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第16話 行雲流水 ④ ~勇者~
しおりを挟む「………?」
当然、熱風が押し寄せてくるものと予想していたリカートは、思わず顔を袖で覆った。 だが、炎が木を焼く音も匂いもないことに気づき、恐る恐る目を開ける。
そこに広がっていたのは、信じがたい光景だった。
「どうやら、人はいたらしいな」
最初から最後までを見届けていたバンボラが、無感動な口調で呟いた。
そこには、巨木を背にして立つ一人の人物がいた。
まるで枯れ木のようにしわだらけの肌。
白髪の老人が、片手であの炎を受け止めていたのだ。
あの火力なら、触れただけで燃え尽きるはず。
だが、老人はまるで焚き火に手をかざすような穏やかな表情で、静かにそこに立っていた。
数秒か、あるいは数十秒か――やがて、炎が衰えたその刹那、老人はその炎を、まるで紙くずでも握り潰すかのように、片手で握り潰してしまった。
「近頃の若者は、年長者に対する礼儀を知らぬのか? いきなり森を燃やすとは、せっかちにも程があろうに…」
木の葉が風にそよぐような、静かな声。
その声とともに、老人はゆっくりと鈴音の方へ歩み寄ってくる。
「いるんならいるで、はじめっから出てきなさいよ! わざわざ訪ねてきてやったのに、そ知らぬ振りをするほうが無礼でしょ!」
リカートが強い口調で詰め寄る。
中級程度の呪文とはいえ、手加減していたとはいえ、片手で防がれたことへの引け目もあったのだろう。
だが、老人はそれを完全に無視した。
「鈴音殿と申されたかな」
挨拶も省き、老人は鈴音に語りかけてきた。
その微笑みは好々爺そのものだったが、その瞳には、どこか深い哀しみが沈んでいた。
「はい。…あなたが、勇者様ですか?」
他に人の気配はない。
そして、リカートの魔法を片手で止められるような人物が、普通の老人であるはずがない。
この人こそが、ヴァルナ聖典に記された『勇者様』に違いない。
鈴音はそう確信していた。
「勇者。勇者、か。ふむ……そうだとも言えるし、違うとも言える。わしは自分が勇者だなどと思ったことはない。だが、人はそう呼んでくれていた。今もそう呼んでくれるかどうかは、知らぬがな……」
そう言って、老人は乾いた笑い声を上げた。
まるで冗談でも言っているかのように。
「して、この老体に何用あって会いに来たのじゃね」
「この世界すべてを救う手立てを、お伺いしに参りました。あなた様が方法を見つけたと、ヴァルナ聖典に教えられて」
単刀直入な問いと返答。
人と人との交渉であれば、もう少し駆け引きがあってもよさそうなものだが――
結論を急ぐ若者と、とうの昔に現場を退いた老人。
その間に、まどろっこしいやりとりは必要なかったのかもしれない。
「……聞いてどうする。 誰一人として実行に移せなかった、困難を極める仕事なのだぞ。おぬしの力だけでできるとでも思うか?」
「できない…でしょうね。でも、やらなくちゃ。やらないままでいたら、できるものもできない。やり始めてしまえば、どうにかなる可能性は出てくる。そうじゃありませんか?」
理屈だった。
だが、それは人類の歴史の中で、幾度となく偉人たちが口にしてきた言葉でもある。
大きすぎるからと石を積まなければ、ピラミッドは完成しない。
長すぎるからと途中でやめていれば、万里の長城はただの砦で終わっていた。
可能性が低いからと放棄すれば、可能性はゼロになる。
だが、実行してみれば案外簡単だった――そんなこともあるのだ。
「……よかろう。教えるだけは教えてやる。どうせ、無駄じゃろうがな」
短く嘲笑を漏らしたあと、老人――いや、『勇者』はようやく重い口を開いた。
その口から語られたのは、人間には想像もつかないような、壮大な世界の構造だった。
かつて、巨人が倒れた。
その屍から生まれたのが、五つの異なる世界。
天界、精霊界、妖精界、人間界、地界。
これらの世界は、まるで水と油のように交わることなく、 一つの容器の中で多層構造を成して存在していた。
特に、地界と人間界の間には、神々によって造られた仕切りがあり、精霊たちがそれを支え、妖精たちの住む地上界がその境界を守っていた。
だが、いかに仕切られていようとも、これら五つの世界は、同じ『根』から生まれた存在。
「いうなれば、五色の砂を層にして瓶に詰めたようなものじゃ。混ざり合わぬが、同じ器の中にある」
ゆえに、一つの世界が崩れれば、他の世界もまた崩壊する。
ちょうど、五階建てのビルの二階が崩れれば、三階以上も崩れ、その重みで一階も潰れてしまうように――。
だからこそ、各世界の住人たちは、知らぬ間に他の世界との調和を保つよう努めてきた。
光と影、表と裏、男と女。
どちらか一方だけでは意味を成さず、存在すら危うくなる。
だが今、その絶対の調和が崩れつつある。
世界を食い荒らす寄生虫――ウォルヅァルによって。
一時的な安寧を望むなら、ウォルヅァルを倒せばいい。
だが、それでは根本的な解決にはならない。
敵対すること自体が、そもそも間違いなのだ。
光か闇か、表か裏か。
どちらか一方に偏った世界だからこそ争いが生まれ、争いがあるからこそ、滅びが訪れる。
もし、すべての世界が光と闇、表と裏を内包していたなら――戦いの意味は失われ、破滅を招く争いも起こらない。
そう考えたとき、やるべきことは一つ。
『世界全体の再編成』
それしかない。
元は同じ存在なのだ。
不可能ではない――だが、実行は極めて困難だ。
淡々と説明した勇者が、言葉を止めて間を置いた。
「誰もが、この『しかし』で諦めてしまった。じゃが、わしはこの『しかし』を消す方法を発見したのだ」
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