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第9話 河図洛書 ③ ~森へ~
しおりを挟むティアット神殿からノーランディアまでは、徒歩で十日かかる長旅だった。
だが、旅を急ぐ必要があること、そして旅慣れていない鈴音の体力を考慮し、二人はアーシェラー山から商業都市ミリカまでを駅馬車で移動することに決めていた。
アーシェラー山とノーランディアを直線で結ぶと、ミリカはその途中に位置し、ノーランディアまでは徒歩で二日ほどの距離。
馬車を使えば、旅程は四日も短縮できる計算になる。
もちろん、それなりの費用はかかる。
だが、四日分の時間を買えるのなら、十日分の旅費を六日で使うことなど、安いものだ。
時間と命は、金では買えないのだから。
ノーランディアは、ミリカから見て広大な草原の果てに位置し、その背後には、深く広がる《支衛の杜》がそびえていた。
薄い翠と濃い碧の中間に浮かぶ白――それが、ノーランディアという街の印象だった。
その歴史は驚くほど古い。
地上界が神々の手によって創られた後、そこに住むべき人々が最初に築いた街――それがノーランディアなのだ。
すでに一万年もの時が流れている。
そんな長い歴史の中で、街と同じ年月を過ごしてきたものは多くはない。
だが、皆無というわけでもなかった。
神々が地上界を創造した際に建てた五つの神殿は、今なお健在であり、街の中心にその姿をとどめている。
北には地の女神マーブル、東には水の女神エデューシャ、南には火の女神アフロス、西には風の女神エオリアの神殿が建ち、 そして中央には、主神ケイファスタンの神殿がそびえていた。
さらに、比較的新しい神殿も存在する。
ケイファスタン神殿の北東には運命の女神アルタミラ、北西には戦いの女神ラファエラ、南東には書物の女神エスティリア、南西には死と闇の女神ツナデの神殿が建てられている。
これら四柱の女神は、比較的最近――とはいえ千年以上前に現れた存在であり、その神殿もまた、建てられてから千年に満たない。
鈴音とリカートは、祭司長の忠告に従い、まずは書物の女神エスティリアの神殿を訪れていた。
本来であれば、リカートの所属するラファエラ神殿に先に挨拶すべきだったのかもしれない。
だが、いつ災厄が訪れるかわからない今、時間はあまりにも貴重だった。
必要最低限の行動以外は慎む――それが、二人の下した判断だった。
「挨拶くらい、そんなに手間じゃないと思うんだけど……」
リカートが小さくつぶやいたが、鈴音は聞こえないふりをした。
エスティリア神殿は、書物の神を祀るにふさわしく、その大部分が書庫として設計されていた。
この書庫は一般にも開放されており、街の人々にとっては、まるで巨大な図書館のような存在だった。
それだけに、この教会は常に知識を求める人々で賑わっていた。
巫女たちは書物の管理や整理に追われ、訪れる者を必要な資料のもとへと案内するため、忙しなく神殿内を駆け回っている。
だが、すべての書物が自由に閲覧できるわけではない。
特に重要かつ貴重な文献が保管されている部屋には、限られた者しか立ち入ることができず、その場には巫女頭と数名の巫女、そして神官たちが常駐し、厳重な警備にあたっていた。
鈴音とリカートは、まさにその部屋にいた。
「《支衛の杜》へ行く、とおっしゃるのですか?」
巫女頭は、驚きというよりも呆れたような表情で尋ねた。
「はい。それが、今の状況で私たちにできる唯一にして最良の手段なんです。これ以外に、世界を救う方法はありません」
鈴音はきっぱりと答えた。
だが、その胸の内には、確固たる自信などなかった。
すべては、ヴァルナ聖典の情報が『正しい』という前提に立った推論にすぎない。
信じたい。
けれど、信じきれるほどの確証はない。
巫女頭によれば、ヴァルナ聖典とは女神エスティリアの『分身』であるという。
だが、神が常に正しいとは限らない。
神であっても、過ちを犯す。
だからこそ、世界の混乱は終わらないのだ。
盲目的に信じるには、あまりに危うい。
「……そうですか。我らにとって、ヴァルナ聖典の言葉はすなわち女神様の神託。逆らうことなどできません。あなた方の助けとなるよう、私たちもできる限りの支援をいたしましょう」
