異境の人 ~鈴音が紡ぐ世界~

葉月奈津・男

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第10話 河図洛書 ④ ~案内人~

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「……なるほどな。いいだろう、案内はしてやる」
 不承不承、そんな感じで大きく息を吐き出す。

 あの笑顔を見ちまったら、断れねぇだろうがよ。
 目をそらして呟く姿に、わずかに彼の純朴さがうかがえた。

「ただし、俺の安全はあんたらが保障しろ。俺はあんたらの安全には責任を持たない。それが条件だ。もちろん、報酬もそれなりにもらうぜ」

 先ほどまでの頑なな態度が嘘のように、話はあっさりとまとまった。

 鈴音もリカートも、危険は承知の上だったし、案内人に自分たちの命を預けるつもりもなかった。
 報酬に関しても、ラファエラとエスティリア両教団がすでに用意してくれていた。

「ありがとう、助かります」

 鈴音はもう一度、あの微笑みを浮かべて右手を差し出した。
 握手のつもりだった。

 だが、男にはその意図が伝わらなかった。
 何を思ったのか、彼はその手を思い切り叩いた。

 肩が外れそうなほどの衝撃だったが、それは不興からではなく、握手という習慣を知らない彼なりの反応だった。
 むしろ、自分の力を示すための行動だったのだろう。

 その力強さは、十分すぎるほど伝わった。
 酒さえ抜ければ、頼れる案内人になるに違いない。

「俺の名はバンボラ。バンと呼んでくれ」

「私は鈴音よ。よろしくね」

 出会って三十分、ようやく互いの名を交わした瞬間だった。

「あたしは鈴音様の護衛、ラファエラの神官リカート。あたしはともかく、鈴音様に失礼を働いたら、 あんたの空っぽの頭をくり抜いて酒杯にしてやるから、気をつけることね」

 リカートは本気の殺意を込めた目で、バンを睨みつけた。

 だが、酔っ払いのバンも黙ってはいなかった。
 リカートの戦士として鍛え上げられた均整の取れた身体を、じろじろと舐めるように見つめて、にやりと笑った。

「じゃあ、あんたなら襲ってもいいのか?」

 ――その直後。

 リカートの肘が、バンの鳩尾に突き刺さった。

 彼は盛大にアルコールと胃液を吐き出し、床に崩れ落ちた。

 女神官とはいえ、戦士として鍛えられた者をからかうべきではない――バンは身をもって、それを学んだのだった。

 まさに、自業自得の見本である。

「……やりすぎたかも」
「いいの。あれくらい、当然よ」

 鈴音たちがバンを連れて教会へ戻ったとき、旅の準備はすでに巫女たちの手によって整えられていた。

 巫女頭の部屋には、鈴音たちのために用意された荷物が山のように積まれていた。

 だが――

 森に詳しいバンは、その荷物の山を一目見るなり、あからさまに舌打ちをし、両手で山をかき分けると、次々と荷物を床に放り投げ始めた。

「な、なにをっ!!」

 八方手を尽くして集めた荷物を、無造作に扱われてはたまらない。
 部屋の隅で控えていた巫女たちが、狼狽の声を上げた。

「森に行くのに、こんな荷物はいらねぇ。必要なのは武器と薬、あとは腕のいい案内人だけだ。森の中じゃ、こんなもん屁の役にも立たねぇ。……まったく、素人ってのはよ」

 ぶつぶつと文句を言いながら、バンは荷物の山を小さなリュック一つにまとめ、残りはすべて放り出してしまった。

 捨てられた中には、保存の利く干し肉や、鈴音への気遣いから用意された衣類――特に下着類――も含まれていた。

「出発は明日の朝、夜明けとともにだ。寝坊すんじゃねぇぞ、お嬢ちゃんたち」

 荷物の『選別』を終えると、バンはそのまま床に寝転がり、いびきをかいて眠り始めた。

 ここが神聖なる教会の一室であることも、周囲にいるのが神に仕える巫女たちであることも、彼にはまったく意に介していないようだった。

「これだから男は……」

 巫女頭は、表情一つ変えずに呟いた。
 舌打ちすらせず、ただ静かに言葉を飲み込んだ。

 その言葉の続きを、誰もがなんとなく察していた。

 ともあれ、いかに重要な案内人とはいえ、男を鈴音やリカート、そして巫女たちと同じ部屋に寝かせるわけにはいかない。

 やむなく、鈴音たちは最も離れた部屋に案内され、その間の部屋には巫女たちが詰めて休むことになった。

 また、バンが寝ている部屋は、重要な書物が保管されている場所でもあったため、念のため封鎖されることとなった。

 とはいえ、封鎖といっても、持ち出し禁止の書物を別室に移し、神官と巫女が交代で廊下を見張る程度の措置である。

 正直なところ、森しか知らないこの男が、書物に興味を持つとは思えなかったのだが――。
        ◇

「よ~し! 出発だ!!」

 威勢のいいかけ声とともに、バンが歩き出した。
 その後ろには、鈴音とリカートが続いていたが――二人の間には、どこか白けたような空気が漂っていた。

 本来なら、夜明けとともに出発するはずだった。
 だが、実際に出発したのは、太陽がすでに空の四分の一ほど昇った頃。
 つまり、かなりの寝坊である。

 だが、誤解してはいけない。
 寝坊したのは、鈴音でもリカートでもない。

 リカートは神官であり、朝には強い。
 夜明け前には目を覚まし、鈴音を起こして軽く朝食をとる余裕すらあった。

 鈴音もまた、寝つきも寝起きも良い。
 誰かが起こしてくれれば、どんなに早朝でも問題なく起きられる。

 つまり――寝坊したのは、バンボラ本人だった。

 それだけなら、鈴音もリカートも、大きなため息ひとつで水に流していたかもしれない。

 だが、問題はその後だった。

 ようやく姿を現したバンは、二人の顔を見るなり、大きなあくびをひとつして、こう言い放ったのだ。

「おう、すまねぇ。久しぶりに酒抜きで寝たもんだから、寝過ぎちまった」

 ――この一言が、すべてを台無しにした。

 温厚な鈴音ですら、思わず眉をひそめた。
 リカートに至っては、今にも爆発しそうな活火山のような表情を浮かべていた。

 それでも、なんとか怒りを飲み込んでいるのは、ここでバンに逃げられては困るという、ただその一点のためだった。

 リカートにとっては、最大限の譲歩。
 まさに、期限付きの執行猶予である。

 今後、森の中で案内に不備があれば――そのときは、遠慮なく蹴り飛ばしてやるつもりでいた。

 そんな一触即発の空気を孕んだまま、一行の旅は、ついに始まった。
 いや、始まってしまった。

 彼女たちを見送る者たちは、その行く手に立ちはだかるであろう、形なき雷雲の気配を、どこか肌で感じずにはいられなかった。

 いろいろな意味で――。
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