45 / 65
通常版
第3話 冬の盛りに ③
しおりを挟む遠くから、波の音が聞こえてくる。
ざぁざぁと、規則的なざわめき。
岩にぶつかって砕ける音が、時折激しく響いた。
潮を含んだ風が、海の方から吹き寄せてくる。
その冷たい風が、厳冬の寒気と混ざり合い、シレーネの身体をさらに凍えさせた。
磯の香りが鼻をかすめても、気にする余裕はなかった。
精神を沈めていなければ、とても耐えられる寒さではなかったのだ。
北の大陸へ渡るには、海を越えなければならない。
そのためには、大きな船が必要だった。
この辺りでそれを持つのは、自由都市カリスだけ。
雪原というより氷原に近い道を、半日かけて歩き続け——ようやく、シレーネとアモールは港町カリスへと辿り着いた。
自由都市カリスは、この大陸でも有数の港町。
他の大陸との交易で栄え、国主を持たず、六人の評議会によって統治されている。
かつては、異国の言葉が飛び交い、香辛料の香りが通りを満たしていたというが——今は、寒さに縮こまった沈黙だけが支配していた。
大通りの両側には、砦のような石造りの商館が並び、街の繁栄を物語っていた。
けれど、寒気の影響か、普段なら賑わっているはずの通りも人影はまばら。
行き交う人々は無口で、街の活気はすっかり失われていた。
「・・・あそこで、少し休もう」
アモールが目を向けた先には、《小竜亭》と書かれた看板の宿屋があった。
酒場も兼ねているらしく、扉の向こうからは陽気な騒ぎが漏れてくる。
街の沈黙が、扉の向こうの喧騒に押し流されるようだった。
「場違いなくらい明るい店ね」
シレーネがそう呟きながら、扉を押し開ける。
錆びた蝶番が軋み、扉がゆっくりと開いた。
途端に、騒がしい喧噪が耳を打ち、潮と汗と酒の混じった匂いが鼻を突いた。
嫌悪感よりも早く、感覚が麻痺しそうになる。
けれど、騒ぎはすぐに静まった。
店内の明かりは、動物の脂を使ったランプと反射鏡のおかげで、外よりもずっと明るかった。
目が慣れるまで、そう時間はかからなかった。
そして、騒ぎが止んだ理由もすぐにわかった。
店の客たちが、二人に視線を向けていたのだ。
値踏みするような、うさんくさそうな目。
氷に閉ざされた街に現れた、若いよそ者の男女を、奇異に思った者もいたのだろう。
シレーネはその視線に気圧され、立ち尽くしてしまった。
視線が突き刺さるたびに、心臓がひとつ跳ねた。
逃げ出したい衝動を、アモールの手が静かに押さえてくれた。
その間にも、アモールは慣れた様子で、空いている席を探す。
奥の方に、四人ほど座れそうな小さなテーブルが空いていた。
彼は黙って、シレーネの腕を引き、男たちの足の間を縫うようにして席へ向かう。
二人が席に着くと、店内は再び喧騒に包まれた。
あるテーブルでは、土地ごとの女性の魅力を語り合い、別のテーブルでは、海での怪奇現象を披露し合っている。
入り口近くでは、少年が曲芸のような踊りを披露し、陽気な歌で小金を集めていた。
客の多くは浅黒い肌に赤茶けた髪。
船乗りだとすぐにわかるが、寒さのせいか、皆が動物の革で全身を覆っていた。
その姿は、まるで山間の狩人のようで、どこか違和感があった。
「飲み物だけでいい? それとも食事も?」
店の下働きらしい若い娘が、快活な声で注文を聞いてきた。
「二階を使わせてもらいたいんだ」
アモールが表情を消して答える。
ちょっと格好つけたつもりらしい。
「泊まるのかい?」
娘の問いに、アモールは頷き、小部屋を一つ押さえてもらった。
そして、アルコールなしの飲み物と、温かくて食べやすそうな食事を注文。
数枚の金貨をテーブルに投げ出す。
娘はそれを無造作に掴み取り、明るい返事を残してカウンターへと向かっていった。
「・・・お金、大丈夫なの?」
シレーネは、少し不安そうにアモールに尋ねた。
この地域では、寒波の影響で物価が跳ね上がっている。
飲み物も食事も、まともに注文すれば目を疑うような金額になるはずだ。
それなのに、店の娘に任せきりで、チップまで渡すなんて—— 彼の金銭感覚に、少しだけ不安がよぎった。
「うん、君のおかげで予定外の収入があったからね」
そう言って、アモールは汚れた布袋から白い毛玉を六つ取り出した。
それは、シレーネを襲っていた『雪影』の毛皮だった。
「・・・せつえい、だったっけ?」
気を失う寸前に聞いた言葉を思い出しながら、シレーネが呟く。
「そう。南の方では、女性用の装飾品として人気があるんだ。見た目の割に通気性が良くて、サラサラの手触りが好評でね。一玉あれば、半年くらい何もしなくても暮らせるほどの価値がある。今なら・・・二ヶ月分くらいかな」
二ヶ月分が一玉。
六玉なら一年分。
それなら、アモールの気前の良さも納得できる。
誰だって、大金を手にすれば少しは派手に使いたくなる。
それを責める気にはなれなかった。
もちろん、これがずっと続くのは困るけれど——
「大丈夫。今夜だけだよ。俺だって、金の使い方くらいは考えてるつもりだから」
シレーネの不安を察したのか、アモールは白い歯を見せて笑った。
ちょうどその時、食事が運ばれてきた。
湯気とともに、香ばしい匂いが二人の鼻をくすぐる。
あとは無言で、空っぽの胃の催促に応じるだけだった。
ただ、シレーネのスプーンを持つ手が震えていた。
寒さのせいか、空腹のせいか、それとも——
アモールは気付いていたが、さりげなく無視をして触れはしなかった。
ただ、次の一口が食べやすいように、皿を少しだけ近づけた。
『無理しなくていい』——そんな言葉が、彼の仕草に込められていた。
「ずいぶん景気がいいみたいだね」
食べるのに夢中になっていた二人の間に、さっきの吟遊詩人の少年が声をかけてきた。
テンかイタチかウサギか——小動物の毛皮を重ねた厚手の服に、微妙な縞模様。
小さな体を包むその姿は、まるでリスのようだった。
きっと、自分を売り込むための演出なのだろう。
そして、彼の最大の武器である丸くて大きな栗色の瞳が、アモールとシレーネの間を忙しく行き来する。
「・・・わかったよ。一曲、頼むか」
少年の目の動きで意図を察したアモールが、やれやれといった表情で言う。
「歌にする? それとも踊りがいい?」
少年は、アモールの投げやりな言葉を軽く受け流し、シレーネに尋ねた。
若くても、プロの吟遊詩人。
金の持ち主と使う人を見分ける目は、しっかりしている。
「じゃあ・・・歌を。明るくて楽しいのを、一曲お願い」
シレーネが答えると、アモールが金貨を一枚、少年に投げ渡す。
「ありがとう!」
少年はそれを空中で器用にキャッチし、まだ声変わりしていない澄んだ声で歌い始めた。
それは、剣士と妖精の小さな冒険を描いた、庶民に親しまれている歌だった。
少年は、まるで歌から出てきた妖精のように、歌いながら、手のひらで小さな火花を散らす細工を見せる。
観客の目を奪うための、ささやかな魔法だった。
少年の歌声は、酒場のざわめきさえも伴奏に変えてしまったかのようで——旅に疲れた二人の心に、静かに、心地よく染み込んでいった。
火花が弾けるたびに、シレーネの頬がわずかに緩んだ。
まるで、心の氷が少しだけ溶けたようだった。
歌の終わりとともに、シレーネはふと窓の外に目をやった。
遠く、海の向こうに霞む北の大陸——その上空を、ひとすじの雲が流れていた。
まるで、誰かが道を示しているように。
呼ばれるように感じたあの声は、まだ彼女の胸の奥で静かに響いていた。
その声に応えるように、彼女の心の奥で、小さな決意が芽吹いていた。
0
あなたにおすすめの小説
商人の男と貴族の女~婚約破棄から始まる成り上がり~
葉月奈津・男
恋愛
「あなたとの婚約、破棄させていただきます!」
王立学院の舞踏会。
全校生徒が見守る中、商家の三男カロスタークは、貴族令嬢セザールから一方的に婚約破棄を突きつけられる。
努力も誠意も、すべて「退屈だった」の一言で切り捨てられ、彼女は王子様気取りの子爵家の三男と新たな婚約を宣言する。
だが、カロスタークは折れなかった。
「商人の子せがれにだって、意地はあるんだ!」
怒りと屈辱を胸に、彼は商人としての才覚を武器に、静かなる反撃を開始する。
舞踏会の翌日、元婚約者の実家に突如として訪れる債権者たち。
差し押さえ、債権買収、そして“後ろ盾”の意味を思い知らせる逆襲劇が幕を開ける!
これは、貴族社会の常識を覆す、ひとりの青年の成り上がりの物語。
誇りを踏みにじられた男が、金と知恵で世界を変える――!
恋い焦がれて
さとう涼
恋愛
小学校時代の担任教諭・佐野に七年ぶりに再会し、話の流れで佐野の恋人へのエンゲージリングを選ぶために一緒にジュエリーショップに行くことになってしまった二十歳の女子大学生・輝。
最初はそんなつもりはなかったのに、次第に佐野を意識してしまうようになり、自分でも困惑してしまう。
必死に自分の想いを打ち消そうとする輝。
だけど佐野も恋人との関係に悩んでいるようで、複雑な想いを抱え続けることになる。
そんな輝を見守る(ちょっかいをかける?)バイト先の店長。
さらに佐野の恋人は意外な人物で、輝は大混乱。
※ドロドロではなく純愛系を目指していますが、ビターテイストなお話です
※理想的で格好いいヒーローではありません(…すみません)
※調べながら執筆をしているのですが、無知なところも多々あるので、間違っているところがありましたら教えてください。ツイッターでも受け付けています。
https://twitter.com/SATORYO_HOME
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
恋と首輪
山猫
恋愛
日本屈指の名門・城聖高校には、生徒たちが逆らえない“首輪制度”が存在する。
絶対的支配者・東雲財閥の御曹司、東雲 蓮の「選んだ者」は、卒業まで彼の命令に従わなければならない――。
地味で目立たぬ存在だった月宮みゆは、なぜかその“首輪”に選ばれてしまう。
冷酷非情と思っていた蓮の、誰にも見せない孤独と優しさに触れた時、みゆの心は静かに揺れはじめる。
「おめでとう、今日から君は俺の所有物だ。」
イケメン財閥御曹司
東雲 蓮
×
「私はあなたが嫌いです。」
訳あり平凡女子
月宮 みゆ
愛とか恋なんて馬鹿らしい。 愚かな感情だ。
訳ありのふたりが、偽りだらけの学園で紡ぐカーストラブ。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる