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通常版
第3話 冬の盛りに ③
しおりを挟む遠くから、波の音が聞こえてくる。
ざぁざぁと、規則的なざわめき。
岩にぶつかって砕ける音が、時折激しく響いた。
潮を含んだ風が、海の方から吹き寄せてくる。
その冷たい風が、厳冬の寒気と混ざり合い、シレーネの身体をさらに凍えさせた。
磯の香りが鼻をかすめても、気にする余裕はなかった。
精神を沈めていなければ、とても耐えられる寒さではなかったのだ。
北の大陸へ渡るには、海を越えなければならない。
そのためには、大きな船が必要だった。
この辺りでそれを持つのは、自由都市カリスだけ。
雪原というより氷原に近い道を、半日かけて歩き続け——ようやく、シレーネとアモールは港町カリスへと辿り着いた。
自由都市カリスは、この大陸でも有数の港町。
他の大陸との交易で栄え、国主を持たず、六人の評議会によって統治されている。
かつては、異国の言葉が飛び交い、香辛料の香りが通りを満たしていたというが——今は、寒さに縮こまった沈黙だけが支配していた。
大通りの両側には、砦のような石造りの商館が並び、街の繁栄を物語っていた。
けれど、寒気の影響か、普段なら賑わっているはずの通りも人影はまばら。
行き交う人々は無口で、街の活気はすっかり失われていた。
「・・・あそこで、少し休もう」
アモールが目を向けた先には、《小竜亭》と書かれた看板の宿屋があった。
酒場も兼ねているらしく、扉の向こうからは陽気な騒ぎが漏れてくる。
街の沈黙が、扉の向こうの喧騒に押し流されるようだった。
「場違いなくらい明るい店ね」
シレーネがそう呟きながら、扉を押し開ける。
錆びた蝶番が軋み、扉がゆっくりと開いた。
途端に、騒がしい喧噪が耳を打ち、潮と汗と酒の混じった匂いが鼻を突いた。
嫌悪感よりも早く、感覚が麻痺しそうになる。
けれど、騒ぎはすぐに静まった。
店内の明かりは、動物の脂を使ったランプと反射鏡のおかげで、外よりもずっと明るかった。
目が慣れるまで、そう時間はかからなかった。
そして、騒ぎが止んだ理由もすぐにわかった。
店の客たちが、二人に視線を向けていたのだ。
値踏みするような、うさんくさそうな目。
氷に閉ざされた街に現れた、若いよそ者の男女を、奇異に思った者もいたのだろう。
シレーネはその視線に気圧され、立ち尽くしてしまった。
視線が突き刺さるたびに、心臓がひとつ跳ねた。
逃げ出したい衝動を、アモールの手が静かに押さえてくれた。
その間にも、アモールは慣れた様子で、空いている席を探す。
奥の方に、四人ほど座れそうな小さなテーブルが空いていた。
彼は黙って、シレーネの腕を引き、男たちの足の間を縫うようにして席へ向かう。
二人が席に着くと、店内は再び喧騒に包まれた。
あるテーブルでは、土地ごとの女性の魅力を語り合い、別のテーブルでは、海での怪奇現象を披露し合っている。
入り口近くでは、少年が曲芸のような踊りを披露し、陽気な歌で小金を集めていた。
客の多くは浅黒い肌に赤茶けた髪。
船乗りだとすぐにわかるが、寒さのせいか、皆が動物の革で全身を覆っていた。
その姿は、まるで山間の狩人のようで、どこか違和感があった。
「飲み物だけでいい? それとも食事も?」
店の下働きらしい若い娘が、快活な声で注文を聞いてきた。
「二階を使わせてもらいたいんだ」
アモールが表情を消して答える。
ちょっと格好つけたつもりらしい。
「泊まるのかい?」
娘の問いに、アモールは頷き、小部屋を一つ押さえてもらった。
そして、アルコールなしの飲み物と、温かくて食べやすそうな食事を注文。
数枚の金貨をテーブルに投げ出す。
娘はそれを無造作に掴み取り、明るい返事を残してカウンターへと向かっていった。
「・・・お金、大丈夫なの?」
シレーネは、少し不安そうにアモールに尋ねた。
この地域では、寒波の影響で物価が跳ね上がっている。
飲み物も食事も、まともに注文すれば目を疑うような金額になるはずだ。
それなのに、店の娘に任せきりで、チップまで渡すなんて—— 彼の金銭感覚に、少しだけ不安がよぎった。
「うん、君のおかげで予定外の収入があったからね」
そう言って、アモールは汚れた布袋から白い毛玉を六つ取り出した。
それは、シレーネを襲っていた『雪影』の毛皮だった。
「・・・せつえい、だったっけ?」
気を失う寸前に聞いた言葉を思い出しながら、シレーネが呟く。
「そう。南の方では、女性用の装飾品として人気があるんだ。見た目の割に通気性が良くて、サラサラの手触りが好評でね。一玉あれば、半年くらい何もしなくても暮らせるほどの価値がある。今なら・・・二ヶ月分くらいかな」
二ヶ月分が一玉。
六玉なら一年分。
それなら、アモールの気前の良さも納得できる。
誰だって、大金を手にすれば少しは派手に使いたくなる。
それを責める気にはなれなかった。
もちろん、これがずっと続くのは困るけれど——
「大丈夫。今夜だけだよ。俺だって、金の使い方くらいは考えてるつもりだから」
シレーネの不安を察したのか、アモールは白い歯を見せて笑った。
ちょうどその時、食事が運ばれてきた。
湯気とともに、香ばしい匂いが二人の鼻をくすぐる。
あとは無言で、空っぽの胃の催促に応じるだけだった。
ただ、シレーネのスプーンを持つ手が震えていた。
寒さのせいか、空腹のせいか、それとも——
アモールは気付いていたが、さりげなく無視をして触れはしなかった。
ただ、次の一口が食べやすいように、皿を少しだけ近づけた。
『無理しなくていい』——そんな言葉が、彼の仕草に込められていた。
「ずいぶん景気がいいみたいだね」
食べるのに夢中になっていた二人の間に、さっきの吟遊詩人の少年が声をかけてきた。
テンかイタチかウサギか——小動物の毛皮を重ねた厚手の服に、微妙な縞模様。
小さな体を包むその姿は、まるでリスのようだった。
きっと、自分を売り込むための演出なのだろう。
そして、彼の最大の武器である丸くて大きな栗色の瞳が、アモールとシレーネの間を忙しく行き来する。
「・・・わかったよ。一曲、頼むか」
少年の目の動きで意図を察したアモールが、やれやれといった表情で言う。
「歌にする? それとも踊りがいい?」
少年は、アモールの投げやりな言葉を軽く受け流し、シレーネに尋ねた。
若くても、プロの吟遊詩人。
金の持ち主と使う人を見分ける目は、しっかりしている。
「じゃあ・・・歌を。明るくて楽しいのを、一曲お願い」
シレーネが答えると、アモールが金貨を一枚、少年に投げ渡す。
「ありがとう!」
少年はそれを空中で器用にキャッチし、まだ声変わりしていない澄んだ声で歌い始めた。
それは、剣士と妖精の小さな冒険を描いた、庶民に親しまれている歌だった。
少年は、まるで歌から出てきた妖精のように、歌いながら、手のひらで小さな火花を散らす細工を見せる。
観客の目を奪うための、ささやかな魔法だった。
少年の歌声は、酒場のざわめきさえも伴奏に変えてしまったかのようで——旅に疲れた二人の心に、静かに、心地よく染み込んでいった。
火花が弾けるたびに、シレーネの頬がわずかに緩んだ。
まるで、心の氷が少しだけ溶けたようだった。
歌の終わりとともに、シレーネはふと窓の外に目をやった。
遠く、海の向こうに霞む北の大陸——その上空を、ひとすじの雲が流れていた。
まるで、誰かが道を示しているように。
呼ばれるように感じたあの声は、まだ彼女の胸の奥で静かに響いていた。
その声に応えるように、彼女の心の奥で、小さな決意が芽吹いていた。
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