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第1話 冬の盛りに ①
しおりを挟むその冬は、なかなか終わらなかった。
大陸の北の果て、雪深い山あいにひっそりと佇む小さな村。
林業と、わずかな畑仕事で暮らすこの村では、例年なら春の訪れとともに種蒔きの準備が始まる。
けれど今年は、もう五月になろうというのに寒気がまったく衰えず、むしろ寒波が追い討ちをかけてきた。
流れのある川さえ、凍りつくほどに。
「この寒波、異常だよ」
村人たちは苛立ちを隠せなかった。
種蒔きどころか、外に出るのもためらうほどの寒さ。
誰かがぽつりと口にする。
「まるで、氷世雪みたいじゃないか」
氷世雪——それは、遠い昔に起きた大暴雪のこと。
神々や精霊が人と共に生きていた時代、神と魔の争いが引き起こしたとも、人間が神の怒りを買ったとも言われている。
真相は不明だが、その名残は今も、極北の『北の大陸』に残っているという。
山のような竜巻が、いくつも渦を巻いている——そんな噂もあった。
「長老、このままじゃ凍え死ぬか、飢えて死ぬかだよ」
「いっそ、村を捨てて南へ移ったほうがいいんじゃないか?」
そんな会話が、ここ三ヶ月、毎日のように繰り返されていた。
誰もが南へ行くべきだと考えている。
でも、生まれ育った土地を離れるのはつらい。
その思いが、彼らの足を止めていた。
結局、誰も動けないまま、時間だけが過ぎていく。
「諦めちゃ、だめ!!」
不意に、座の後方から声が上がった。
誰もがすぐにわかった。
長老の孫娘、シレーネだ。
十六歳になる彼女は、働き者で気配り上手。
村の誰からも好かれている、明るく優しい娘だった。
「諦めたら、私たちの帰る場所がなくなっちゃうよ」
彼女の脳裏には、数年前に北の大陸へ旅立った両親の姿が浮かんでいた。
幼い彼女を残して、遠くへ行ってしまった両親。
その記憶が、今も彼女の心に残っている。
「でもなぁ・・・」
「そうは言っても・・・」
村人たちは口々に言う。
でも、シレーネは笑顔で言い返した。
「どんなことがあっても、みんなで乗り越えてきたじゃない。これからだって、きっと大丈夫。ね、また一緒に頑張ろうよ」
殺伐としていた空気が、少しずつ和らいでいく。
悲観的になりがちな大人たちの心を、シレーネの明るさが溶かしていく。
「シレーネの言う通りじゃ。ここで負けてしまったら、先達の苦労も、子や孫に顔向けできん」
長老は目を細めながら、春の陽光のような孫娘の姿を見つめていた。
「明けない夜はない。やまない雪もない。どんな寒波も、いつかは緩む。もう少しだけ、待ってみようではないか」
村人たちはしばらく黙っていた。
けれど、次第に農耕民としての誇りと、土と共に生きる強さが蘇ってくる。
「そうだな。今までだって、苦しいことはたくさんあった。森を切り拓いて村を作り、荒れ地を畑にしてきた。今回だけが特別に辛いわけじゃない。きっと、乗り越えられるさ」
誰かがそう言い、他の村人たちも頷く。
その中心に、シレーネは笑顔で立っていた。
◇
シレーネは、北の大陸を望む丘の上に立っていた。
その先に広がるはずの凍てついた大地は、闇色の厚い雲に覆われていて、目には見えなかった。
けれど、彼女の心にははっきりと浮かんでいた。
まるで、見たことがあるかのように。
「やっぱり、ここにいたな」
背後から声がした。
さっきの集会で、最初にシレーネの言葉に賛同してくれた男——ボルガンだった。
「ボルガン! さっきはありがとう。助かったよ」
シレーネにとって、ボルガンは乳兄弟のような存在だった。
彼女の両親が北の大陸へ旅立ってからの七年間、シレーネを育ててくれたのはボルガンの母。
だから、幼馴染みというより、兄妹のように育ってきた。
ただ、世間ではボルガンのほうが『弟』扱いされていて、それがちょっとした不満らしい。
「ほんとはね、みんなの前では強がったけど・・・少し、参ってる」
いつもなら相手の目を見て話すシレーネが、珍しくうつむいていた。
この村の短い夏には、花が咲き乱れ、小鳥のさえずりが響く。
それは、厳しい冬に立ち向かうための、心の支えだった。
特に若い娘たちにとって、花や鳥と触れ合えない日々は、鏡を見ないように言われるのと同じくらい、つらいことだった。
——あの雲を、晴らしたい。
シレーネは強くそう願った。
無駄だとわかっていても、祈らずにはいられなかった。
「なんだよ、らしくないじゃん。いつもの元気はどこ行った?」
「いつも元気でいられるわけじゃないよ。あたしだって、女の子だもん」
確かに、シレーネの体は少女から大人の女性へと変わりつつあった。
それは、身体だけじゃない。
心も、もう子供ではいられない。
ボルガンはしげしげと彼女を見つめる。
けれど、視線を向けるたびに胸がざわつく。
鼓動が聞こえないかとハラハラしていた——いや、聞こえたらどうするつもりだったのか、自分でもわからない。
幼馴染としての距離感が、少しずつ変わっていくのを感じていた。
それが嬉しいのか、怖いのか。
答えはまだ出せなかった。
彼女の笑顔が、昔よりもずっと眩しく見える。
寒さに赤らんだ頬も、風に揺れる髪も、なぜか目が離せなかった。
ほんの少し、手を伸ばせば届きそうな距離。
でも、その一歩が踏み出せない。
シレーネの体は、まだ少女のあどけなさを残している。
けれど、ふとした仕草や笑顔に、大人びた雰囲気が混じるようになってきた。
その変化に気づくたび、胸の奥がざわつく。
『きれいだな』。そう言えばいいだけなのに、喉の奥で言葉が凍りつく。
彼女が笑うたび、胸が痛む。
それが恋だと気づくには、もう少しだけ時間が必要だった。
けれど、いつかこの気持ちに名前をつける日が来る。
それだけは、なぜか確信していた。
ボルガンの視線、吐息のリズム。
生まれたばかりのころから知っている目に、その心の揺れは隠せていない。
ボルガンはまだ意識していない。
意識しないようにしている。
だけど、シレーネには伝わっていた。
シレーネは、ほんの少しだけ視線を逸らしてから、冗談めかして言った。
「肯定しないでよ! お世辞でもいいから、『君は充分綺麗だよ』くらい言ってくれないの?」
ボルガンは、何かを言いかけて、口を閉じた。
その沈黙が、答えよりも雄弁だった。
「・・・ハハハ、そんだけ言い返す元気があるなら、まだ大丈夫だな。俺は薪拾いに森へ行くけど、おまえは村に帰れ。長老が心配するし、女の子に冷えは禁物だろ?」
不器用なボルガンなりの、精一杯の優しさだった。
それは、シレーネにもちゃんと伝わっていた。
「ほんと、バカなんだから・・・」
遠ざかるボルガンの背中を見つめながら、シレーネはぽつりと呟いた。
頬が赤らんでいるのは、寒さのせいだけじゃなかった。
◇
——しばらく歩いたところで、ボルガンは立ち止った。
もう見えないとわかっていて、振り向く。
そっと、言葉を吐き出した。
「きれいだよ」
今はまだ届かない。
届けられない思いを乗せて、囁いた。
足元に目を落とし、こぶしを握る。
冷たい風が、彼の言葉をさらっていった。
それでも、心の奥には、確かに残っていた。
「おまえがいないと、俺はきっと、どこにも行けない」
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