をすべて教えてください。それと、腕の立つ斥候(スカウト)と、回復魔法の心得がある方を一人ずつ、臨時で雇います。費用は私の私費で構いません」
私は彼らの制止を無視し、冷静に指示を出す。私の頭脳が、このゴブリン討伐を一つのプロジェクトとして捉え、瞬時にリスクとリソースを算出し、最適な実行計画を組み上げていく。
(情報収集(斥候)、リソース確保(ギルドの道具)、人員配置(臨時雇用)、そしてリスク分析)
「お嬢様、本気ですか!?」
「ええ、本気です。それと皆さん」
私は、呆然とする古参冒険者たちに向き直り、静かに、しかし力強く言い放った。
「私がこの依頼を、被害ゼロ、かつ過去最速で達成した暁には、私のやり方に従ってもらいます。よろしいですね?」
その挑戦的な言葉に、彼らはゴクリと息を呑んだ。私の瞳には、もはや昨日までの気弱な令嬢の面影はどこにもなかった。あるのは、困難なプロジェクトを前に、静かな闘志を燃やす、一人のプロフェッショナルの顔だった。
悪役令嬢のレッテルは、もういらない。今日から私は、ギルドマスター、イザベラだ。
0
あなたにおすすめの小説
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる