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第8話 河図洛書 ② ~ヴァルナ聖典②~
しおりを挟む扉を後ろ手に閉めた瞬間、鈴音ははっきりと気づいた。
ここが、現実とは異なる“異質な空間”であることに。
同時に、自分の精神が肉体からふわりと遊離し、この空間そのものと溶け合っていくような感覚があった。
そこは、どこまでも続く灰色の世界だった。
色の変化は一切なく、ただひたすらに均一なアスファルト色が広がっている。
「聖典は、どこ?」
無限という言葉がそのまま形になったような空間を見渡しながら、鈴音は途方に暮れてつぶやいた。
その瞬間、言葉ではない『イメージ』が、まるで直接脳に触れるように、鈴音の意識に流れ込んできた。
『聖典とは、便宜上つけられた呼称に過ぎない。この空間こそがヴァルナであり、聖典なのだ。尋ねよ、されば答えん』
それは言葉ではなかった。
だからこそ、疑問を挟む余地もなく、鈴音はその意味を、ただ『理解』した。
「わたしは神託に従って、ここに来ました。この後、なにをしたらいいのか教えてください」
『我は記憶。過去の記憶を現在に伝えし者。未来は知らぬ。よって、その問いには答える術がない』
「……では、質問を変えます。この地に、世界全体に平和をもたらす方法はありますか?」
リカートたちは言っていた。
自分は『災厄を防ぐための勇者』だと。
ならば、災厄を防ぐとは、すなわち『平和』をもたらすこと。
鈴音はそう信じていた。
だからこそ、その方法を知りたかった。
いくつかある選択肢の中から、自分にできるものを選べばいい。
そう、単純に考えていた。
だが――
『ない』
その答えは、あまりにも短く、あまりにも断定的だった。
実現が困難でも、いくつかの道が示されると信じていた鈴音にとって、その一言は、目の前が真っ白になるほどの衝撃だった。
その一言が、胸の奥に冷たい刃のように突き刺さった。
息が詰まり、視界がにじむ。
それでも、問いかけずにはいられなかった。
考えてみれば、当然のことなのかもしれない。
この世界が創られて以来、幾億年という時が流れても、真の『平和』など訪れたことがない。
もし本当に平和をもたらす方法があるのなら、一度くらいは、誰かがそれを成し遂げていたはずだ。
それがないということは――平和とは、ただの幻想。
甘い理想家の夢想にすぎないのかもしれない。
「では、なぜ『ない』のか、その理由を」
心理的な崖っぷちに立ちながらも、鈴音はかろうじて踏みとどまり、問いを投げかけた。
答えを聞いたところで、何が変わるわけでもない。
それでも、聞かずにはいられなかった。
『世界は常に、揺れ動く天秤の上にバランスをとって存在している。
光があってこそ影が生まれ、影があるからこそ闇が存在する。
闇があるからこそ、光は自らの存在を知覚できる。
どちらか一方だけでは存在できず、両者が揃って初めて世界は成り立つ。
だが、光と闇は世界の対極を成すもの。
二つが完全に交われば、世界は無に帰す。
ゆえに、光と闇は永遠に敵対し続ける宿命にある。
互いを滅ぼすことなく、しかし譲り合うこともなく、果てしない不毛の戦いを繰り返す――それが、世界の均衡なのだ』
どこか哲学的で、核心をぼかされたような気もした。
けれど、鈴音にはその意味が理解できた。
つまり――プラスとマイナスを足せばゼロになる。
光と闇が完全に交われば、すべてが消えてしまう。
だからこそ、両者は拮抗し続けなければならない。
「……でも……だからって、あきらめてしまったら、それこそ、どうにもならないじゃない。なにか、手を考えた人はいないの?」
理屈では理解できても、心が納得しない。
感情が、理性の制止を振り切って叫んでいた。
それは、ほとんど悲鳴に近い問いだった。
『いる。かつて魔王と戦った勇者たちの中に、それを考え、答えを導き出した者がいた。だが――誰一人として、それを実行した者はいない』
思わず聞いてしまった問いに返ってきた、意外すぎる答え。
それは、崖っぷちに立つ鈴音にとって、天から垂れ下がる一本の蜘蛛の糸のようだった。
あまりにも細く、頼りない。
けれど、唯一の希望。
「その勇者は……今、どこに?」
溺れる者が藁をも掴むように、鈴音はその糸にすがった。
『地上界の中心、《支衛の杜》に』
それが、最後の答えだった。
もう、これ以上聞くことはない――そう感じた瞬間、鈴音の意識は来たときと逆の流れで、ゆっくりと肉体へと戻っていった。
気がつくと、彼女は薄暗く、石の壁に囲まれた狭い部屋の中にいた。
扉を背にして、静かに立ち尽くしていた。
「急がなきゃ、《支衛の杜》へ!」
灰色の世界が遠ざかり、重力と体温が戻ってくる。
まるで夢から覚めたような、けれど夢よりも確かな感覚だった。
扉を出た鈴音は、簡潔にヴァルナ聖典で得た情報をリカートと祭司長に伝え、《支衛の杜》への道を尋ねた。
「《支衛の杜》か……。聞いた話だと、実際に中に入って帰ってきた人間はいないってことだけど……その人、本当にそこにいるのかな」
リカートの疑問はもっともだった。
鈴音自身も、不安がないわけではない。
だが、今の彼女たちには、他に頼れる情報がなかった。
ヴァルナ聖典を信じる――それは、この旅の根幹を成す、大前提なのだ。
「この教会は、地上界の真北に位置しています。
ですから、まっすぐ南へ進めば《支衛の杜》にたどり着けるでしょう。
ただし、森に入るには、土地に慣れた案内人が必要ですし、装備も整えなければなりません。
まずは、《支衛の杜》に隣接するノーランディアという街を目指すとよいでしょう。
そこには、我らエスティリアの教会も、リカートさんたちラファエラの教会もございます。
きっと、助けを得られるはずです」
祭司長の助言に従い、鈴音とリカートはノーランディアの街を目指すことに決めた。
手には、ティアット神殿がヴァルナ聖典の承認を与えたことを示す認定証。
そして、祭司長から各教会への協力を求める手紙。
新たな目的地へと向かう二人の旅が、再び動き出した。
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