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通常版
第2話 冬の盛りに ②
しおりを挟む——北へ。
突然、声が聞こえた。
遠くから呼ばれるような、耳元で囁かれるような、頭の中に直接響くような、そんな、不思議な声。
シレーネは振り返った。
そこに、一人の女性が立っていた。
春の終わりに着るような軽装。
けれど、この寒さの中では明らかに異常だった。
処女雪よりも白い肌。
腰まで届く銀髪。
そして、寂しげなアイスブルーの瞳。
その美しさは、氷細工のような脆さを持っていた。
髪は北風の中なのに、小動もしていなかった。
そして、その足元が雪に沈み込むようには見えなかった。
彼女の足元には雪の軋む音すらなかった。
まるで、音のない世界から来たようだった。
——北へ。
女はそう呟き、北の大陸を指さした。
瞳が青から赤へと変わり、再び青に戻った瞬間、彼女は消えた。
「北へ・・・」
シレーネは、ぽつりと呟いた。
「北へ・・・!」
夢遊病者のような足取りで、彼女は丘を下りていく。
村を振り返ることもなく、広い森へと。
一歩踏み出すたびに、胸の奥がざわついた。
でも、足は止まらなかった。
初めて入るはずの森の奥なのに、足は迷わなかった。
普段の彼女よりも大胆に、一歩一歩を踏み込んでいく。
まるで森が、彼女の歩みを妨げないように気を使っているかのようだった。
バサバサッ。
静寂を破って、カラスが一羽飛び立った。
「はっ・・・え、あたし・・・!」
カラスの羽音で我に返ったシレーネは、辺りを見渡して息を呑んだ。
気づけば、森の奥深くまで入り込んでいた。
「たしか・・・丘の上で・・・」
あの女性の姿を思い出す。
そして、村のことも。
帰らなきゃ——そう思って振り返った瞬間、背筋がぞくりとした。
暗闇が、まるで彼女の帰路を拒むように立ちはだかっていた。
「どうすれば・・・」
森と共に生きてきたシレーネにとって、森は親友であり、先生だった。
でも、今日の森は違う。
冷たく、よそよそしく、彼女を拒んでいる。
わけもわからず、シレーネはその場にしゃがみ込んだ。
——ヴォォ・・・
静寂を裂くように、冷気の塊が吹き抜ける。
そして、白い何かが彼女を取り囲んだ。
「な、なに・・・!? なんなの・・・!」
返事はない。
代わりに、白いものたちが一斉に襲いかかってきた。
シレーネは反射的に後方へ転がり、半回転して立ち上がる。
それは、獣に襲われたときの対処法だった。
肉食獣に背を向ければ喰われる。
だから、目を離さず、動きを悟らせないようにする。
それが、村人の生きる知恵だった。
けれど、相手は多勢。
しかも、今の彼女は無防備すぎる。
「っ・・・!」
足がふらつく。
膝が笑うって、こういうことなのか——そんな現実逃避が頭をよぎった瞬間、白いものが迫ってくる。
もうダメ——
死を覚悟し、シレーネは目を閉じた。
・・・・・・。
しばらくして、何も起きないことに気づいた彼女は、そっと目を開ける。
白いものたちは、別の人物に襲いかかっていた。
「うひょー! こいつぁ大漁だな!」
アモールは剣をくるりと回し、魔獣の群れに飛び込んだ。
まるで風そのもののように、軽やかに、鋭く。
「雪影がこんなに集まってるなんて、危険を冒して来た甲斐があるってもんだ!」
声の主は若い男だった。
威勢の良さと無鉄砲さが混ざった、どこか暖かい声。
男は『雪影』と呼んだ白いものたちを、軽やかに躱しながら中剣で斬り伏せていく。
風のように軽やかに。
雪を巻き上げながら、獲物を狩っていく。
剣が風を切る。
雪が舞う。
彼は笑う。
次の瞬間、また一体が倒れる。
その姿を見ながら、シレーネは安心感に包まれ、意識が遠のいていった。
——死なないんだ。
そう思った瞬間、気が抜けて、彼女は気を失った。
◇山小屋にて◇
「ん・・・うぅ・・・」
うっすらと目を開けると、視界いっぱいに男の顔があった。
「きゃーっ!!」
反射的に枕を投げつける。
「わぷっ!」
男はまともに枕を受けて、もんどりうってひっくり返った。
どうやらここは、狩人や旅人が使う山小屋らしい。
シレーネは、頭を押さえている男を見て、気を失う前の記憶が蘇ってきた。
「あ、ご、ごめんなさい!」
反射的に謝り、男に駆け寄る。
男は狐の毛皮を羽織り、ウサギの皮で作った手袋と帽子、樹皮のブーツを履いていた。
典型的な狩人のスタイルだった。
「命の恩人に礼より先に枕をぶつけるとは、いい根性してるな・・・まったく」
呆れたように言いながらも、怒っている様子はない。
「自業自得よ。女の子の寝顔にあんなに近づいてたら、枕の一つくらい当然でしょう。・・・変なことしてないでしょうね?」
一瞬、嫌な想像が頭をよぎり、シレーネは自分の服を確認する。
外套は雪で濡れていたせいか脱がされていたが、胸元が少し緩められているだけで、他に乱れはない。
眠るのに苦しくないようにという気遣いだと、彼女は判断した。
それでも、見知らぬ男をすぐに信じるわけにはいかない。
シレーネは、不審そうな目で男を睨みつけた。
薪の香りが鼻をくすぐる。
暖められた空気が、頬を撫でるのがわかった。
窓の外には雪が静かに降っていた。
「そ、そんな怖い顔しないでくれよ。・・・っと、自己紹介がまだだったな。俺はアモール。仲間うちじゃ『風のアモール』って呼ばれてる。臆病風の意味らしいけどな。・・・君は?」
その言葉は、風のように軽かった。
臆病風かはわからないけど、淀んだ暗さはない。
春の風、そんな清涼感がある。
「・・・あたしは、シレーネ。シレーネ・ユリシス」
ぽつりと答える。
薪がぱちぱちと音を立て、炎が壁に揺れる影を落としていた。
「へぇ~、シレーネっていうのか。可愛い名前だね」
アモールは人懐っこい笑顔を見せた。
まだ少し怪しさも残るけれど、疑い出せば誰だって怪しく見える。
シレーネは、自分の直感を信じることにした。
少なくとも、ぎこちないながらも笑顔を返せる相手だと思えた。
「ところで、その可愛いシレーネちゃんが、北の大陸になんの用?」
「えっ?」
突然の質問に、シレーネは目を見開いた。
「寝言で言ってたんだよ。『北へ』って、何度も。ここより北っていったら、北の大陸くらいしかないだろ? 若い娘さんが一人で行くには、ちょっと無茶だと思ってさ」
「な、なんでそんなこと訊くの!? あなたには関係ないでしょ!」
命の恩人とはいえ、寝姿を見られ、寝言まで聞かれていたなんて—— 恥ずかしさよりも、怒りが先に込み上げてくる。
でもアモールは、淡々とした表情で微笑んだ。
「君に興味が湧いたのと・・・なんか、おもしろそうだったから」
「・・・なっ!」
あまりに無遠慮な答えに、シレーネは言葉を失った。
けれど、その一言が、彼女の中で曖昧だった『北へ』という思いを、改めて見つめ直すきっかけになった。
——北の大陸。
幼い頃、両親が彼女を残して旅立った場所。
なぜ、娘を置いてまで行かなければならなかったのか。
何がそこにあったのか。
子供だったシレーネは、母に何度も問いかけた。
でも、返事はなかった。
やがてその思いも、時とともに薄れていった。
それを呼び覚ましたのが、あの女性だった。
幻のように現れ、幻のように消えた彼女が残した言葉——『北へ』。
「・・・あたしにも、北の大陸へ行く意味があるのかは、まだわかってないの。でも、なにかが、誰かが呼んでる気がする。だから、行こうと思った。・・・ううん、行かなきゃいけないの」
そう言い切った瞬間、シレーネはなぜか、ボルガンの顔を思い出した。
でも、振り返ることはなかった。
「本当に、行くのか?」
アモールは確認するように尋ねた。
無謀だと思いながらも、彼女の意志が揺るがないことは、もうわかっていた。
それでも、彼女の口からその言葉を聞きたかった。
「ええ」
シレーネは頷き、視線を足元に落とす。
しばらく沈黙が続いたあと、彼女は立ち上がった。
「こんなお礼しかできないけど、ありがとう」
「待っ——」
戸口へ向かうシレーネを、アモールが引き止めようとする。
「さようなら」
その言葉を遮るように、シレーネは早口で別れを告げ、山小屋を出ていった。
シレーネの前に広がっていたのは、一面の銀世界だった。
◇
どこまでも続く雪原。
その大地に根を張る、フロスト・フラワーの森。
太陽の光を浴びて、銀色に輝く氷の雨。
——美しい。
でも、その美しさは、彼女に容赦ない試練を与えていた。
足元の凍てついた地面は、まるで銀の足枷のようにまとわりつき、数歩ごとに雪を払い落とさなければならない。
森の花は、数キロもある氷の花弁を容赦なく散らし、氷の雨は拳ほどの大きさで、まるで石を投げつけられているような衝撃を与えてくる。
村にいたときは、遠出することなど考えたこともなかった。
服も装備も、雪原を歩くには不十分だった。
野兎の外套は、動きやすくて熱を逃がさないけれど、外からの寒さには弱い。
靴も、雪を防ぐ加工などされていない、ただの藁靴だった。
それでも——
何かに導かれるように、シレーネは北へ向かっていた。
自分の足が踏みしめる、雪の軋む音だけが聞こえている。
自分の意志とは違う、もっと深いところから湧き上がる衝動。
身体が勝手に、北へと引き寄せられていく。
「っ・・・あっ!」
突然、強い風が吹きつけた。
凍った木々がきしむ音が遠くから響いた。
体力が限界に近づいていたシレーネは、前のめりに倒れそうになる。
その瞬間——
誰かの腕が、彼女の身体をしっかりと支えた。
シレーネのは、身をこわばらせた。
恐る恐る、視線を動かす。
手、腕、肩、そして顔へと視線を走らせる。
その顔を見た瞬間、シレーネは安心したように微笑んだ。
風の音だけが響いていた。
彼女は、支えられたまま、しばらく動けなかった。
「・・・アモール!」
彼は、笑って言った。
「俺にも理由はわからないけど、北へ行く用事ができたみたいだ。一人より二人のほうが旅は楽しいだろ? だから、追いかけてきた」
そして、少しだけ真面目な口調で続ける。
「でもその前に、ちゃんと準備しよう。このままじゃ危なすぎる。もう少し西に行けば、自由都市カリスがある。まずは、そこへ向かおう」
半ば強引に手を引かれながらも、シレーネはその手の温もりに心を和ませていた。
この過酷な道を、危険も顧みずに追ってきてくれた——その優しさが、何より嬉しかったから。
——そして、二人の足音が、雪原に新しい道を刻み始めた。
その先に待つ都市は、自由と混沌の入り混じる場所。
けれど、シレーネはまだ知らなかった。
その都市が、彼女の運命を大きく揺るがすことになることを——。
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