巫女頭はそう約束してくれた。
だが、その約束は、すぐには果たされなかった。
なぜなら――この冒険で最も重要な役割を担うべき人物、すなわち案内人となるべき男が、巫女たちの懇願を拒絶したからである。
その男は、この街でも名の知れた腕利きの狩人だった。
他の猟師たちが決して足を踏み入れない森の奥深くまで分け入り、誰にも真似できないほどの成果を上げていた。
だが、ある日を境に、彼は森へ入るのをやめた。
怪我をしたわけでも、病に倒れたわけでもない。
それまでの生活を捨て、今では毎日、酒に溺れる日々を送っているという。
鈴音たちが目指す《支衛の杜》は、深く、複雑な森の奥にある。
その入口にすら近づける者は限られており、この男を除いて、案内できる者はいなかった。
彼の協力なしに森へ入ることは――まるで浴衣一枚でチョモランマに登るようなものだ。
「わかったわ。あたしが直接説得してみる」
男の住まいは、街の南端――森に最も近い場所にあった。
巫女たちの懇願が拒まれたと聞いた鈴音は、自ら交渉に向かうことを決意する。
その背には、当然のようにリカートが付き従っていた。
その男は、一見したところ狩人には見えなかった。
優しげな顔立ちに、年の頃は十八か十九。
少なくとも、リカートより一つか二つ上といったところの青年だった。
鈴音が思い描いていた『森の案内人』のイメージとは、まるで正反対の人物だった。
彼の家系は代々狩人の家で、一族の誰一人として、まともな墓に入った者がいないと噂されるほど、壮絶な歴史を背負っていた。
実際、彼の両親も五年前、森で消息を絶ち、遺体すら見つかっていない。
「あんたが神の使いだろうが、神そのものだろうが、俺はもう二度と森には行かねぇ。 案内が欲しいなら、他をあたってくれ」
鈴音の懇願にも、男の答えは巫女たちへのそれと変わらなかった。
「なぜ? なぜなんですか!! 前は毎日森に入ってたんでしょう? どうして今になって、行かないなんて言うの!」
もし本当に『行きたくない』というのなら、鈴音は無理に巻き込むつもりはなかった。
自分のわがままで、他人を危険に晒すのは本意ではない。
だが――理由くらいは、聞かせてほしいと思った。
「なぜ? ……それは、こっちのセリフだ。あんたらこそ、なぜ森の奥へ行きたがる? 誰もが恐れ、近づこうともしねぇ森にさ」
「世界の破滅を防ぐためよ! 何度も言ってるじゃない! あんた、頭悪いの!?」
リカートが堪えきれずに声を荒げた。
先ほどから喉元までこみ上げていた怒りを、鈴音のために抑えていたが、ついに限界が来たのだ。
「そいつぁ聞いた。だがな、それだけじゃ神官のあんたはともかく、こっちの娘が命を賭ける理由にはならねぇと思うんだがねぇ」
酒臭い息を吐きながら、男はニヤついたまま鈴音を見つめた。
まるで値踏みするような、いやらしい視線で。
「……本当は、あたしじゃなくて、別の人が来るはずだったの。でも、何かの手違いで、あたしがここに来た。正直、自信なんてない。でも、その人がやるはずだったことは、全部やっておきたいの。じゃないと、今度その人に会ったとき、顔向けできないから」
相手に理由を求めておいて、自分の理由をごまかすことはできない。
少なくとも、鈴音にはできなかった。
だから、彼女は素直に、正直に、自分の思いを口にした。
その言葉が、どんな結果をもたらすかなんて、考えていなかった。
「……その人ってのは、あんたの『良い人』なのかい?」
口調も言葉も、決して上品とは言えなかった。
だが、それはこの男にしては、最大限に真剣な問いだった。
その証拠に――出会ってから一度も崩れなかった意地悪な笑みが、今は消えていた。
「そうなれたらいいなって、思ってた人よ。結局フラれちゃったけどね」
少し照れたように言って、鈴音はふわりと微笑んだ。
それは、同性であるリカートすらも思わず見惚れてしまうほど、穏やかで優しく、まるで月の光のように柔らかな笑顔だった。
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